宇宙は「神の心」の表現体であり、神の体です。
「神の心」(統一)が「天」であり、「神の体」(矛盾)が「地」で、永遠に天地一体です。
この「神の秩序」は、「絶対の秩序」ですので、人間がこの「神の秩序」を変更したり、変えたりすることはできません。
誰も変えることができないのです。
この「神の秩序」の通りの世界を創れば、人類は「幸福」になり、この「神の秩序」に反した世界を創れば、人類は「不幸」になります。
諸神霊も述べておられたと思いますが、現代では「60%以上」もの人達が地獄に堕ちている非常に「不幸な世界」です。
この「不幸の原因」は、「神の秩序」に反した世界を創っているからです。
神の創られた世界の基本的な秩序は、「神の心」(真理)が「天」であり、「神の体」(現象利益)が「地」で、永遠に天地一体なのです。
「神の心」(統一)が「天」であり、「人間の心」(矛盾)が「地」で、永遠に天地一体です。
「天地一体の原理」とは、人類の「幸福の原理」ですが、これは統一(神の心)即矛盾(人間の心)の姿のことを指しています。
統一即矛盾とは、「天地一体の原理」であり、大宇宙の姿です。
「神の心」と「人間の心」が切られるとは、「統一」と「矛盾」が切られるということです。
「統一」(神の心)と「矛盾」(人間の心)が切られますと、人間には「矛盾」しか残りませんので、その「矛盾」は対立を生み、悪が無限に現象化してくるため、人類は「不幸」になるしかないのです。
我々人間の「矛盾」を統一してくれる存在を失えば、未熟な人類には「不幸」しか待ち受けていないのです。
逆から言えば、人類の「矛盾」を統一してくれる存在を得ることができれば、人類は「幸福」になるしかないのです。
この統一者のことを「神」と言います。
神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎
「神の心」(幸福)と「神の体」(快楽)は一つであり、真理と現象利益は一つであり、統一と矛盾は一つなのです。
「神の心」は、幸福と快楽の左右の「矛盾」を統一し、真理と現象利益の左右の「矛盾」を統一し、統一と矛盾の左右の「矛盾」を統一している「紙一重」の領域に存在します。
「神の心」が「統一」であり、「人間の心」は「矛盾」です。
「神の心」と「人間の心」の合一を「神人合一の悟り」と言いますが、これは「統一」と「矛盾」の左右の「矛盾」を「統一」した領域の悟りです。
人間の自我や表面意識は、その知識・思考・概念・認識・情操、みな相対的な性質しか有しておらず、これは「神の体」(物質)の相対性と対応しています。
従って神への信仰を失った人間は、すべからくその相対的な自我のままに生きておりますので、必ず相対的な物質(神の体)の方面と「心」が同通し、物質の属性を有した思想や行動しか取れなくなるのです。
今の人類が、物質の属性である相対的な「利益と快楽」(神の体)を「天」に置いて「目的」にしているのは、神への信仰を失っている証拠なのです。
そして「神の体」を「天」に置いた人類は、それを永遠に「地」に置いておられる大宇宙や自然界と対立し、分かれていき、宇宙即我の「人類」ではなく、宇宙と我とが分かれた「人類」となり、「悪の存在」になっていくのです。
過去・現在・未来の全人類にとっての永遠不変の「善悪の基準」とは、眼前の「大宇宙の存在」です。
宇宙即我が「善」であり、宇宙と我とが分かれれば「悪」なのです。
数百年前、「敵討ち」は、自己の名誉を守る道徳的で立派な行為であり、「善」でしたが、今「敵討ち」をすれば、それは単なる「人殺し」であり、「悪」なのです。
「時間」が数百年経過するだけで、かつて「善」だったものが「悪」になるのです。
それは現代人が信じている「善」も、数百年経てば「悪」になることを示しています。
「時間」経過によって「善悪」が相対的に変化していくように、「空間」の位置変化でも「善悪」は相対的に変化していきます。
パレスチナにとってイスラエルは「悪」ですが、イスラエルにとってパレスチナは「悪」なのです。
住む「空間」の位置変化によっても「善悪」は相対的に変化するのです。
「時空」(物質)に依存した善悪では、一体何が「善」であり、何が「悪」なのかが分からなくなるのです。
これが「人間の善悪」の正体であり、良くても菩薩界までの悟りです。
「時間」と「空間」は「時空」と言い、「時空」とはイコール「物質」ですので、相対的なものなのです。
絶対的なものではないために、「時間」と「空間」の変化によって、その「善悪」も相対的に変化していくのです。
物質(時空)に比喩した善悪しか悟れないのが菩薩の特徴であり、だから如来の下に置かれているのです。
物質に比喩した「方便の善悪」は、「時間」の経過と「空間」の位置変化、あるいは立つ立場によって、その善悪がコロコロと相対的に変化するため、永遠不変の「善悪の基準」を示せないのです。
過去・現在・未来の全人類にとって、その「善悪の基準」は永遠不変で変わらないのですが、菩薩以下の「善悪の基準」はコロコロと変わっていくのです。
数百年前の魔女裁判は「善」でしたが、現代魔女裁判をすれば、それは単なる「悪」に過ぎないのです。
「時間」が、数百年経過するだけで、かつて「善」だったものが、「悪」になるのです。
現代人が信じている「善悪」も「時間」が数百年経過すれば「悪」になるのです。
これが「方便の真理」の正体ですので、如来でなければ、永遠不変の「善悪の基準」を指し示すことはできません。
つまり現代人は善を為しているのではなく、悪を為しているのです。
かつて「敵討ち」や「魔女裁判」を「善」と信じて行為に及んでいた人間と同じです。
進化論の倫理学者ハーバート・スペンサーが残しているように、「今日、我々が罪悪と称している価値や行為も、ある時代においては道徳だったのである」ということです。
現代、「敵討ち」や「魔女裁判」をすれば、それは単なる悪であり、罪悪な行為と言えますが、スペンサーが残しているように、「敵討ち」や「魔女裁判」は、かつての時代においては、確かに「道徳」だったのです。
これが「人間の善悪」の「限界」であり、菩薩界までの悟りなのです。
神への信仰を失った人類は、相対的な自我のままに生きておりますので、同じく相対的な物質(時空)の方面と「心」が同通し、この「時間」と「空間」を抜けられなくなり、「時間」の経過によって相対的に変化していく「偽りの善悪」や「空間」の位置変化や立つ立場によって相対的に変化していく「偽りの善悪」の中で生きるしかなくなり、その「偽りの善悪」によって人類と世界は悪化を続けるのです。
神への信仰を失った人類に永遠不変の「善悪の基準」を提示することはできません。
人類にとって永遠不変の「善悪の基準」とは、「神の存在」であり、「大宇宙の存在」だからです。
神への信仰なき人間に永遠不変の「善悪の基準」を示すことはできないのです。
「善悪の基準」を示せないとは、何を基準にこれが「善」であり、これが「悪」であるのかを示せないということですので、それは「善行」のできない人間なのです。
それは恐ろしい存在です。
たとえ「善」だと信じて行為に及んだとしても、「時間」が経過するだけで、あるいは立つ立場が異なるだけで、実はそれは「悪」なのだと言われるとすれば、人間は善行ができなくなり、善行ができなくなるとは、人類と世界を良化していくことができなくなるからです。
過去・現在・未来の人類にとって「善悪の基準」とは、永遠不変のものであって、「時間」の経過や空間の位置変化によってその「善悪」が変わることはないのです。
過去・現在・未来の「時間」を超えた「永遠」を悟らなければ、「善悪の基準」を示すことはできません。
宇宙空間の全体を超えた「無限」を悟らなければ、永遠不変の「善悪の基準」を示すことはできないのです。
「時間」の経過によっても変わることなく、「空間」の位置変化によっても変わることなき、永遠不変の「善悪の基準」とは、眼前の「大宇宙の存在」であり、「自然界の存在」であり、「多次元世界の存在」なのです。
「大宇宙の存在」や「自然界の存在」、あるいは「多次元世界の存在」のことを「神」と言いますので、過去・現在・未来の全人類にとって永遠不変の「善悪の基準」とは、「神の存在」と言えます。
すなわち「宇宙即我」が「善」であり、宇宙と我とが離れれば「悪」なのです。
「自然即我」が「善」であり、自然と我とが離れれば「悪」なのです。
「多次元世界即我」が「善」であり、多次元世界と我とが離れれば「悪」なのです。
「神の心」と「人間の心」が合一すれば「善」であり、「神の心」と「人間の心」が離れれば「悪」なのです。
神人合一が「善」であり、神人分離が「悪」です。
かく最深の宗教は神人同体の上に成立する。
人生の意義とは、これを獲得するにある : 西田幾多郎
イスラエルであろうが、パレスチナであろうが、宇宙と合一できれば「善」なのであり、宇宙と合一できなければ「悪」なのです。
アメリカであろうが、中国であろうが、自然界と合一できれば「善」なのであり、自然界と合一できなければ「悪」なのです。
ロシアであろうが、ウクライナであろうが、多次元世界と合一できれば「善」なのであり、多次元世界と合一できなければ「悪」なのです。
「善」であれば、天国へと帰天して「幸福」に暮らし、「悪」であれば、地獄に堕ちて「不幸」になるしかないのです。
5次元精霊界から10次元宇宙界までの多次元世界と自己の心が合一すれば、天国に還るしかなく、幸福になるしかないのです。
多次元世界と自己の心が合一できなければ、地獄に堕ちるしかなく、不幸になるしかないのです。
宇宙即我が「幸福」であり、宇宙と我とが離れれば「不幸」になるのです。
自然即我が「幸福」であり、自然界と我とが離れれば、「不幸」になるのです。
神人合一が「幸福」であり、神人分離が「不幸」になるのです。
天国に帰天すれば「幸福」であり、地獄に堕ちれば「不幸」です。
「神の心」と合一して地獄に堕ちる人は、一人もおりませんので、不幸が消滅するのです。
「神の心」には、「ひとかけら」の不幸もありません。
「神の心」には、悪や罪が「ひとかけら」もないのです。
人間や救世主に全人類を幸福にする能力はありませんが、大宇宙や自然界にはあるのです。
エマソンが残しておられるように「自然は完全」だからです。
仮に人類80億人のその「心」が、全て自然界と合一できれば、一人も地獄に堕ちる人間がいなくなりますので、「人類の不幸」が消滅するのです。
数や量は関係ありません。
人類が100億人であろうが、200億人であろうが、自然界は完全であり、「神」ですので、これと合一し、「自然即我」の人類となれば、一人も地獄に堕ちることがありませんので、「人類の不幸」は消滅し、「人類の幸福」が実現するのです。
大宇宙や自然界の「救済力」は「無限」なのです。
過去の人類であろうが、現在の人類であろうが、未来の人類であろうが、「未熟な人類」にとって永遠不変の「善悪の基準」は、変わることなく、「大宇宙の存在」であり、「自然界の存在」であり、「多次元世界の存在」なのです。
未来の人類であろうが、自然界と合一できれば「善」なのであり、自然界と合一できなければ「悪」なのです。
「善悪の基準」とは、永遠に「神の存在」になっているのであり、変わることはないのです。
GLAでは、これを「ガンガーの流れが、2000年前も今も変わらないように、今後も神の心は永遠不変なのです」と説いていました。
コロコロと変わる人間の意見や信念など信用できませんが、「神の心」は永遠に変わることなく、「不変の心」ですので、信用できるのです。
「神の心」が、過去・現在・未来を通して変わらないとは、「時間の全体」を超越しているということです。
「時間」と「空間」は、4次元時空連続体と言って、切ることはできませんので、「神の心」は「空間の全体」をもまた超越しているということです。
「神の心」とは、「時間の全体」を超え、「空間の全体」を超えている「永遠の存在」であり、「絶対の存在」なのです。
「全人類の幸福」を実現したければ、人類各人の「心」が、大宇宙と合一し、自然界と合一し、多次元世界と合一し、「神の心」と合一すればいいのです。
真理とは、ただこれだけのことです。
「全人類の幸福」とは、永遠に「大宇宙との合一」にありますので、今後の人類はこの大宇宙や自然界との合一を目指していかなければなりません。
大宇宙や自然界との合一とは、「神の心」と「人類の心」との合一です。
これが「宇宙即我の文明」です。






















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