密教では「大魔王即大如来」という言葉があります。
この言葉は、SF作家の故・平井和正氏を通して教えて頂いた言葉ですが、平井さんはこの「大魔王即大如来」の意味を「真の大如来となるためには、大魔王の経験を積む必要がある」と解釈しました。
だから「救世主小説」の一つである『新・幻魔大戦』において救世主・東丈の過去世を「由井正雪」とし、「魔人・正雪」として描いたのです。
現代の救世主が、過去世を見てみれば、大魔王として君臨していたため、過去世を明かすことができなくなり、「救世の法」を説かなければならない「救世主」が「輪廻転生の法則」を説けなくなるという「矛盾」に直面したのです。
以後、平井さんの「救世主小説」は、様々な「矛盾」にぶつかりながら、行き詰まっていきます。
「救世主小説」とは、もし現代に「救世主」が生まれた場合、その「救世主」は、一体「人心」をどう導いていくのかという「思考実験」をした小説です。
霊的に優秀な人でなければ書くことはできず、それでも「救世主小説」を書こうとすれば、せいぜいハリウッド映画の軽薄なヒーロー物のような内容になるだけです。
平井さんほどの人でも行き詰まるわけですから、実際、「救世主」をテーマに扱う小説は難しいのでしょう。
平井さんのライフワークは『ルシフェル伝』でした。
『ルシフェル伝』を書こうとする人間は「奇怪な死を遂げる」と言っていたわけですが、少なくとも平井さんは「奇怪な死」を遂げることはありませんでした。
「救世主小説」の行き詰まりは、この「大魔王即大如来」の解釈の不備から生じているように思われます。
「真の大如来となるためには、大魔王の経験を積む必要がある」という解釈は間違いとまでは言いませんが、その解釈に不備があることは否めません。
例えば地球には10次元宇宙界に「大如来」がおられますが、誰も大魔王の経験を積んで大如来になっているわけではありません。
「神の心」を悟って大如来になっているのです。
そもそも大魔王は、神の創った存在ではないため、何も大魔王の経験を積む必要もないのです。
大魔王とて神の創った存在ではありませんので、どの大魔王にしろ、大魔王になる前は天上界で「神の子」として生きていたのです。
すなわちその心の本質に「神の心」を持っているのです。
「大魔王即大如来」の正確な解釈は、大魔王の心の本質にも「神の心」はあり、大如来の心の本質にも全く同じ「神の心」があります。
この「神の心」を見性した時、大魔王と大如来の「絶対矛盾」は解消され、「大魔王即大如来」の悟りになるのです。
まさに西田哲学で説かれる「絶対矛盾的自己同一」です。
「神の心」に大魔王と大如来の矛盾はなく、天国と地獄の矛盾もなく、光と闇の矛盾もなく、善と悪の矛盾もありません。
全ての矛盾は、「神の心」によって永遠に統一されています。
神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎
つまり大天使であれ、大悪魔であれ、その心の本質には全く同じ「神の心」が宿されているということです。
この人間精神の根源的本質である「神の心」が、自己を客体化した世界が目の前にある「大宇宙」です。
だから「主観の統一力」と「客観の統一力」は同じなのです。
「主観」と「客観」の「矛盾」は、「神の心」によって永遠に統一されています。
時間と空間の「相対性の全て」を永遠に統一しているわけですから、神とは「絶対者」なのです。
「絶対者」とは、完全であり、無限であり、永遠です。
この「完全な正しさ」(神の心)が、人間精神の本質であり、「真正の自己」であり、これを悟っていくことが人類共通の「人生の意義」になっているのです。
悟りとは、真正の自己を知る、これに始まってこれに尽きる : 西田幾多郎
「真正の自己」とは、これ「神の心」です。
「本当の自分」です。
人間の「心」の中には「大宇宙」が入っており、それは「完全なる正しさ」と「完全なる善」、すなわち「神の心」が入っているということです。
従って如何なる人間にしろ、わが心を知り、「頂点の悟り」に到達すれば、その「真理の山」の「頂上」には、この同じ「大宇宙」が存在しているのです。
そこで「宇宙即我」の悟りに達し、「大宇宙」が全ての存在を統一し、支配している事実を知ることになるのです。
人類80億人が「真理の山」の「ふもと」から「山の頂上」に向かって登っていきますと、「ふもと」のどの方角から登ろうとも、「頂上」は同じであり、そこには「大宇宙」が存在しているのです。
人類80億人の「多様性」を「統一」しているのは「大宇宙」、すなわち「神の存在」です。
全ての「ふもと」は「山の頂上」につながっており、「山の頂上」によって「統一」されているということです。
「ふもと」で暮らす人類80億人は、全て「神の心」につながっており、「神の心」によって「永遠に統一」されているのです。
この「完全なる神の心」を悟ることが、万人共通の「人生の意義」になっています。
「真理の山」の「頂上」には、「完全なる神の心」があり、「万人の心」はみなここにつながっているのですが、如何なる人間であれ、「1回80年」の人生では、この「完全なる神の心」は悟れないのです。
80年以内に自己の本質である「完全なる神の心」を悟れと言うならば、それは不可能であり、無茶な話なのです。
そのような人は、かつて一人もいなかったし、今もいないし、今後もいないのです。
ただ万人はこの「完全なる神の心」に向かっていることだけは間違いないのです。
この「完全なる神の心」を悟るには、「1回80年」の人生では不可能であり、「永遠」が必要なのです。
だから今回の「救世の法」では、「多次元世界」、いわゆる「あの世の世界」が説かれているのです。
もし「あの世の世界」が存在しなければ、誰もこの「完全なる神の心」、すなわち「天」に到達できないからです。
すなわちあの世の存在の「否定」は、天地分離であり、あの世の存在の「肯定」は、天地一体なのです。
あの世の存在を「否定」すれば、誰も「完全なる神の心」には到達できませんので、「真正の自己」を知り、「神の心」を悟るという万人共通の「人生の意義」を合理的に説明できなくなるのです。
人間は一体何のために生きているのか?
あの世の存在を「否定」すれば、この「人生の意義」を説明できなくなるのです。
「輪廻転生の法則」も同じであり、たった「1回80年」の人生修行で「完全なる神の心」を悟ることはできないのです。
時代と地域を変えて、何度も輪廻転生を繰り返し、人生修行を重ねていく過程で、誰もが「完全なる神の心」を悟っていくことができるのです。
「輪廻転生の法則」を「否定」すれば、誰も「天」(完全なる神の心)には到達できませんので、天地分離の原理に生きざるを得なくなり、人類は「不幸な世界」を永遠に彷徨うのです。
「天地一体の原理」が、人類の「幸福の原理」であり、「天地分離の原理」は、人類の「不幸の原理」だからです。
「輪廻転生の法則」の「肯定」が、天地一体であり、「輪廻転生の法則」の「否定」が、天地の分離です。
今回の「救世の法」において「多次元世界の存在」と「輪廻転生の法則」が説かれているのも、これが理由ですが、GLAの時も、幸福の科学の時も、このような内容の説き方はされていなかったと思う。
GLAの時は、主に「霊道現象」で説いておりましたし、幸福の科学では「副題」を入れることによって、「完全なる神の心」を知る道から、「エルカンの心」を知る道へとすり替えていました。
「統一」から「矛盾」にすり替えてしまったのです。
悪魔が「矛盾」にすり替え、「矛盾」を信じさせようとするのは、一旦「矛盾」を信じさせることに成功すれば、ほぼ無限数の人間を地獄に堕とすことができるようになるからです。
悪魔は必ず「矛盾」に導き、「矛盾」を信じさせようとするのです。
気をつけなければなりません。
古い仏教では、悟りたる「仏陀」は極楽浄土に入り、二度と生まれ変わってくることはないと説かれてきました。
極楽浄土への道は「一方通行」であり、一旦悟り、仏陀となれば、極楽浄土に入るため、二度と苦界であるこの世に生まれ変わってくることはないと信じられてきたのです。
生まれ変わって来る者とは、全て悟っていない「迷いたる人間」であり、悟りたる者は生まれ変わらないという「迷いの輪廻転生」が仏教で説かれてきた「輪廻転生」なのです。
迷いたる者が六道世界(天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)を生まれ変わり、死に変わりしていくのであって、悟りたる者はこの六道輪廻を「解脱」し、抜けているため、二度と生まれ変わってくることはない、と言うのが古い仏教なのです。
この古い教説から「仏陀」の生まれ変わりを名乗っていた大川さんは、批判されていたのです。
仏教では仏陀は生まれ変わらないと信じられてきたため、「仏陀の再誕」を名乗っていた大川さんはよく批判されていました。
仏教で説かれてきた「輪廻転生」とは、「迷っている者」のみが生まれ変わる「迷いの輪廻転生」なのです。
間違いとまでは言いませんが、あくまで方便です。
真面目に修行をしなければ、六道世界を永遠に彷徨うが、真面目に修行をすれば、極楽浄土に入り、二度と苦界であるこの世に生まれ変わってくることはないという、あくまで修行をさせるための「方便の教え」なのです。
「方便の教え」ですから、現実との整合性が取れていないのです。
カントにしろ、ヘーゲルにしろ、エマソンにしろ、みな如来であり、仏陀なのです。
「現実の歴史」は「如来」が色々と生まれ変わっているし、今後も生まれてくるのです。
仏教の「迷いの輪廻転生」では、この現実との整合性が取れないのです。
実際、「如来」の生まれ変わりは「自由選択」であり、生まれてもいいし、生まれなくてもいいのです。
この「生まれなくてもいい」という部分が強調され、「生まれない」と断定的に説かれてきたのです。
実際、エル・ランティのように何億年も生まれてこなかった神霊もいるのです。
それは「如来」は、生まれてもいいし、生まれなくてもいいからなのです。
菩薩以下は強制的に生まれてくる必要がありますけれども、「如来」の生まれ変わりは「自由選択」なのです。
古い仏教の教えは、明らかに「教義疲労」を起こしており、現実との整合性が取れなくなっているのです。
実際の「輪廻転生の法則」とは、仏教で説かれてきた「迷いの輪廻転生」ではなく、逆であり、「悟りの輪廻転生」なのです。
諸神霊も述べておられたと思いますが、最低限の「悟り」を持っていなければ、地上に肉体を持つことはできないのです。
仏教で言う「迷っている者」、いわゆる「地獄霊」は、むしろこの世に生まれ変わってくることはできないのです。
5次元精霊界であろうが、6次元霊界であろうが、最低限の善を悟っていなければ、この世に生まれてくることはできないと言う「悟りの輪廻転生」こそが、本当の「輪廻転生の法則」なのです。
ところが仏教で説かれてきたのは、「悟りの輪廻転生」ではなく、「迷いの輪廻転生」なのです。
実際の「輪廻転生の法則」とは異なる、少し歪んだ「輪廻転生の法則」が説かれてきたのです。
これは「教え」が古過ぎて、「教義疲労」を起こしているということです。
「現実の歴史」と合わなくなっているのです。
数千年前の宗教と言うのは、これは仕方のないことなのです。
たとえ世界宗教であっても、古い宗教というのは「方便の教え」になっており、人類単位の規模となりますと救えないのです。
現代は、より高度な質をもった「神の心」が要求されているのです。
「救世の法」の編纂が意図されたのも、これが理由です。
「自を生かし(7次元神界)、他を生かし(8次元菩薩界)、全てを生かせ(9次元如来界)」という「悟りの段階論」までいきませんでした。
次回以降にします。























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