「人間の存在」とは、果たして「肉体的存在」なのか、あるいは「精神的存在」なのかという問題は、「統一」と「矛盾」の問題でもあります。
「人間の存在」を「肉体的存在」と定義づければ、全ての存在が「矛盾」してくるのです。
「物質」とは、相対的なものであり、「矛盾」を意味しているからです。
人間とは「肉体的存在」であり、単なる「物質的存在」と定義づければ、物質は「有限」であり、相対的な「生」と「死」の「矛盾」の中で「絶対の生」を生きることができず、相対的な「死」と共に「精神現象」は「無」となり、いずれはかなく消滅していく存在となります。
人間を「肉体的存在」と定義づける人間にとって「精神現象」とは、単に脳細胞が創り出す電気的信号に過ぎず、マトリックスの映画のように、絨毯のように分厚いステーキを口に放り込んで「うまい」と感じても、その感覚は、結局、「脳の電気的信号に過ぎないのだろうな」と誤解していくのです。
江崎玲於奈博士のように、人間とは川辺に転がっている石ころのような没価値的な存在であり、そこに意味や価値を見いだそうとするのは誤りであるというような誤った人生観と価値観を有するようになるのです。
人間とは「物質的存在である」と認識している者にとって「精神現象」とは「実在」ではなく、脳細胞が創り上げる、単なる電気的信号に過ぎませんので、「死」と共に脳が失われれば、その脳の電気的信号も失われますので、人間の精神も消滅していくと信ずる人間を創っていくのです。
すなわち何故、人間がそこに存在しているのかという「人間の存在意義」を説明できなくなるのです。
人間の「心」(精神)が消滅すれば、その「心」の中心に存在している「神の心」も消滅しますので、その「神の心」を悟り、「真正の自己」を知るという万人共通の「人生の意義」も存在しないという結論になるのです。
「神の心」は「死」と共に消滅するそうですので、人類から「平等」と「共通性」、並びに「普遍的な価値」の全てが存在しないことになるのです。
その人類普遍の価値観は、脳の電気的信号が創り出している「まやかし」ですので、本当は存在しないのだというイギリス経験論のような結論になるのです。
「人間の存在」を「肉体的存在」と見る限り、「真理の懐疑論」から抜け出すことはできません。
映画・マトリックスにしろ、イギリス経験論にしろ、誤った哲学や思想と言うのは、共通点があり、「人間の存在」を全て「肉体的存在」と認識し、「物質的存在」と捉えている点が共通しているのであり、いつもこの点から間違っていくのです。
そしてその間違った人生観と価値観の中で一生を過ごすのです。
「神の心」が「人間の死」と共になくなるのならば、「善」もなくなるということですので、この世で善悪と真偽の全て、並びに道徳の一切が存在しないことになりますので、カントが残しておりますように「あの世」ではなく、「この世」で「道徳」が成立しなくなるのです。
これゆえにカントは『実践理性批判』の中で、善悪・美醜・真偽の一切の「道徳」が、この世で成立するためには、「神の存在」と「霊の不死」が、この「道徳観」から「必然的に要請される」と言う「神の存在証明法」の一つである「道徳的証明」を残したのです。
この「道徳的証明」は、西田哲学で説かれておりますように「方便の証明法」です。
ドストエフスキーは、このカントの「道徳的証明」を理解していた数少ない作家の一人ですが、その作品である『カラマーゾフの兄弟』の中で、「霊の不死」がなければ、善もないわけであり、全てが許されると言いました。
如何なる悪業も許されると言い、人肉食いさえも許される、と言ったのです。
いくら人がその人肉食いを非難しようが、その非難する者もまた「死」と共に「無」になるのであるから、その非難は「無効」である。
もし「神の存在」と「あの世」が存在しなければ、人間が悪であり、罪であると称するものの全てが許されると言ったのです。
全ての悪が許される世界とは、「正義」や「善」が失われている世界です。
「神の存在」と「あの世の存在」を大前提にしなければ、この世で「道徳」や「価値」が成立しないということです。
死んで「無」になる存在が人間であるならば、誰も「正義」や「善」を目的にすることはないのです。
その「正義」は、いずれなくなり、「無」となるからです。
この世で「正義」や「善」が成り立たないのです。
ドストエフスキーは、カントの「道徳的証明」を知っていたのです。
だからそういう言い方をするのならば、「神の存在」と「霊の不死」は、一方から言えば、認めざるを得ないし、他方から言っても、認めぬわけにもいかないと残しているのです。
ドストエフスキーが言っているのは、「正義」や「善」と言うものは、認めざるを得ないし、認めないわけにもいかないと言っているのです。
「正義」や「善」は「実在」であり、「本当に在る価値」ですので、「なくならない価値」です。
「死」と共に「正義」や「善」がなくなることはないのです。
「人間の体」は、「死」と共に「神の体」(自然界)に還っていきますが、「人間の心」は、「死」と共に「神の心」(多次元世界)に還っていくのです。
「正義」や「善」は、「神の心」から来ると言ってもいいし、「永遠の世界」である「多次元世界」から来ると言ってもいい。
「永遠の世界」から来る限り、それは「なくならない価値」であり、「本当に在る価値」、すなわち「実在」なのです。
「神の心」が永遠になくなりませんように、「正義」や「善」もなくなることはありません。
表面意識が悪であり、潜在意識は善である。
これを悟ったならば、悟りの境地に入ったと見てよい : 高橋信次
ここで言う「潜在意識」とは「多次元世界」のことを指しているのであり、要は「正義」や「善」は、常に「あの世」、いわゆる「永遠の世界」から来ると言っているのです。
「正義」や「善」は、「本当に在る価値」、すなわち「実在」だからであり、「なくならない」からです。
「正義」や「善」は、人間の「表面意識」や「相対的な自我」から来ることはないのです。
この世にいる「諸如来諸菩薩」から「真理」が来るわけでもありません。
潜在意識の「多次元世界」に住している善霊や諸神霊とそれを支配し、統一している「神の心」から来るのです。
これを悟ったならば、確かに「悟りの境地に入った」と見ていいわけです。
「神の心」がなくなりませんように、その「神の心」が存在している「人間の心」もまたなくならないのです。
「宇宙即我」の悟りとは、「大宇宙」と「我」とは一体であるという悟りです。
「大宇宙」は永遠になくなることがありませんので、その永遠になくなることのない「大宇宙」と一体である「人間の心」もまたなくなることはないのです。
「人間の存在」を「肉体的存在」と見ている限り、人間とは「本当に在る存在」、すなわち「実在」とはなりません。
それは「死」と共に「なくなる存在」に過ぎないのです。
「人間の存在」を「精神的存在」と認識し、理解した時、人間とは「本当に在る存在」、すなわち「実在の存在」となり、同じく永遠になくならない「正義」や「善」、いわゆる「神の心」のために生きていくことができるのです。
「大宇宙の存在」のことを「神」と言いますので、「大宇宙の存在」を「否定」できない限り、「神の存在」を「否定」することはできません。
「神の存在」を「否定」することができなければ、「神」とは「永遠の存在」ですので、その「神の心」を中心に宿した「人間の心」もまた「なくなることはない」、すなわち「実在の存在」ということです。
西田哲学で残されておりますように、神の創られた正しき世界は、永遠に「主客合一の世界」であり、「神の心」が「天」に置かれている「永遠の天国」なのです。
「主観の統一力」と「客観の統一力」は、同じ「統一力」の下にあるため、人間は大宇宙を理解していくことができるのです。
西田哲学で説かれておりますように、もし「主観の統一力」と「客観の統一力」が「二種」あり、それぞれ別の「統一力」の下にあるならば、人間は宇宙を理解していくことはできないのです。
ニュートンの古典力学における「主観」(心)で認識している「万有引力」や「逆二乗の法則」が、そのまま「客観」の世界を説明できたり、「主観」(心)で認識している「時空の相対性」が、そのまま「客観」の世界を正確に説明できるのも、「主観」と「客観」は、同じ「統一力」の下にあるからです。
「主観」と「客観」の「統一力」は、ただ「一種」あるのみです。
すなわち「神の統一力」あるのみです。
西田哲学では、「主観」と「客観」が分かれる前の「一者」を「主客未分の純粋経験」と残されておりますが、「主観」と「客観」は「未分」であり、この世であろうが、あの世であろうが、そもそも分けられないのです。
見られる菩薩界というその世界(客観)は、そこに住む菩薩の心の世界(主観)であり、「主観」と「客観」を分けることは誰にもできないのです。
当の菩薩ですら、自己の心(主観)と世界(客観)を分けることはできないのです。
不可能なわけです。
見られる地獄界というその世界(客観)は、そこに住む地獄霊の心の世界(主観)であり、「主観」と「客観」を分けることはできず、永遠に「主客合一の世界」です。
人類の中でこの「主観」と「客観」を分けることのできる人間は存在しないのです。
神が世界をそう創ったがゆえに、「主観」と「客観」は誰にも分けることができないのです。
もし「主観」と「客観」が初めから分離し、分かれている世界であるならば、人間の「心」は意味を持ちません。
いくら自己の「心」(主観)を磨き、「神の心」を悟っても、「主観」と「客観」が分かれているわけですから、その悟りによって磨いた美しい「心」は、客観の世界に何ら影響を及ぼしません。
「主観」と「客観」が分離しているからです。
主客が分離している世界であるならば、人間の「心」は意味を持ちませんので、「悟り」によって世界を良化していくことはできないのです。
当然、その人間の「心」を育ててくれる「神の心」もまた意味を持たないのです。
「心」で世界を良くしていくことはできません。
ところが西田哲学で説かれておりますように、もし神の創られた世界が「主客合一の世界」であるならば、客観の世界を良化していくには、その客観の世界と合一している自己の「主観」、この「心」を磨いていくしかないのであり、その自己の「心」を磨き、育てていくには、「神の心」を悟るしかないということです。
「主客分離の世界」は、「心」が意味を持たない世界ですが、「主客合一の世界」は、「心」が全てであり、意味を持っている世界なのです。
「主観」を「神の心」によって無限に磨き、育てていけば、その「主観」と合一している「客観」の世界もまた「心」に比例して良くなっていくということです。
人間の心を良くしていくには、「神の心」を悟るしかありませんので、「主客合一の世界」では、人間の「心」を育ててくれる「神の心」は、「永遠の希望」になっているのであり、「心」(主観)が「世界」(客観)を良くしていくと言うことは、神は「主客合一の世界」を創造することを通して、「人間の存在」を「精神的存在」として定義づけているということです。
どう屁理屈を言ってもこの「主観」と「客観」の関係は、人間ではどうすることもできませんので、人類と世界を良くしたければ、人間は「自己の主観」、この「心」を磨くしかないということです。
神の創られた「主客合一の大宇宙」そのものが、「人間の存在」を「精神的存在」として永遠に定義づけていると同時に「神の心」が「未熟な人間」にとって「永遠の希望」になっている事実を証拠立てているのです。
いずれにしろ「主観」(心)を磨かずして「客観」の世界が良くなることはありません。
神の創られた世界とは、「主客合一の世界」だからです。
この神の創られた世界の構造と仕組みを変更したり、変えたりすることのできる人間は存在しないのです。
あの世も、この世も、神の創られた世界は、永遠に「神の心」が「天」に置かれた「主客合一の世界」だからです。
「人間の存在」を「主客合一の世界」から「精神的存在」であると理解した時、その「矛盾した世界」は「統一された世界」に修正されていくということです。


























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