「人間の存在」とは、果たして「肉体的存在」なのか、あるいは「精神的存在」なのか。
「人間の存在」の定義づけは、「真理の根幹」に関わっている定義であり、この定義を間違えますと、その信ずる「人生観」や「世界観」も真逆なものとなり、誰も「善」に到達できなくなります。
「神の心」を悟るとは、「善」を悟るということですが、「善」を悟るには、まず「人間の存在」を正確に定義づけておりませんと悟ることができないのです。
人間とは「肉体的存在」であると定義すれば、人間とは単なる「物質」です。
肉体には「生」があり、「死」がありますので、「有限な存在」になるのです。
神は「無限の存在」ですが、人間は「有限の存在」になるのです。
人間を「肉体的存在」と定義すれば、その「精神現象」とは、単なる脳細胞が創り出す電気的信号に過ぎませんので、その脳の消滅と共にその電気的信号も消滅し、「精神現象」もまた消滅するのです。
「精神現象」の消滅とは、その精神の中核に存在する「神の心」の消滅を意味しますので、人間を「肉体的存在」であると定義すれば、「神の存在」もなければ、「あの世」の存在もなく、「平等」も存在しませんので「人類の共通性」も存在しないことになるのです。
「人類の共通性」が存在しないということは、人類が重んじてきた普遍的な価値観と高邁な思想の全てが「存在しない」ということです。
すなわちそれは「善」が存在しないということですので、その「善」を悟ると言う「人生の意義」も存在しないという結論になるのです。
「人間の存在」を「肉体的な存在」と定義すれば、万人共通の「人生の意義」は喪失し、何故、人間が存在しているのか、あるいは何故、大宇宙は存在しているのかという「存在意義」を説明できなくなるのです。
もし人間を「肉体的な存在」と定義すれば、善悪はまやかしとなり、「善」と「悪」の価値観自体が存在しないことになるのです。
その「善悪」は、単に脳の電気的信号が創り上げたまやかしであり、錯覚となります。
「善」が存在しなければ、その「善」を悟ると言う「人生の意義」も成り立ちません。
それは江崎玲於奈博士が言われたように、宇宙や人間の存在に価値や意味を見出そうとするのは誤りであり、その存在は、単に川辺に転がっている石ころのように、ただ没価値的にそこに偶然存在しているに過ぎないという無意味な存在になるのです。
人間を「肉体的な存在」と定義すれば、必然的にそういった結論になります。
「人間の存在」を正確に定義づけているのは、当の人間ではなく、「神の存在」とその神が創造された「主客合一の世界」が定義づけているのです。
少なくとも大宇宙や自然界は、人間が創造した世界ではありません。
人間の創ったものではない大宇宙や自然界が、「人間の存在」を永遠に定義づけているのです。
「大宇宙の存在」のことを「神」と言いますので、「神」が「人間の存在」を「精神的存在」として永遠に定義づけているということです。
「神の心」とは、人間の「心」の中心に存在しておりますので、人類80億人の「心」は全てこの「神の心」につながっています。
その「神の心」が自己を客体化した世界が、眼前の大宇宙ですので、外界的には「大宇宙の存在」を「神」と言ってもいいし、内界的には自己の「心の本質」を「神」と言ってもいいのです。
外界と内界は、主客合一で分けることはできませんので、どちらも同じ「神」と言えます。
人類が80億人であろうが、100億人であろうが、数に関係なく、未熟な人間の「心」は、全てこの「神の心」につながっておりますので、自己の「心」を最高度に悟り、その「頂き」まで悟ることができましたならば、みな等しく「宇宙即我」の悟りに到達するのです。
そこで頂上に在って人類を永遠に統一しておられるのは、「神の心」であり、「大宇宙の存在」であった「真実」を理解することができるようになるのです。
最高霊域である「如来界」におられる諸神霊は、みな単独でこの結論に到達されたのです。
みな「悟りの頂点」に到達されており、その「真理の山」の頂上には「大宇宙の存在」があることを悟っておられるのです。
人類の「心」が、等しく「神の心」につながっているということは、如何なる人間であれ、そのわが心を最高度まで悟ることができましたならば、全く同じ「大宇宙の存在」に到達し、「宇宙即我」の悟りを得るということなのです。
「宇宙即我」の悟りを得ている者が、最高霊域におられるということは、この「宇宙即我」の悟りが「頂点の悟り」なのです。
「大宇宙の存在」を「神」と言いますので、大宇宙は「神」が永遠に統一しておられるということです。
人間の「心」が「神の心」につながっているということは、「大宇宙」とつながっているということです。
だからわが心を頂点まで悟れば、みな同じ「大宇宙の存在」に到達するのです。
「人間の体」は、大宇宙や自然界の一部であり、「神の体」の構成要素です。
従って「人間の体」は、「死」と共に「神の体」(自然界)に還っていきますが、「人間の心」は、「死」と共に「神の心」(多次元世界)に還っていきます。
「神の心」を「否定」すれば、人類に「平等」はなくなり、人類の「共通性」もなくなり、「神の心」を悟るという「人生の意義」もなくなり、「統一」もなくなりますので、人類には「矛盾」しか残らないのです。
思想や哲学の世界でも、「矛盾」した思想や哲学は価値の低いものです。
「神の心」を「否定」すれば、そこには「矛盾」しか存在しませんので、人類の存在や文明の存在が価値の低いものになるということです。
また「矛盾」しか存在しない世界とは、「対立」しか存在しない世界ですので、そこは必然的に「闘争と破壊」の世界になるのです。
人類の統一者が存在しない世界ですので、決して「平和」が実現することはないのです。
神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎
神への信仰を失った人類には「矛盾」しか残っておりませんので、ひたすら「矛盾」、いわゆる「利益と快楽」を目的にむさぼろうとするのです。
その結果、多くが地獄に堕ちたり、生物が絶滅したり、現代ではその「利益と快楽」をむさぼる行為によって気候変動まで引き起こしています。
過去・現在・未来の全人類にとって「平等」とは、「神の心」しかありませんので、「神の存在」を「否定」すれば、人類社会から「平等」が永遠に失われます。
万物は神の差別相である : スピノザ
「神の存在」を「否定」すれば、人類に「平等」はないのです。
「平等」がないとは、「統一」がないのと同じですから、そこには「対立」しか存在しない世界なのです。
「対立」しか存在しない世界とは、「闘争と破壊」の世界です。
「平等」のある世界とは、「統一」のある世界であり、「統一」のある世界とは、対立のない世界なのです。
従って「平等」の存在しない世界とは、「闘争と破壊」の世界にほかなりません。
そこには「対立」しか存在しておりませんので、必然的にそういった世界になるのです。
地上界から戦争をなくすには、対立をなくせばいいのであり、矛盾や対立の一切存在しない「神の心」に覚醒すればいいのです。
今、イスラエルとイランが対立しておりますけれども、イスラエル人の心の中にも「神の心」は存在しており、イラン人の心の中にも全く同じ「神の心」があるのです。
「神の心」から見性すれば、イスラエルとイランの対立があるはずないのです。
それでも対立しているのならば、「神の心」を信じていないか、「神の心」を見ていないか、あるいは「神の心」を知らないのです。
全ての「矛盾」を統一している存在が「神の心」ですので、イスラエルとイランの「絶対矛盾」は、ただ「神の心」が永遠に統一しています。
大魔王即大如来としての「神」です。
大魔王の心の本質にも「神の心」はあり、大如来の心の本質にも全く同じ「神の心」があるのです。
大魔王と大如来の「絶対矛盾」は、「神の心」が永遠に統一しています。
地上から「戦争と暴力」をなくしたければ、この対立と矛盾をなくせばいいのであり、対立と矛盾を永遠に統一しておられるのは、人間ではなく、「神の心」なのです。
従ってどう屁理屈を言おうとも、この世から「戦争と暴力」をなくしていくには、神への信仰に覚醒するしかなく、「神の心」を悟っていくしかありません。
大体、「神」は人間に「神の心」を悟らせるために大宇宙という「魂修行の場」を創造されているのであり、それ以外の目的で大宇宙がそこに存在しているわけではないのです。
「神の心」を人間自身が、未熟なりに悟っていきませんと、決して「戦争と暴力」がなくなることはないのです。
「平和」とは、「神」の別名ですので、未熟な人間が「神の心」を悟らず、「平和」を得ようとしても得ることはできません。
利害打算を調整したような「偽りの平和」しか得ることはできないのです。
それは所詮、「偽りの平和」ですので、直ぐにメッキは剥がれ落ち、「利益と快楽」欲しさに、再び「闘争と破壊」の世界を創り上げていくのです。
「偽りの平和」を説く者は、「平和」とは、非武装中立で紛争のない状態であると誤解しているか、武力が一切放棄され、一掃されている状態であると誤信しているか、いずれかです。
それは「平和」ではありません。
「平和」とは、「神の心」、これだけです。
一方で神への不信仰に生きながら、他方で「世界平和」を望むのならば、それは「矛盾」以外の何ものでもないのです。
「世界平和」とは、「神の心」そのものを指すからであり、「神の心」を悟ることなく、人間が「世界平和」を得ることは、決してできないのです。
諸神霊も「世界が平和でありますように」というポールを提唱し、「偽りの平和」を煽っていた教祖は、今「無間地獄」に堕ちており、割れるような頭の痛みに耐えかね、転げ回りながら、七転八倒していると言っておりましたが、「神の心」も知らなければ、「平和」も知らなかったということです。
その教えが間違っていたがゆえに、残されたお弟子さんが、その教祖を尊敬すれば、するほど、良心の痛みに耐えかね、地獄の底でのたうち回っているのです。
だから「十戒」にみだりに神の御名を唱えるなとあるのですが、現代人もよく分かっていないようです。
「神の心」が「在る」とは、「平等」が「在る」ということです。
「在る」とは、「永遠になくならない」という意味であり、哲学的には「本当に在るもの」、すなわち「実在論」のことです。
「平等」がなくならないとは、「神の心」もまたなくならないということです。
「神の心」がなくならないということは、その「神の心」が存在している「人間の心」もまたなくなることはないということです。
肉体が死のうが、生きようが、生前死後を問わず、「平等」がなくなることはなく、「神の心」や「人間の心」もまたなくならないということです。
従って「人間の存在」を「肉体的存在」と定義すれば、あの世の存在はなくなり、「平等」はなくなり、「神の心」もなくなり、「善」もなくなりますので、「善」を悟るという「人生の意義」もなくなります。
「人間の存在」を「精神的存在」と定義すれば、肉体の生死は無関係ですので、あの世の存在はあり、「平等」もあり、「神の心」もあり、「善」もありますので、「善」を悟るという「人生の意義」もあるということです。
「平等」がなくなるとは、死後の世界はなく、あの世もないということですから、人間の心も死後は「無」になるため、その心の中心に存在する「神の心」も「無」となり、「人生の意義」もまたなくなるのです。
「平等」がなくならないとは、「神の心」もまたなくならないということであり、「神の心」がなくならないということは、その「神の心」と共にある「人間の心」もまたなくならないということです。
「神の心」を悟るという「人生の意義」は、あの世とこの世を超越して存在しており、永遠になくならないということです。
あの世の存在を否定すれば、「神の心」や「人間の心」、あるいは「平等」や「人生の意義」を全て否定しなければならなくなりますので、人間とは「精神的存在」として定義づけるしかないということです。
また神の創られた「主客合一の世界」も人間を「精神的存在」として定義づけています。
神の創られた世界そのものが、人間をそう定義づけているのです。
これは次回以降にします。


























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