神の心が「統一」であり、神の体が「矛盾」です。
神の体(矛盾)は、神の心(統一)の表現体ですので、全ての「矛盾」は、神の心によって「統一」されています。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
統一が「天」であり、矛盾が「地」で、永遠に天地一体ですので、統一と矛盾は分かれていないわけです。
統一と矛盾の関係は、統一即矛盾であり、双方は一実在の両方面です。
統一と矛盾を切ったら実在(無限)とはならず、自我(有限)となります。
神の心(統一)と神の体(矛盾)は切れないということです。
それは神の心(統一)と人間の心(矛盾)が切れないのと同じです。
もし恣意的に切れば、人間のほうが地獄に堕ちていきます。
神我が「統一」であり、自我は「矛盾」です。
神我即自我で統一即矛盾であり、この心境の時、地獄はありません。
神の心(統一)が「天」であり、人間の心(矛盾)が「地」で、永遠に天地一体の時、地獄堕ちる人もいなければ、地獄界も存在せず、そこには「地球ユートピア」が存在しているのです。
「地上天国建設の悟り」とは、「天地一体の悟り」なのです。
この世に「地上天国」を創りたければ、人類各人が「天地一体の悟り」を得ればいいのです。
「天地一体の悟り」に地獄なしであり、「宇宙即我の悟り」に地獄なしです。
「神の心」と「人間の心」が合一した時、地獄に堕ちる人はおりませんので、「神人合一の悟り」に地獄なしです。
「神の心」と「人類の心」が合一した時、地獄はなくなり、地獄に堕ちる人もなくなり、そこに「地上天国」ができるのです。
「天地一体の悟り」に地獄なく、「宇宙即我の悟り」に地獄なく、「神人合一の悟り」に地獄なしとなれば、そこには何が「在る」のか。
「地上天国」が「在る」のです。
この地上界に「地上天国」を創りたければ、人類各人が「天地一体」を悟り、「宇宙即我」を悟り、「神人合一」を悟り、神の心と合一していけば、そこに「地上天国」が創られるのです。
「地上天国」とは、「神の心」を「否定」してできる世界ではないのです。
「地上天国」とは、大宇宙や自然界と同様、神の心を「天」に置いた時にできる世界なのです。
従って人類が「神の心」を「天」に置けない限り、「地上天国」はできないのです。
神の創られた正しき世界は、大宇宙にしろ、自然界にしろ、多次元世界(あの世)にしろ、全て「神の心」が「天」に置かれている「永遠の天国」なのです。
人間は「地獄」しか創ったことはありませんが、神は「天国」しか創ったことはないのです。
神はこの世にしろ、あの世にしろ、人類を「地獄界」に住まわせているのではなく、「天国」に住まわせているのです。
今の人類が反面教師になっておりますけれども、この世を「地獄」にしたければ、今の人類と同様、神の体(利益と快楽)を「天」に置けばいいのです。
そこは必ず「地獄」になります。
この世を「天国」にしたければ、神と同様、「神の心」を「天」に置けばいいのです。
そこは必ず「天国」になります。
神は大宇宙を通し、自然界を通し、多次元世界を通して、永遠に「神の心」を「天」に置いておられます。
「神の心」を悟れば、そこには「天国」しかないわけですから、神が「地獄」を創るはずはないのです。
「神の心」を悟っても、悟っても、なくならない世界が「天国」であり、「神の心」を悟れば、悟るほど、なくなる世界が「地獄界」です。
「神の心」を悟れば、なくなる世界が「地獄界」ですので、「地獄界」とは神の創った世界ではありません。
人間精神の本質とは、この「神の心」であり、「真正の自己」です。
ソクラテスが残されているように、「汝自身」を知り、「真正の自己」を知り、「神の心」を悟ったならば、「地獄界」は消滅するということです。
汝自身を知れ : ソクラテス
「汝自身」を知ったならば、「地獄界」は消滅し、そこに「地上天国」があらわれるということです。
悟りとは、真正の自己を知る、これに始まってこれに尽きる : 西田幾多郎
「地上天国への道」とは、「真正の自己を知る道」であり、「神の心」を悟っていく「神の道」にあるということです。
そもそも神は悪魔も悪霊も創っておりませんので、「地獄界」も神の創った世界ではありません。
神は「ひとかけら」の「悪」も創っておらず、「ひとかけら」の「罪」も創っていないのです。
悪魔や悪霊の存在を理解するには、あの世の世界を前提にしなければ理解していくことはできません。
あの世がなければ、「天国」もありませんし、あの世がなければ、「地獄」もないのです。
あの世がなければ、人間の「人生の意義」もありませんし、あの世がなければ、「神の心」もないのです。
あの世があるから、「天国」もあり、あの世があるから、「地獄」もあるのです。
あの世があるから、人間の「人生の意義」もあり、あの世があるから、「神の心」もあるのです。
あの世の存在そのものが「存在の愛」なのですが、仮にあの世があると仮定しますと、人間は死後どうなっていくのでしょう。
あの世の世界そのものが、実は人間ではどうしようもなく、どうにもならないことなのですが、人間が大宇宙や自然界を消すことができませんように、あの世の世界も消すことはできないのです。
あの世の世界が存在することそのものが、「存在の愛」であり、人間ではどうにもならない「永遠の事実」なのです。
従ってもしあの世の世界が存在するとすれば、そこは肉体のない「心の世界」ですので、「善なる心」ならば、波長同通の法則上、「善なる世界」、いわゆる「天国」に住むことになるでしょうし、「悪なる心」ならば、波長同通の法則上、「悪なる世界」、いわゆる「地獄界」に住むことになるでしょう。
あの世の世界がなければ、人間は死後、その「心」は「無」となり、その「心」の中心に存在する「神の心」も「無」となりますので、「人類の平等」はなくなり、「神の心」を悟るという人類共通の「人生の意義」もなくなります。
そもそも存在しない「神の心」と言う「天」には、誰も到達できませんので、「天地分離の原理」の中で永遠に生きることになり、人類は「アダムとイブ」と同様、永遠に「不幸な世界」に生きることになるのです。
「天地分離の原理」とは、人類の「不幸の原理」だからです。
「天」(神の心)に到達できなければ、人間は「不幸」になるしかないのです。
あの世の存在を「否定」しますと、人類はこうして不幸になっていくわけですから、もし「人類の幸福」を真に願うのであれば、あの世の存在は「肯定」するしかありません。
あの世(潜在意識)の世界が存在するということは、死後、人間の「心」は存続しているということであり、「心」は「真実」と同様、なくなることはないのです。
テニスンが残しておりますように「死とは笑うべき不可能事」です。
「宇宙即我」の悟りとは、「大宇宙」は永遠になくならないため、そのなくならない「大宇宙」と一体の「我」もまたなくなることはないという悟りなのです。
死後も人間の「心」がなくならないということは、その「心」の中心に存在している「神の心」もまたなくならないということです。
「神の心」がなくならないということは、「人類の平等」もなくならないということであり、その「神の心」を知り、「真正の自己」を知るという人類共通の「人生の意義」もまたなくならないということです。
「完全なる神の心」がなくならず、あの世の世界も「在る」ということは、「永遠」が「在る」ということであり、人はみな「永遠」を生きているということです。
「完全なる神の心」を「1回80年」の人生で悟れと言われれば、不可能ですが、「永遠」を生きるならば、輪廻転生の過程で、いつか「天」(完全なる神の心)に到達することは可能です。
「あの世の世界」と「輪廻転生の法則」の「肯定」は、「天地一体の原理」に生きるということであり、「あの世の世界」と「輪廻転生の法則」の「否定」は、「天地分離の原理」に生きるということです。
人類の「幸福の原理」とは、「天地一体の原理」ですので、もし人類の「救済と幸福」を真にこい願うならば、「あの世の世界」と「輪廻転生の法則」は「肯定」するしかありません。
これを「否定」すれば、誰も「天」には到達できませんので、そこには「人類の不幸」しかないからです。
これが今回の「救世の法」の重要な柱として「多次元世界の存在」(あの世)と「輪廻転生の法則」が入っている理由です。
人類80億人全員が天国に帰天していくのは「理想」としても、実際、世界がこれだけ悪化しているということは、それだけ悪を犯している人間がいるということです。
諸神霊も述べておられましたが、現代人の「60%以上」は地獄に堕ちているそうですから、やはりそれだけの悪を為している人間がいるのです。
死ねば、全て終わりではなく、あの世の世界というのは、人間ではどうにもならない世界ですので、それだけの悪を為せば、やはり地獄に堕ちてしまうのです。
この地獄に堕ちてしまった人間を、宗教的には「悪霊」や「地獄霊」と呼んできたのです。
もちろん我々と同じ「神の心」を宿した「神の子」であり、同じ「人間」です。
ただとても「天国の善霊」とは言えませんので、あくまで便宜上、今まで「悪霊」や「地獄霊」と呼んできたのです。
彼らも全て反省行が済めば、みな天国へと帰天し、「善霊」に戻っていくのです。
地獄に堕ちる人の中にも色々と「悪の質」の高低があり、その「悪の質」に比例した世界に堕ちていきます。
その中には「一部」飛びぬけて「酷い悪」を犯す人間がおり、宗教ではそれを普通の「悪霊」や「地獄霊」と区別して、「悪魔」や「魔王」、あるいは「サタン」と呼んできたのです。
地獄界最深部に最も多いのは、人の心を狂わせてきた「宗教家」であり、次に間違った政治指導者、あるいは人を殺すことを何とも思わなくなっている軍人等々です。
こういった人間が深い地獄に堕ちていきます。
堕ちて行く世界も、かなり深い世界まで堕ちていくそうであり、諸神霊は視覚的に言えば、悪魔というのはマリアナ海溝ぐらいの深さまで堕ちていくと言っていました。
地獄界の最深部は、「1万メートル」ほどはある、と。
諸神霊も、何とか悪魔を救おうとして最深部まで行こうとするのですが、波動が荒過ぎて行くことが非常に困難であり、また説得にも一切応じないため、救いようがなく、「魔王」や「サタン」クラスになりますと、「中々言うことを聞かない」と嘆いていました。
このような歪んだ世界に長く住んでおりますと、その霊体まで異様なものに変化していくのです。
心のあり方がそのまま霊体に反映されるためです。
とても元人間とは言えないような姿になっておりますので、それをそのまま霊視すれば、とても同じ人間には見えないのです。
そして益々「悪魔」や「サタン」と言った存在を誤解していくことになるのです。
百鬼夜行の魑魅魍魎の世界であり、理解することが非常に困難となり、訳の分からない世界になっていくのです。
この悪魔や魔王と言われる「タチの悪い」霊は、その数は定かではありませんが、とても数万人ではきかず、数十万人はいると、あの世のスウェーデンボルグも言っていました。
これも単に地獄界で隔離されているわけではなく、この世の人間に憑依を通して霊的に干渉してくるのです。
特に宗教の世界では「96%」の教団が悪魔のコントロール下にあると言っていました。
地獄界の人口が増えれば、増えるほど、地上界もまたその干渉を通して混乱を増していくのです。
この混乱を食い止めるには、この世を縁として地獄界の人口が増加しているわけですから、この世に一人も地獄に堕ちることなき「地上天国」を創るしかないのです。
悪魔との闘いは、生死の戦いであり、負ければ死にます。
これは「大川隆法氏」(中川隆)の実の兄である「富山誠」(中川力)ですが、悪魔に殺された「実例」です。
記事の真ん中あたりからですが、富山誠で検索(F3)すれば出てきます。
菩薩界の方だったのです。
大川さんも京都で三日三晩、悪魔・覚鑁と対決し、祓おうとしていたのですが、祓えなかったのです。
その結果、30代の若さで、40才になるかならないかの年齢で死んでしまいました。
あの世の日蓮は「正法行者と言うのは、職業戦士であり、魔との闘いは避けられない」と言っていたのです。
その避けられない闘いに負ければ、こういうふうに死んでしまうのです。
だから「己心の魔」に勝利するしかないのです。
負ければ死にます。
勝利すれば生きますので、「勝敗」とは「生死」を意味しているということです。



























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