「GLA」の初代開祖・高橋信次氏は「10次元宇宙界」出身の大如来であり、「幸福の科学」の初代開祖・大川隆法氏も同じく「10次元宇宙界」出身の大如来です。
同時代で「大如来」が「2名」も生まれてきたわけですが、これは未だかつてなかったことなのです。
少なくともここ「4000年の歴史」ではありませんでした。
「ゼウス神」の時も「大如来」は一人でしたし、「モーゼ」の時も一人でした。
「釈迦」の時も「大如来」は一人でしたし、「孔子」の時も一人でした。
「イエス・キリスト」の時も「大如来」は一人でしたし、「ニュートン」の時も一人でした。
どういうわけか、今回だけは例外であり、「高橋信次」と「大川隆法」と言う「大如来」が、同時代で「2名」も出てきて、「法のバトンタッチ」が行われたのです。
天上界の意気込みがよく伝わる布陣ですが、結果は惨憺たる「あり様」であり、「救世の法」を矛盾だらけにした挙句、何の修正もすることなく、そのまま死んでしまったのです。
「妄想宇宙人」まで「救世の法」の一角を占めてしまっており、「生き神信仰」に走った挙句、「大宇宙」を創造した時の感想まで添えて、「宇宙の創造主」のままお亡くなりになっています。
「私は大宇宙を創造した時、ずっと孤独を感じていた」
大宇宙を創造した時、本人は「孤独」だったそうです。
そのような「妄想」を「真実」のように語り、人さまに信じ込ませたりするから「カルト」なんて言われるようになったのです。
「妄想」と「真実」を分けるものは、「統一」と「矛盾」です。
「妄想」には「矛盾」があるけれども、「真実」には「矛盾」がなく、「統一」があるのです。
だから種村さんも述べておられたと思いますが、「真実」には「矛盾」がないために、「真実」は絶対死なないのです。
「妄想」には「矛盾」があり、この「矛盾」は「物質の属性」ですので、「妄想」は、現象無常でなくなり、消え去り、死んでいくのです。
「生き神信仰」が間違っている理由は、「真の神の姿」を人さまから覆い隠し、「神の存在」を誤解させている点に尽きています。
人間は神さまにはなれないのです。
それでも人間が「神」を名乗るのならば、それは「本当の神の存在」を知らない証拠なのです。
「本当の神の存在」を知っている者が、「神」を名乗ることはないのです。
生前の高橋信次氏が「神仏を名乗る者を決して信じてはならない」と残しているのは、「本当の神の存在」を知っていたからです。
人間が大宇宙を生むことはできず、所詮、人間は神にはなれません。
大宇宙や自然界は、人間では創れないのです。
その大宇宙を自分が創り、人間が創ったと言えば、それは「人間が創れる神」なのです。
人間の創るものは、罪や悪、あるいは地獄界もそうですが、人間の創るようなものは、全て「なくなっていくもの」なのです。
自分が大宇宙を創ったと言うならば、それは「なくなる神」なのです。
「なくなる神」は、「神」ではないのです。
中東の神が、「人間の創ったものを拝むな」と説いてきたのは、人間が創れるようなものは、全てなくなってしまうからです。
「神」は人間では創れないのです。
人間の創ったものは、全てなくなっていきますが、「神」の創ったものは、永遠になくならないのです。
「なくならない存在」を信じ、その「心」と合一した時、人間もまた「なくならない存在」になるのです。
「神」とは、人間が創れるような存在でもなければ、人間が創るもののようになくなることもないのです。
『高橋信次の霊言』では、大川さんは「仏陀の悟り」を得ているという「触れ込み」だったのですが、どう見性しましても「如来の悟り」は持っていなかったのです。
少なくとも教祖の「表面意識」は、「如来の悟り」を持っていませんでした。
それが多くが混乱した「本当の原因」だったのです。
「悟っていない」人間を、「悟っている」と高級霊が言うわけですから、それは周りの人間は混乱するのです。
私も何百回も「何でだ、何でだ」と自問自答し、混乱していた一人です。
「幸福の科学」が、「カルト宗教」と言われるようになった原因とは、教祖の潜在意識ではなく、表面意識の稚拙な判断にあったのです。
「生き神信仰」も大川さんの表面意識の判断だったのです。
諸神霊は、みな「生き神信仰」だけは絶対やってはならないと言っていたのです。
顔写真を100万円で売ったのも表面意識の判断ですし、集団デモや恫喝訴訟も表面意識の判断です。
諸神霊は、非難や中傷を受けた時には「忍辱の教え」を実践することが重要と言い、「北風と太陽」のイソップの寓話で説かれていました。
集団デモや恫喝訴訟は、「北風」をビュービュー吹かせて強制的にコートを脱がせようとする「愚かな行為」であり、高級霊は決してそのようなことはしません。
みずからを「太陽」のようにポカポカにして、コートを脱がせるものである、と言っていました。
フライデー事件の集団デモでも、信者の方の「表面意識」と「良心」とを切り離していました。
真理とは、「神の心」と「人間の心」を同じくし、「良心」と「表面意識」を同じくするものであり、切り離すものではありません。
宗教グッズを売るのも表面意識の判断ですし、御利益祈願の乱発も表面意識の判断です。
潜在意識の釈尊や諸如来が、そのようなことをするわけないのです。
当時、諸神霊は「現世利益を売り物にする教祖は堕地獄である」と言っていたからです。
「謙虚さを失った時、宗教指導者は転落していく」とも言っていました。
「幸福の科学」が「カルト宗教」として認識されるようになっていった原因とは、全て教祖の表面意識の判断にあったのです。
初期の「幸福の科学」では、『心の探究』において、「正法」の「定義と基準」を「3点」上げていました。
1点目は、今まで人類が積み上げてきた「過去の知的遺産」との「整合性」があるかどうかであり、過去の偉人や天才の思想との「共通性」がなければ、それを「正法」とは呼べない。
2点目は、それが真理であるならば、「神からの援助」と思われるような現象を必ず伴っています。
「啓示やインスピレーション」でもいいし、あるいは「GLA」や「幸福の科学」のような「霊的な現象」でもいいですが、何らかの「神からの援助」のような現象があるかどうかが、「正法」か否かを決めていると言っていました。
3点目は、その思想が、一つの理論として筋が通っているということです。
神とは「宇宙の理法」の「体現者」であるため、そこから流れ出てくる教えもまた「宇宙の理法」を体現していなければならず、また生きている人間が見ても、そこに納得のいく「理論」があるかどうかが、「正法」か否かを決めています。
「正法」には、筋の通った「理論」があるけれども、「正法」の定義から外れている教えには、その「理論」がないのです。
仮に「理論」らしき思想があったとしても「矛盾」しているため、とにかく「信じなさい」という飛躍した教えになるのです。
そして「狂信者」となり、「盲信者」になっていくのです。
とにかく「信じなさい」では、「神の心」を具体的に理解していくことはできません。
大川さんは、この3点を上げていました。
1点目は、過去の人類の知的遺産との「整合性」であり、2点目は、「神の援助」であり、3点目は、その真理が「理論」として筋が通っているということです。
これが「正法の定義」であり、基準であると説いていたのです。
もちろん「神の心」か否かの「正邪を分ける公理」は、これだけではありませんけれども、何か表面的で「危うい定義」です。
みんな「悟り」が未熟であった頃の法です。
これが1991年3月の「生き神信仰」を通して、まず1点目の定義を外れ、過去の知的遺産との「共通性」を失ったのです。
過去の偉人、たとえばヘーゲルもそうだし、エマソンもそうでしょうが、「矛盾」(相対的な自我)を「天」に置いたような思想を説いた者は存在しないのです。
ヘーゲルは「絶対精神」と言いましたし、エマソンや高橋信次氏は「自然」を絶対化していました。
西田哲学では、絶対矛盾的自己同一としての「神」を、その哲学の中核に置いていたのです。
「神」という「永遠の統一者」を中心に置いていたから、その思想や哲学が「矛盾」することなく、高い価値を保つことができたのです。
「幸福の科学」は、1点目の過去の知的遺産との「共通性」を失うと同時に、今度は2点目の「神の援助」も失ったのです。
高級霊の霊言を出せなくなりました。
道を逸れた者が、世を救うことはできませんので、「神の援助」を失った場合、早急に「反省」し、その軌道を修正しなければならなかったのです。
修正しない場合、今度は3点目を失います。
現代人の知性や理性に照らして、筋の通った、納得のいく思想を説けなくなり、その行動も取れなくなるのです。
そして「悟り」は低下を続け、最後は悟りを失っていくのです。
「悟り」を失えば、「神の光」も失いますので、魔に蹂躙されていくのです。
自我(矛盾)を「天」に置けば、矛盾した思想や行動にしかなりません。
それでも「信仰」を説けば、単に「信じなさい」という飛躍した教えになるのです。
「神への信仰」とは、「神の心」を理解することであり、「盲信」することでもなければ、「狂信」することでもありません。
ヘーゲルは、今日の我々は、単に神を信ずるというものではなく、神の心を具体的に理解し、認識していくことを命じられていると残しています。
神への信仰には、必ず「悟り」が伴います。
「盲信」と「狂信」には、この「悟り」が伴っていないのです。
「悟り」を伴わない「信仰」ほど実害的なものはなく、実はそれは「信仰」ですらないのです。
「悟り」を伴わない「信仰」は、「信仰」ではありません。
「信仰」と「盲信」、「信仰」と「狂信」を分けているものが「悟り」です。
神への信仰は、必ず「悟り」を伴いますが、「盲信や狂信」は、「神の心」を信じているわけではありませんので、この「悟り」が伴わないのです。
だから宗教の世界では、「偽りの教え」で「洗脳」するしかないのです。
宗教の世界は「洗脳」が多いわけですが、「教育」と「洗脳」を分けているものは「正しい知識」、いわゆる「真理」です。
「正しい知識」を教える時、それを「教育」と言い、「間違った知識」を教える時、それを「洗脳」というのです。
「学問の本質」が常に「真理」にあるのは、もし「間違った知識」を教えれば、それは「洗脳」になってしまうからです。
従って「学問の目的」とは、永遠に「真理」にあるのです。
「真理」とは、「神の心」のことを指しておりますので、「学問の目的」とは、永遠に「神の心」にあるということです。
人間の相対的な自我とは「矛盾」を意味しておりますので、人間の心が「学問の目的」になることはないのです。
「矛盾」が人類普遍の「目的」になることはありません。
「矛盾」なき「統一」、あるいは全ての「矛盾」を「統一」している心が「永遠の目的」です。
すなわち「神の心」です。
それは宗教の世界で、そこの教祖が決して神さまになれないのと同じです。
人間は、大宇宙を生めず、銀河系を生めず、太陽を生めず、惑星を生めず、自然界も生めないからです。
これらの存在は、神のみが生めるのです。
教祖であろうが、如来であろうが、人間は所詮、神にはなれません。
それでも教祖が神さまを名乗れば、「学問の目的」と「矛盾」するのです。
学者のみならず、最高霊域如来界のお歴々は、「神の心」と「神の体」、いわゆる「大宇宙の存在」を永遠に探究しておられるのであり、そこの「神」を名乗る教祖さまの「心」と「体」を探究しているわけではないからです。
「真理の探究」とは、「神の探究」であり、「大宇宙の探究」なのです。
本来、「大宇宙の探究」、いわゆる「神の探究」において「宗教の目的」と「学問の目的」は永遠に一致しているのです。
もしそこの教祖が「神」を名乗り、「生き神信仰」に走れば、必ずその「宗教」は、「学問」や「科学」と対立するのです。
「宗教」は「神の心」を探究し、「学問」は「真理」を探究し、「科学」は「神の体」の物理法則を探究しているのです。
同じ「大宇宙の存在」を探究しているということです。
どこかの教祖の「ご都合主義」や「好悪」を探究しているのではないのです。
宗教宗派を超え、諸学問を超えているのは「大宇宙の存在」、すなわち「神の存在」です。
人類をその心の中心から統合している存在も「神」です。
全てはこの「大宇宙の存在」を探究しているということです。
「GLA」から「幸福の科学」の流れの過程で「救世の法」がおかしくなっておりますので、「復活」と言いますか、「再生」と言いますか、本来の意味に戻しておく必要があります。
これが「レザレクション」(復活・蘇生・復興)です。
























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