悟りとは、真正の自己を知る、これに始まってこれに尽きる : 西田幾多郎
「真正の自己」とは、これ精神の本質であり、「神の心」です。
宇宙は神の心の表現体であり、神の体である : 高橋信次
つまり人間精神の根源的本質(神の心)が、目の前の大宇宙を創造したということです。(宇宙即我)
従って「神の心」(真理)というのは、この大宇宙や自然界という「現実」に表現されているのです。
理性的なものは、現実的であり、現実的なものは、理性的である : ヘーゲル
人類は「偽りの世界」に生きているのではなく、「神の心」が永遠に「天」に置かれている「真理の世界」に生きているのです。
「神の心」を「天」に置けば、そこは「天国」となり、「神の体」(利益と快楽)を「天」に置けば、そこは「地獄」になるのです。
神の創られた世界は、この世にしろ、あの世にしろ、永遠に「神の心」が「天」に置かれている「天国」ですが、今の人類は「神の体」(利益と快楽)を「天」に置いておりますので、「地獄」になっています。
従って「天国」の心の基準は「神の心」ですが、「地獄」の心の基準は「神の体」(利益と力)です。
今の文明は、「天国」よりも「地獄」に近いのです。
神の創られた正しき世界は、全て「天国」ですが、人間の創る文明は、全て「地獄」になっています。
「罪の世界」と言い換えてもいい。
あの世の地獄界でも、地獄が地獄であるゆえんとは、「神の体」(利益と快楽)を「天」に置いていることです。
地獄界では「神の心」を「天」に置けないのです。
「神の心」を「天」に置けなければ、その「神の心」が永遠に「天」に置かれている、目の前の大宇宙や自然界と融合していくことはできません。
すなわち自然界と人類は分かれ、大宇宙と人類が離れてしまうのです。
過去・現在・未来の人類にとって、その永遠不変の「善悪の基準」とは、「大宇宙の存在」であり、「自然界の存在」であり、「多次元世界の存在」です。
大宇宙や自然界、並びに多次元世界の存在そのもののことを「神」と言いますので、未熟な人類にとって永遠不変の「善悪の基準」とは、「神の存在」であると言うことです。
宇宙即我が「善」であり、宇宙と我とが離れれば「悪」なのです。
自然即我が「善」であり、自然と我とが離れれば「悪」なのです。
多次元世界即我が「幸福」であり、多次元世界と我とが離れれば「不幸」になるのです。
「天国」を創りたければ、「神の心」を「天」に置けばいいのであり、「地獄」を創りたければ、「神の体」(利益と快楽)を「天」に置けばいいのです。
簡単なことです。
「地獄」を創りたい人はおりませんので、未熟な人間は「神の心」を「天」に置くしかないのです。
それ以外の選択肢はありません。
「神の心」を「天」に置かなければ、「天国」を創ることのできない構造と仕組みになっているのです。
人類各人の「未熟」と「悟り不足」を原因として結果、「神の体」(物質)を「天」に置いた「地獄」を創ったのです。
人類の「全ての不幸」の原因とは、この人類各人の「未熟」であり、「悟り不足」です。
相対的な物質とは、「矛盾」を意味しておりますので、「矛盾」を「天」に置けば、悲惨な世界になるのです。
統一が「天」であり、矛盾が「地」で、永遠に天地一体ですので、「矛盾」を「天」に置けば、天地が切れます。
天地の分離は、人類の「不幸の原理」ですので、今の人類は不幸になっていくしかないのです。
この「人類の不幸」に歯止めをかけ、食い止めるには、「神の体」を「天」に置いた世界を「悔い改め」、「神の心」を「天」に置いた世界を建設していくしかありません。
地上天国とは、大宇宙や自然界と同様、「神の心」を「天」に置いた世界なのです。
「神の心」を「地」に置けば、地上天国を創ることはできません。
「神の光」は、「神の心」に付随しておりますので、「神の心」を「天」に置いて悟らなければ、人類の「心」からこの「神の光」が出てこないのです。
「神の光」が出てこなければ、その人は地獄に堕ちるしかないのです。
人類の全てが「天国」に帰天していくには、要は自己の「心」からこの「神の光」を出せばいいのです。
「神の光」は、「神の心」に付随しておりますので、畢竟、自己の心から「神の光」を出していくには、「神の心」を何某か悟るしかないと言うことです。
これが「神の心」が人類を救うという意味なのです。
「神の心」を「悟る」か、あるいは「神の心」に照らして「反省」するかしませんと、自己の心からこの「神の光」が出てこないのです。
「神の心」を悟っても神と合一しますし、「神の心」に照らして反省しても神と合一するのです。
「神の心」と「自己の心」が合一するために、「神の光」が出てくるのです。
正法とは、神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけなのです : モーゼ
神人合一が「善」であり、神人分離が「悪」です。
「神の心」と合一すれば、人間は「善の存在」になるのであり、「神の心」と分離すれば。人間は「悪の存在」になるのです。
人間が「善の存在」になるのか、あるいは「悪の存在」になるのかは、ひとえに自己の心の本質に依っています。
「完全なる神の心」は、単に個人の「心」の中に存在するだけではなく、大宇宙や自然界に表現されています。
悟りとは、「真正の自己」を知ることであり、「神の心」を悟ることです。
「真正の自己」のことを「神の心」と言うからです。
誰であろうが、「真正の自己」を頂点まで悟れば、等しく「宇宙即我」の悟りに到達します。
神の創られた世界は「山」と同じであり、多様な「山のふもと」は、全て同じ「頂上」につながっているのです。
東西南北、どの方位から登ろうが、最後は同じ頂上に到達し、「宇宙即我」の悟りを得るのです。
「山の頂上」の「一」は、「山のふもと」の「多」と直結しており、神の創られた世界は、どこまで行っても「一即多、多即一」の世界です。
多様性は、全て「神の心」によって永遠に統一されているということです。
神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎
人間精神の根源的本質には、この「神の心」が存在しています。
それは「完全な善」であり、「完全な美」であり、「完全な真」であり、「完全な正義」です。
今回、「救世の法」の柱の一つに「あの世の存在」、いわゆる「多次元世界の存在」が入っているのは、この人間精神の本質である「神の心」は、「1回80年」の人生では悟れないからです。
「完全な正義」や「完全な善」を、80年以内に悟りなさいと言われましても、悟れる人間は存在しません。
誰も悟れないのです。
80年と言う有限の時間内で「完全なる神の心」を悟れる者はいないのです。
それを「1回80年」の人生で悟れと言われましても、無茶を言ってはいけません。
そのような人は、かつて一人もいなかったし、今もいないし、今後もいないのです。
自己の心の本質にある「完全なる神の心」は、わずか「1回80年」の人生では悟れないのです。
すると一体、人間は何のために生きているのかという「人生の意義」を説明できなくなるのです。
「真正の自己」を知り、「神の心」を悟るために人間は生きているわけですが、わずか80年で死亡し、「無」になる存在が人間であるならば、誰もこの「神の心」を悟るという「人生の意義」を合理的に説明できなくなるのです。
一人一人の「心」の中には、確かに「完全なる神の心」が等しく宿っているのです。
霊格の高い者にも、霊格の低い者にも、等しく「完全なる神の心」が存在しています。
「神の心」を悟ろうとしない、その人類各人の「未熟」と「悟り不足」が、人類の「全ての不幸」を生んでいるわけですから、その人類の「全ての不幸」を消滅していくには、人類各人が「神の心」は悟っていくしかありません。
ここでも人類にこれ以外の選択肢はないのです。
「神の心」は、人類の「全ての不幸」の源と原因になっている、人類各人の「未熟」を消滅してくれる唯一の「心」ですので、「神の心」が人類を幸福にしていくと言えるのです。
「神の心」を悟らずに、人類が幸福になることはできないのです。
人類の「全ての不幸」の原因となっている「未熟」が消滅せず、「悟り不足」も解消されることがないからです。
人類各人が「未熟」なままならば、「人類の不幸」を消滅することはできません。
だから人間は「神の心」を悟っていくしかないのです。
悟りが「未熟」を消滅するのです。
「未熟」の消滅が、「不幸」の消滅です。
ところがこの人間の「未熟」を消滅してくれる「完全なる神の心」とは、「1回80年」の人生では悟れないのです。
すると「神の心」を悟り、「真正の自己」を知るという「人生の意義」を説明できなくなるのです。
「1回80年」の人生では、誰も「完全なる神の心」に到達することはできませんので、誰も「天」(神の心)に到達できないからです。
到達できない「天」(神の心)が、人間の「人生の意義」になることはありません。
「天地の分離」は、人類の「不幸の原理」ですので、あの世の存在を否定すれば、天地は分離し、人類は今後も不幸になっていくしかないのです。
「完全なる神の心」を悟り、知ることが、万人の「人生の意義」と言いましても、「1回80年」の人生では、誰も悟ることはできませんので、それを悟るには「永遠」を必要とするのです。
すなわちあの世の世界(永遠の世界)です。
神は人間に80年で悟れるような心を与えたのではなく、「永遠」がなければ悟れない心を与えたのです。
「1回80年」の人生ではなく、あの世の世界があり、人間は等しく「永遠」を生きていくとすれば、自己の本質である「完全なる神の心」にいつか到達できるのです。
永遠の世界、すなわちあの世の世界が存在するならば、人は「1回80年」の人生で到達できなくても、いつか「完全なる神の心」に到達することができるのです。
あの世の世界、いわゆる「永遠の世界」が存在するとすれば、人間は誰でもいつか「天」(完全なる神の心)に到達できるということです。
だから「救世の法」の柱の一つに「多次元世界」が入っているのです。
あの世の存在を否定すれば、誰も「天」には到達できないからです。
「1回80年」の人生で「完全なる神の心」は悟れないのです。
誰も「真正の自己」には到達できないということです。
誰もが「真正の自己」に到達するには、「永遠」を必要とするのです。
「永遠」があれば、「天」に到達できるのです。
あの世の世界の「肯定」が「天地一体」であり、あの世の世界の「否定」が「天地の分離」です。
「天地の分離」は、人類の「不幸の原理」ですので、あの世の存在を「否定」すれば、人類は不幸になるしかないのです。
「完全なる神の心」に到達できなければ、その到達できない「天」が、人類の「人生の意義」になることはないのです。
「永遠」があれば、みな「天」に到達できますので、「完全なる神の心」を悟ることが、人間の「人生の意義」として説明できるのです。
「人生の意義」を合理的に説明するには、「永遠の世界」、いわゆる「あの世の世界」が大前提になるということです。
「あの世の世界」を前提にしなければ、「完全なる神の心」を悟り、「真正の自己」を知ることが、万人の「人生の意義」であると合理的に説明できなくなるのです。
あの世の世界(潜在意識)を安易に否定する人がおりますけれども、ではどうやって一人一人の「心」の本質である「完全なる神の心」に到達すると言うのでしょう。
全ての人間の「心」には、この「完全なる神の心」が宿っており、この「真正の自己」を悟ることが、万人の「人生の意義」になっているのです。
あの世の世界、すなわち「永遠の世界」を否定して、どうやって自己の本質に到達するというのでしょう。
あの世の世界を否定すれば、誰も自己の本質には到達できないのです。
「神の心」に到達できないとは、「天」に到達できないということであり、そのような「神の心」が人類の「人生の意義」になることはないのです。
「1回80年」の人生では到達できませんが、「永遠」があれば、到達できるのです。
「完全なる神の心」を悟り、「真正の自己」を知ることが、万人共通の「人生の意義」であり、人間の存在意義であると説明するには、あの世の世界の存在が必要になるということです。
「救世の法」の柱の一つに「多次元世界の存在」が入っているのは、これが理由です。



























この記事へのコメントはありません。