真理関係

レザレクション 14

「主観」と「客観」の関係とは、「心」と「世界」の関係です。

「主客分離」の世界とは、「主観」と「客観」が分離している世界であり、それは「心」と「世界」が切断されている世界です。

「主客分離」の世界では、「人間の存在」を「精神的存在」として定義づけることはできません。

「主観」と「客観」が分離している世界では、「精神」は意味を持たないからです。

いくら「精神」を磨き、悟りによって向上・進化しても、「主観」と「客観」が分離しているため、その「精神」は「客観」の世界に何の影響も及ぼさないのです。

如何に「精神」を磨いても、「客観」の世界に影響を及ぼすこともなければ、良くすることもありませんので、「主客分離」の世界では、人間を「精神的存在」として定義づけることはできないのです。

人間を「精神的存在」として定義づけることができなければ、「神の存在」も意味をなさなくなるのです。

「神の心」とは、人間精神の根源的本質に存在し、その中心に在るため、人間の「精神」が意味をなさないとは、「神の心」もまた意味をなさないということです。

つまり「主客分離」の世界では、「神の存在」に意味はなく、人間の「精神」もまた意味がないということなのです。

「人間の体」は「神の体」(自然界)が育て、「人間の心」は「神の心」が育てています。

「主客分離」の世界では、この「人間の心」と「神の心」が意味をもたないため、「心」が育つことができず、「心」は「未熟」なままに捨て置かれるのです。

人類社会における「全ての不幸」の原因とは、この人類各人の「未熟」ですので、「未熟」なままに捨て置かれるということは、人類は「不幸な世界」に捨て置かれるということです。

「人類の幸福」を実現することができなくなるのです。

「主客分離」の世界に「人類の幸福」はありません。

「主客分離」の世界では、「神の心」すら意味を持ちませんので、人類にとって「永遠の希望」もまた失われることになるのです。

「主観」と「客観」が分離した世界では、人間を「精神的存在」として定義づけることはできませんので、「神の心」にも意味はないのです。

「神の心」に意味がないとは、「永遠の希望」もなければ、人間の「心」も成長・進化していくことはできませんので、「人類の幸福」もないのです。

「永遠の希望」もなければ、「人類の幸福」もない世界とは、要は「絶望の世界」なのです。

神の創られた正しき世界とは、この世であれ、あの世であれ、「神の心」が永遠に「天」に置かれている「天国」なのです。

大宇宙や自然界でも「神の心」が、永遠に「天」に置かれておりますけれども、多次元世界(あの世)でも「神の心」が、永遠に「天」に置かれているのです。

「神の心」が永遠に「天」に置かれている限り、それは「希望の世界」なのです。

「人類の不幸」の原因である人類各人の「未熟」を「神の心」は消滅してくれるからです。

「不幸の原因」を消滅してくれるということは、「神の心」は「永遠の希望」であるということです。

神の創られた世界は、全てこの「神の心」が、永遠に「天」に置かれているのです。

「神の体」(利益と快楽)は、人類の「不幸の原因」である「未熟」を消滅するのではなく、助長するものですので、「神の体」を「天」に置いた世界は、必然的に「絶望の世界」に変わるのです。

主客分離の世界は「絶望の世界」であり、主客合一の世界は「希望の世界」なのです。

その「希望の世界」(主客合一の世界)が、「絶望の世界」(主客分離の世界)になるというのは、その世界観の捉え方にどこか間違いがあるのです。

従って「主観」と「客観」が分離した「主客分離」の世界を「肯定」することはできません。

要は「主観」と「客観」が分離している世界とは、あの世(心)とこの世(世界)が分離している世界観なのです。

あの世とこの世が分離している世界で「人類の幸福」はないのです。

幸福の科学でも「あの世とこの世を貫く幸福」が説かれていたと思いますが、ここで言う「あの世」とは、「地獄界」のことではなく、「天上界」のことです。

「天国」と地上人間の「心」が貫けば、ただの一人も地獄に堕ちる人はいなくなりますので、「人類の不幸」が消滅するのです。

確かに地獄に堕ちれば「不幸」ですが、その地獄に堕ちる人がいなくなりますので「人類の不幸」は消滅し、この世に「人類の幸福」が実現していくのです。

あの世とこの世を貫く心とは、「正しき心」であり、「神の心」です。

幸福の科学の教義で言えば、正しき「神の心」を通して、あの世とこの世が貫くために、全人類の幸福があらわれるのです。

「幸福」とは「神の心」そのもののことを指しますが、未熟な人間は、その「完全なる神の心」(幸福)は悟れませんので、あくまで便宜上、地球では「天国」と「地獄」が現象化しています。

それだけ地球系霊団には「未熟者」が多いということですが、「天国」と「地獄」とは、すなわちそれぞれ「幸福」と「不幸」をあらわしているのです。

「天国」とは「人間の幸福」をあらわしており、「地獄」とは「人間の不幸」をあらわしているのです。

人間が「幸福」になるとは、「天国」に還るということであり、人間が「不幸」になるとは、「地獄」に堕ちることなのです。

もしあの世が存在せず、「天国」と「地獄」が存在しなければ、人は「幸福」とは何かが分からなくなるでしょう。

人間が「幸福」になるとは、「天国」に還るということであり、「天国」に還るとは、「神の心」に叶った「心」を創るということなのです。

これが「神の心」がイコール「人類の幸福」であると言う意味なのです。

もし「神の心」に叶った「心」をみずから創ることができなければ、一時的に地獄界で反省行を積むしかありませんが、それは「不幸」であることに変わりありません。

「神の心」と「人間の心」が離れれば「悪」となり、「不幸」になるのです。

「神の心」と「人間の心」が合一すれば「善」となり、「幸福」になるのです。

「神の心」と合一して地獄に堕ちる人はいません。

「神の心」の「天」と「人間の心」の「地」が、天地一体となった時、一人も地獄に堕ちることなき「地上天国」が顕現するのです。

「天地一体」の悟りに「地獄なし」であり、「宇宙即我」の悟りに「地獄なし」です。

「多次元世界即我」の悟りに「地獄なし」であり、「神人合一」の悟りに「地獄なし」です。

「地獄」がないとは、「不幸」がないということです。

「天地一体」の悟りと言い、「宇宙即我」の悟りと言い、「多次元世界即我」の悟りと言い、「神人合一」の悟りと言い、これは最高霊域「如来界」におられる諸神霊が、共通して持っておられる「悟り」なのです。

つまり「如来の悟り」に「地獄なし」ですので、如来の悟りに「人類の幸福」があるということです。

「人類の幸福」を望み、それを乞い願い、実現したいのならば、この「如来界の悟り」が解明されていかなければならないのです。

「人類の幸福」とは、「神の心」の解明にあるからであり、それが最も具体的に解明されている世界が、いわゆるこの「如来界」なのです。

この世では「主観」と「客観」を分けて考えたり、見たりする人もおりますけれども、神の創られた世界は「主観」と「客観」の分離はありません。

やはり西田哲学で説かれている通り、見られる世界(客観)は、見る者の心の世界(主観)であり、「主観」と「客観」は永遠に合一しています。

あの世も同じであり、見られる菩薩界というその世界(客観)は、そこに住む菩薩の心の世界(主観)であり、「主観」と「客観」は永遠に合一しています。

見られる地獄界(客観)は、そこに住む地獄霊の心の世界(主観)であり、やはり「主観」と「客観」は永遠に合一しているのです。

たとえ如来であろうが、菩薩であろうが、「主観」と「客観」を分けることはできないのです。

菩薩であろうが、菩薩の心(主観)と菩薩の世界(客観)を分けることはできないのです。

誰であろうが、自己の心(主観)の通りの世界(客観)に住むのです。

たとえ光の天使であろうとも、「主観」と「客観」を分けることのできる者はいないのです。

神が世界をそう創られたからです。

「主観」をそう定め、「客観」をそう定め、「主観」と「客観」の関係をそう定めたのは、神そのものですので、誰も「主観」と「客観」の関係を変更したり、変えたりすることのできる人間は存在しないのです。

人間は神の創られた世界の中で「自己の心」を磨くことしかできないのです。

人間の「心」(主観)を創ったのは「人間」ではなく、「神」なのです。

人間が大宇宙を創ったり、自然界を創ったり、あるいは神を創ることはできないのです。

その「人間の創ったもの」ではない「神の心」が、人間の「心」の中心に存在するということは、人間の「心」と言うのは、神が創ったのです。

そして人間は自己の「心」を「頂点」まで悟れば、みな等しく「宇宙即我」の悟りを持ち、「真理の山」の「頂上」には、常に「大宇宙の存在」があることを知るのです。

「主観」(心)も「人間の創ったもの」ではありませんし、「客観」(大宇宙)も「人間の創ったもの」ではないのです。

「主観」と「客観」の関係も人間が定めたのではなく、神が定めたのです。

すなわち「主客合一の世界」は、人間が創ったのではなく、神が創ったのです。

「人間の創ったもの」ではない「主客合一の世界」は、人間ではどうにもならないのです。

変更することもできなければ、変えることもできないのです。

主観が「善」ならば、客観も「善の世界」になりますし、主観が「悪」ならば、客観も「悪の世界」になるのです。

人間ではどうしようもないわけです。

主観が「善」なのに、客観を「悪の世界」にすることはできませんし、主観が「悪」なのに、客観を「善の世界」にすることもできないのです。

人間の「忖度」や「ご都合主義」は、一切通用しないのです。

もし人間社会のように「ご都合主義」や「自己の好悪」、あるいは「忖度」が通用するような世界ならば、主観が「善」なのに、「人間の忖度」で、客観を「悪の世界」にすることもできるはずですし、主観が「悪」なのに、「人間の忖度」で、客観を「善の世界」にすることもできるはずですが、実際、そんなことは誰にもできないのです。

神の創られた正しき世界では、人間の「忖度」や「ご都合主義」は一切通用しないのです。

神の創られた世界は、ただ冷徹なのであり、主観が「善」ならば、必ず客観も「善の世界」になりますし、主観が「悪」ならば、必ず客観も「悪の世界」になるのです。

必ずそうなるがゆえに未熟な人間は、「人間の善悪」ではなく、「神の善悪」を謙虚に学んでいくことができるのです。

今の客観の世界が「悪」であり、悪化を続けているとすれば、それは人類の主観、すなわち「心」が間違っており、「悪」になっているということなのです。

神の創られた「主客合一の世界」では、主観が「善」ならば、必ず客観も「善の世界」となり、主観が「悪」ならば、必ず客観も「悪の世界」になるからです。

人間は神の創られた「絶対の世界」において、様々な善悪の諸現象を経験しながら、要は否応なく、神の「絶対善」に導かれ、指導され、学習させられているのです。

当然のことながら、神の創られた世界では、「神の意向」が優先的に現実化してきますので、「未熟な人類」は「神の心」の通りの世界を創っていかなければ、人類も、世界も、決して良くしていくことはできないということです。

これも重要な真理知識の一つです。

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