真理関係

レザレクション 2

信ずる人も信ずる人でね、その人が過去世で偉い人だから、その人を信ずると、こんなことではいけないのですよ。

過去世では本当に偉い人かもしれないけれども、それは過去世の話なのです。

ですから、今世の人となり、教えの内容を見て判断しなければいけない。

とくに現代の新興宗教を見ると、どうも生き神様がでてくる傾向がある。

死んでからはともかくとしても、生きているうちから生神様になって崇(まつ)られている。

この方が言っているんだから絶対だと、間違ってても何でもいいからそのまま信じちゃって、それに対する批判でもでようものなら、一蹴(いっしゅう)するか押え込んでしまう。

あるいは、悪魔、悪霊が憑(つ)いているなどと言って、名指しで批判する。

こういうことをよくされているようです。

こういうのはすべて、偉いということを誤解しておるんです。

真理はいつも同じなんです。

偉いと思っている人は低くせられ、低いと思っている人は偉くされるんです。

ソース : 親鸞聖人霊示集 第3章 一遍上人の霊訓

本当は、この堕天使の本当の理由は結局何かというと、みずからが神になろうとしたその思い上がりにあったわけであります。

これは決して古い昔のことだけではありません。

現代においても数多くあるのです。

あちこちに新興宗教が数多くあるでしょう。

その教祖たちが大なり小なり、そのルシフェルのかつての姿を示しているのです。

あまりにもみずからが偉いと思い込みすぎたということです。

みずから自身がもう神となってしまって、生き神様となってしまって生きた時に、そうしたことが起こるということです。

それは神の世界には偉大なる世界というのがあるけれども、また謙虚さも神の属性のひとつです。

なぜ謙虚さが美徳といわれるのか。

それは、謙虚さのなかには自分を生かし人を生かすものがあるからです。

ソース : 新・モーゼ霊訓集 第5章 大自然の章

宗教の世界では、よく「生き神さま」や「救世主さま」を見かけますけれども、悟っていない人ほど「生き神信仰」に耽り、「救世主」を名乗るものです。

それは「本当の神の存在」を知らない事実を、みずから暴露しているのです。

人間は「大宇宙」を生めず、「太陽」を生めず、「自然界」を生めませんので、所詮、「神」にはなれないのです。

その人間が生んだわけでもない「太陽」や「自然界」に、過去・現在・未来の「全人類」はみな生かされているのです。

「大宇宙の存在」や「自然界の存在」のことを「真の神」と言うからです。

20秒です。

神はこの自然界、大宇宙そのものが神なのです」と言っているはずです。

この世であれ、あの世であれ、我々の暮らしている「世界」そのものが「神」なのです。

だから「幸福の科学」でも最初期、「全体の法」とは、大宇宙の構造と仕組みを解き明かし、多次元世界の構造と仕組みまで解き明かした「法」であると言っていたのです。

「大宇宙」と「多次元世界」という「世界」に「完全なる神の心」は表現されているからです。

何も「高橋信次氏」だけではないのです。

かつて「神の思想」を悟られていた方々は、「ヘーゲル」にしろ、「エマソン」にしろ、「西田幾多郎」にしろ、みな同じ結論に到達しており、「大宇宙の存在」が「神」である事実を悟っておられたのです。

理性的なものは、現実的であり、現実的なものは、理性的である : ヘーゲル

自然は完全である : エマソン

一般人がそれを理解できるかどうかは別として、少なくとも彼らは「神の思想」を明確に残されています。

宗教の世界における「究極の悟り」とは、「宇宙即我」の悟りですが、「大宇宙」と「我」が一つであるということは、「大宇宙の存在」が「神」である事実を人間の身でありながら悟ったということなのです。

「宇宙即我」の悟りとは、宗教の世界では「頂点の悟り」ですので、「救世の法」では「土台と基礎」に置かざるを得ないのです。

これを超えた「悟り」は存在しないからです。

「あの世」、いわゆるこの「多次元世界」でも、最高霊域におられる諸神霊のお歴々は、みな共通してこの「宇宙即我」の悟りをもっておられるのです。

従って「宇宙即我」の悟りを説けない思想は、真理ではないのです。

「救世の法」は「宇宙即我」の悟りを説けますが、そうでないものはこの「宇宙即我」の悟りが説けないのです。

現代宗教においてその宗教団体の「正邪」を分ける悟りとは、この「宇宙即我」の悟りなのです。

「正」なる宗教は「宇宙即我」の悟りを説けますが、「邪」なる宗教は、この「宇宙即我」の悟りを説けないのです。

良くても物質に比喩した「方便の善」しか説けません。

「方便の善」とは「有限の善」ですので、決して無限化してはならない思想なのです。

それでも無限に伝道していけば、その「悟りの質」の低さから、どうしても悪が無限に現象化してくるため、むしろ世界を悪化させるものになるからです。

これが「既存の宗教」を世界中に広げても、決して世界が良くならない理由なのです。

人類全体に無限に伝道し、無限に広げていい思想とは、この「宇宙即我」の悟りです。

大宇宙は「無限」ですので支障がないのです。

「救世の法」は、その思想面では「宇宙即我」の悟りが基本と土台にありますが、行動面では「宇宙の心」と「人間の心」を同じくし、「自然界の心」と「人間の心」を同じくしようとするのです。

やはり「救世の法」とは、「宇宙の心」と「人間の心」を同じくする「宇宙即我」の道であり、「自然界の心」と「人間の心」を同じくする「自然即我」の道なのです。

この「悟り」は、数千年前から変わっておらず、今後も変わらないのです。

これを超える「悟り」は「ない」からです。

「大宇宙」と「我」との「融合の度合い」の相違はありますが、この「融合の度合い」は「無限」なのです。

「神の心」と「自己の心」との「融合の度合い」を「悟り」というのであり、この「悟り」に「上限」はありません。

「神の心」と「自己の心」が「融合」していけば、いくほど、その「内奥の意味」がいくらでも出てくるのです。

まさにヤコブ・ベーメの言った底がない「無底」の世界です。

「無底の悟り」です。

そのいくらでも出てくる「内奥の意味」を知っていく過程が、「神の心」を知っていく過程なのです。

「神の心」と「自己の心」は、永遠に一体であるということです。

永遠に一体であるということは、「自己の心」の中に「神の心」はあり、「神の心」と「人間の心」を切り離すことは永遠にできないということです。

「神」は自分に似せて「子」を創られたのです。

宇宙は「神の心」の表現体であり、「神の心」と「神の体」で構成されておりますように、神の子・人間もまた「心」と「体」で構成されています。

永遠に「人間の体」は、「神の体」(自然界)が育て、「人間の心」は、「神の心」が育てているのです。

人は神の言葉の一つ一つによって生きるとは、これを意味しています。

「人間の心」は、「神の心」によって育つのです。

換言すれば、「人間の心」は、「神の心」によってでなければ育たないのです。

人間とは、親がいなければ、健全に育つことのできない子供のようなものです。

「心」も「体」も育ちません。

「人間の体」もまた「神の体」(自然界)が育てており、自然界の空気や水、大地から生えてくる野菜や果物、米や麦を食べなければ生きていくことはできません。

「人間の体」は、「神の体」(自然界)が育てているのです。

キリスト教を離れても、人間が生きていくことはできますが、「神の体」(自然界)と離れて生きていくことのできる人間は存在しません。

仏教を離れても、人間が生きていくことはできますが、「神の体」(自然界)と離れて生きていくことのできる人間は存在しないのです。

一人もいないわけです。

過去・現在・未来を通して「自然界」(神の体)と離れて生きることのできる人間は一人も存在しません。

「人間の心」も同じであり、「神の心」と離れて生きることのできる人間は存在しないのです。

「神の心」の典型は、たとえば「真心と優しさ」がありますけれども、「真心と優しさ」を離れて「人間の心」は生きられないのです。

もし人生の「50%以上」、この「真心と優しさ」(神の心)と「人間の心」が離れてしまえば、実際、地獄に堕ちてしまうのです。

「人間の体」と同様、「人間の心」もまた「神の心」と離れて生きられないわけです。

「人間の体」は、「神の体」(自然界)と離れて生きていくことはできず、「人間の心」もまた「神の心」と離れて生きていくことはできないのです。

人間は「神の心」とも離れることはできず、「神の体」とも離れることはできないのです。

試しに宇宙空間に出てみればいいのです。

誰一人「80年」も生きることはできません。

人間が「80年間」生きることができるのは「神の存在」、すなわち「自然界」と一体だからです。

誰であろうが、「自然界」(神の体)と離れて生きることのできる人間は一人も存在しないのです。

「自然界」、すなわち「神」と一体でなければ、人間は誰一人生きていくことはできません。

「神の心」と「神の体」で構成されている「大宇宙の存在」、すなわち「神」と「人類」は一体でなければ生きることはできないのです。

人間の創った宗教を離れても、人間は生きていくことはできますが、「自然界」(神の体)と離れますと、誰一人生きることはできません。

「自然界の存在」のことを「神」と言うからです。

「神」と離れて生きられる人間は存在しません。

これが人間という存在は、その「心」も「体」も、「神の心」と「神の体」を離れて生きることはできないということなのです。

もっと言えば、この事実が「人間」は、誰であろうが、「神」と離れて生きていくことはできないという意味なのです。

この「神」への信仰が「自由」のわけありません。

「神」と離れて生きることができなくなるのは、「人間」のほうであって、「神」のほうではないからです。

今の人類は、要は「大宇宙の存在」や「自然界の存在」そのものが「神」であるという「不変の事実」を知らないだけなのです。

おかしな宗教が、おかしな神への信仰ばかり説いているから、一般的には警戒されてしまうのです。

ただ「救世の法」が説かれる時代というのは、そういうわけにもいかないのです。

今回、『神約民主論』国家の実現を通して、「大宇宙の絶対的権威の確立、人間精神の本質の客観化、神の存在の永遠化」を実現しようとしているわけですが、ここで言う「神」とは、「大宇宙の存在」であり、「自然界の存在」であり、「多次元世界の存在」なのです。

これが「既存の宗教」では、あまり全面に出て説かれていないのです。

「大宇宙の存在」が「神」であるという事実を知らないからであり、悟っていないからです。

今後の人類は、「真の神の存在」のことを理解し、知っていく歴史になるということです。

今までの歴史のように、「神」や「宗教」というのは、よく分からないという時代にはなりません。

「神の存在」を正確に理解していく歴史になるのです。

「神の存在」を正確に理解していくということは、人類と世界は良くなっていくしかないのです。

逆から言えば、今までの歴史は、「神の存在」を正確に理解してこなかったから「不幸な歴史」になったのです。

「神の心」を理解して、良くならない「人間」はいません。

「人類の未来」は、相当に明るいのです。

「救世の法」では、これが全面に出てきて説かれていくということです。

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