古い仏教で説かれてきたのは「迷いの輪廻転生」です。
この世に人間として生まれてくること自体、迷っている証拠であり、「悟りたる者」は極楽浄土に入っているため、二度と「苦界」であるこの世に生まれてくることはないと説かれてきたのです。
この世を「苦界」と定義づけていることにも問題がありますが、2600年前の宗教であり、「教え」ですので、これはもうどうしようもありません。
仏教の世界では、歴史が長過ぎて「修正」はできないと思う。
ただこの世を「苦界」と定義すれば、「地上天国」を創ることはできません。
人間が何をどう悟ろうとも、この世は永遠に「苦界」なわけですから、この世界観では、この世に「地上天国」を建設することはできないのです。
この世であれ、あの世であれ、神の創られた正しき世界は、「神の心」が永遠に「天」に置かれている「永遠の天国」であって、「苦界」ではないのです。
仏教では、「迷っている者」のみが、六道世界(天道・人道・修羅・畜生・餓鬼・地獄)を生まれ変わり、死に変わりし、生死輪廻のでっかい引き金を引き、修行が足らなければ、来世、閻魔大王に高いメシ代を請求されることになると説いてきたのです。
今まで仏教で説かれてきた「輪廻転生」とは、「迷いの輪廻転生」なのです。
「悟りたる者」は、極楽浄土に入るため、六道輪廻を解脱し、輪廻の輪を抜けるため、二度と「苦界」であるこの世に生まれてくることはないと説かれてきたのです。
仏教で説かれる「迷いの輪廻転生」では、万人に共通する「人生の意義」は説明できないのです。
「1回80年」の人生で「完全なる神の心」を悟れることが前提になっておりますので、何のために人間は生きているのかを説明できないのです。
「1回80年」の人生で「完全なる神の心」を悟れる人間は存在しないのです。
そのような人間は、かつて一人もいなかったし、今もいないし、今後もいないのです。
「1回80年」で「大宇宙の神秘」とその「全て」を知ることはできません。
カントはこれを「最高善」は人間では悟れないと言い、ヘーゲル哲学では「完全なる神の心」(絶対精神)は「歴史の究極目的」であると残しているのです。
仏教の「正」があり、キリスト教の「反」が出てくる、次に創造的「合」としての新たな宗教が歴史の舞台に登場してくる。
この正・反・合の弁証法的発展を、歴史の舞台で繰り広げつつ、人類は「理性の狡知」に否応なく導かれながら、この「歴史の究極」(神の心)に向かっているのだ、とヘーゲルは『歴史哲学』で説いています。
正・反・合の弁証法には、3つの意味があり、「否定」、「保存」、「揚棄」です。
仏教の「正」とキリスト教の「反」の相互の短所が、まず「否定」され、次に相互の長所が「保存」される。
最後に創造的「合」によって、次世代最新の真理が説かれていくことになる。
人類の心は、こうして永遠に「神の心」に導かれていくのです。
そしてその「合の真理」も、いずれ「正の真理」となり、それに対する「反の真理」が登場し、更に双方を統合した「創造的合の真理」が説かれていくことになる。
歴史とは、この無限の繰り返しであり、その向かっている究極に「神の心」がある。
「神の心」というのは、「1回80年」の人生で悟れるような「小さい心」ではなく、その自己の本質を悟るには「永遠」が必要なのです。
「永遠」がなければ、誰も「完全なる神の心」、すなわち「天」には到達できませんので、天地分離の「不幸の原理」の中を彷徨うしかなくなるのです。
今回の「救世の法」において「永遠の世界」である「多次元世界」が説かれているのも、「天地一体の原理」から説かれているのです。
あの世の「肯定」が天地一体であり、あの世の「否定」が天地分離です。
人類の幸福は、常に「天」にありますので、人類の「幸福と救済」を真に願うならば、「天」に到達できる世界観を持ち、多次元世界を「肯定」していくしかありません。
あの世とは認めざるを得ない世界なのです。
人間はみな「永遠」を生きていくわけですが、永遠に遊ぶために生きているのではなく、この「完全なる神の心」を悟り、到達していくために生きています。
「完全なる神の心」こそ、「自己の心の本質」であり、「真正の自分」だからです。
これを悟っていくには、「1回の人生」だけでは不可能ですので、時代と地域を変えて、何度も人生修行をしていかなければ、この「真正の自己」を悟ることはできないのです。
万人がこの「完全なる神の心」、すなわち「天」に到達するために、「輪廻転生の法則」が今回説かれているのです。
輪廻転生の「肯定」が天地一体であり、輪廻転生の「否定」が天地分離です。
西洋のスピリチュアリズムの「再生の概念」以降ですが、仏教で説かれている「迷いの輪廻転生」は説かれていないのです。
迷っている者(地獄霊)は、むしろこの世に生まれてくることはできません。
近代では、5次元精霊界であろうが、7次元神界であろうが、最低限の悟りを得ていなければ、この世に生まれてくることはできないという「悟りの輪廻転生」が説かれきたのです。
古い仏教の「迷いの輪廻転生」では、「1回の人生」で「完全なる神の心」が悟れることになっており、極楽浄土に入れば、既に「完全なる神の心」を悟っておりますので、人間は何のために生きているのかという「人生の意義」を説明できなくなるのです。
そしてあの世の如来と言われ、仏陀と言われている神霊達が、あの世でもどうして「神の心」を永遠に探究しておられるのかという「現実」との整合性がとれなくなっていくのです。
「迷いの輪廻転生」では、万人共通の「人生の意義」を説明できないのです。
しかも悟りたる仏陀の世界である如来界の諸神霊は、かつて生まれてきたし、今も生まれているし、今後も生まれてくるのです。
レンブラントも、西田幾多郎も、ヘーゲルもみな如来であり、実際、生まれているわけですし、今後も生まれてくるのです。
仏陀が生まれてくると言う「現実」を、古い仏教の「教え」では説明できないのです。
これは数千年前の宗教ではしようがないことですが、古い宗教は、一旦「合」として整理されていかなければならないのです。
古い宗教を残せば、今後の人類の霊的な発達と進化の効率が悪くなり、また支障も出てくるからです。
一人一人の「心」の中心には「神の心」があり、それは「完全なる神の心」があるということなのです。
この「完全なる神の心」であり、「真正の自己」を悟り、知るために万人は生きているのです。
悟りとは、真正の自己を知る、これに始まって、これに尽きる : 西田幾多郎
この点は仏教のみならず、キリスト教でも同じであり、特にキリスト教の方では「輪廻転生の法則」を明確に「否定」します。
「輪廻転生の法則」を「否定」すれば、1回限りの人生となりますので「完全なる神の心」を悟ることができなくなり、「真正の自己」に誰も到達できなくなるのです。
わずか1回限りの80年の人生で「完全なる神の心」を悟ることはできませんので、「輪廻転生の法則」を「否定」すれば、誰も「天」に到達できなくなるのです。
80年の人生で「完全なる正しさ」を悟れというならば、無茶な話です。
そんなことができる人は、今後もいないのです。
キリスト教や仏教は、もちろん世界宗教ですが、この「人間は一体何のために生きているのか」という「根源的な問い」に答えていないのです。
今回「救世の法」の編纂が計画されたのも、これが理由なのです。
計画した本人のほうは死んでしまいましたけれども、『永遠の法』で「多次元世界」(あの世)が説かれ、『黄金の法』で「輪廻転生の法則」が説かれ、『太陽の法』で「愛の発展段階説」が説かれたのも、この「人間は一体何のために生きているのか」という「根源的な問い」に答えるためだったのです。
だからこの3冊を「救世の3部作」と言っていたのです。
初版本に戻すべきであると強く思うわけですが、それは初版本には「副題」はついていなかったからです。
「エルカンへの道」、「エルカンの世界観」、「エルカンの歴史観」と言って「副題」はついていませんでした。
「完全なる神の心」を知る道から、「エルカンの心」を知る道へと方向を捻じ曲げてしまったのです。
「統一」から「矛盾」に方向を変えてしまったのです。
最高霊域・如来界におられる諸神霊の共通の悟りとは、「宇宙即我」の悟りです。
「宇宙即我」の悟りを持っているから「神の心」が説けるのです。
「神の心」を説くとは、この「宇宙即我」の悟りを説くことなのです。
従って「宇宙即我」の悟りを説けない者や説いていない者は、「神の心」を説いている人間ではないのです。
「本物の真理」は、「宇宙即我」の悟りを説けますが、「偽物の真理」は、この「宇宙即我」の悟りが説けないのです。
如来ではないために説けないのです。
如来はみな例外なく、この「宇宙即我」の悟りを説けるのです。
「本当の神の心」か、否かを画然と分けている悟りが、この「宇宙即我」の悟りなのです。
従って諸如来は、「エルカンの心」を探究しているのではないのです。
「神の心」と「神の体」で構成されている「大宇宙の理法」を探究しておられるのです。
人間の「心の本質」とは、「エルカンの存在」ではなく、「大宇宙の存在」だからです。
従って如何なる個性を有した人間であろうとも、わが心を最高度に悟り、頂きの頂点まで悟ることができましたならば、最後は必ずこの「大宇宙の存在」に行き着くのです。
「真理の山」の頂上に「大宇宙」が存在しているということは、森羅万象は全て「神の心」が、永遠に統一しているということなのです。
「宇宙即我」の悟りが「頂点の悟り」と言われてきたのは、誰の心であろうが、自己の心を正しく悟りましたならば、みな同じ「大宇宙の存在」に到達するからです。
人類80億人は、それぞれ個性の相違はありますけれども、自己の心を頂点まで悟れば、そこには必ず「大宇宙の存在」があるのです。
「大宇宙の存在」のことを「神」と言いますので、その時、個性の異なる80億人の人類を、永遠に統一しておられるのは「神の心」であった事実を知ることになるのです。
神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎
まさに仰る通りということです。























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