大宇宙は「神の心」の表現体であり、神の体です。
「大宇宙の存在」そのもの、「自然界の存在」そのものを「神」と言います。
20秒です。
もちろん「大宇宙の存在」を「神」と言いますので、過去・現在・未来の全人類一人残らずを永遠に支配しています。
一人残らずの人類を永遠に支配し、生かし、養い、指導しているということです。
「神の人類支配」から逃れることのできる人間は存在しません。
「大宇宙の存在」を「神」と言いますが、この大宇宙は「神の心」(精神)と「神の体」(物質)で構成されています。
大宇宙と人類は永遠に一体であり、神と人類は永遠に合一状態で生活しておりますので、人間は誰であろうが、この大宇宙の構成要素である「神の心」か「神の体」に必ず支配されるのです。
アインシュタイン博士が「相対性理論」で論証されましたように、物質(神の体)とはイコール「時空」であり、「時間」と「空間」は相対的なものです。
すなわち物質とは、「矛盾」を意味しているのです。
人間の表面意識や自我は、その知識・思考・概念・認識・情操、みな相対的な性質しか有しておらず、人間の相対的な自我は、同じく相対的な物質(神の体)の方面に対応しているのです。
過去・現在・未来の全人類は、全て大宇宙(神の存在)が永遠に支配しておりますので、人間がその相対的な自我を強化すれば、波長同通の法則の作用によって、同じく相対的な物質(神の体)の方面と心が同通し、その統一的な神我、ないしは統一的な良心を強化すれば、波長同通の法則の作用によって、同じく統一的な神の心の方面と心が同通します。
人間の「心」が「神の体」と同通し、支配されれば、物質の属性を有した思想や行動しか取れなくなり、相対的な「利益や快楽」を「天」に置くようになり、世界の悪化に拍車をかけていきます。
代表的な物質の属性とは、この相対的な「利益と快楽」であり、今の人類がこの「利益と快楽」を「天」に置いて目的にしているのは、神への信仰を失っている証拠です。
神への信仰を失った人間は、必ずその相対的な自我のままに生きておりますので、自動的にこの相対的な物質(神の体)の方面と心が同通するのです。
そして神への信仰を失った人間は、相対的なもの(利益と快楽)を絶対化し、「傲慢な存在」に変質していくのです。
だから「利益と快楽」を「天」に置き、眼前の大宇宙、すなわち神ご自身と離れ、宇宙と人類が分離し、「悪の存在」となり、世界の悪化を招いているのです。
「悪」とは、「神の心」と「人間の心」が離れることを言うからです。
過去・現在・未来の全人類にとって永遠不変の「善悪の基準」とは「大宇宙」、すなわち「神の存在」になっています。
「宇宙即我」が「善」であり、宇宙と我とが離れれば「悪」なのです。
神への信仰を失えば、必然的に人間の心は「神の体」(物質)と同通し、神が永遠に「地」と定めている「神の体」を「天」に置くようになるのです。
今の人類も相対的な「利益と快楽」を「天」に置いているはずです。
すると「神の体」を永遠に「地」に置いておられる大宇宙と人類が分かれてくるのです。
「宇宙即我」の人類ではなく、宇宙と我とが分離した人類になるのです。
「神の心」と「人間の心」が離れることを「悪」と言いますので、現代の人類は見事に「悪の存在」になっているということです。
「悪の存在」に世界と人類を良化する能力はないのです。
人間は誰であろうが、神への信仰によって「善の存在」となり、神への不信仰によって「悪の存在」になるのです。
大宇宙の構造と仕組みがそうなっているのです。
人間が、果たして「善の存在」になるのか、あるいは「悪の存在」になるのかは、ひとえに「大宇宙の存在」に依っています。
善悪は、永遠に神ご自身が決めておられるということです。
宇宙と合一できれば、「善」であり、宇宙と合一できなければ、「悪」なのです。
今の文明は、自然界と合一できておらず、離れておりますので、「悪の文明」と言っていいのです。
「悪の文明」だから悪化を続けているのです。
大宇宙や自然界では、永遠に「神の心」が「天」に置かれておりますが、我々の文明はこれを「地」に置いておりますので、自然界と分離しているのです。
「神の心」が永遠に「天」に置かれている世界で、この「神の心」をお金儲けの道具にしたため、高級霊から総スカンを食らい、死ぬまで霊言を出せなくなった救世主がおりましたけれども、それも今の人類と同様、「神の心」を「地」に置いてしまったからです。
宇宙と離れますと、救世主でも「悪の存在」になるのです。
我々の暮らしている大宇宙や自然界は、神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体の世界です。
この宇宙の構造と仕組みを変えることのできる人間は存在しません。
永遠に神の心が「天」であり、神の体が「地」で、天地一体の世界になっているのです。
この大宇宙に暮らしていながら、あくまで「神の心」を「地」に置くならば、その個人も、文明も、そのみずからの選択通り、「地」に向かうしかありません。
どこかの教団も30年以上、一貫して悪化を続けましたけれども、それはそこの中心人物が「神の心」を道具にし、「地」に置くことをやめなかったからです。
神の定めた「天地の方位」は、「絶体的な方位」であり、たとえ救世主であろうとも抗うことはできないのです。
「天」を選べば、「天」に向かい、「地」を選べば、「地」に向かうのです。
人間ではどうしようもありません。
大宇宙と人類は永遠に一体で暮らしておりますので、人間がその相対的な自我を強めれば、同じく相対的な神の体(物質)の方面と心が同通し、「地」に向かって悪化を続けるのです。
人間がその統一的な神我、あるいは良心を強めれば、同じく統一的な神の心の方面と心が同通し、「天」に向かって良化を続けるのです。
宇宙と人類の関係は、「宇宙即我」の関係ですので、人間は誰であろうが、「神の心」か「神の体」、すなわち大宇宙と同通するのです。
「神の心」とも、「神の体」とも、「同ずぅじたくなあーい」と鼻水垂らして、喚いたところで、どうすることもできず、必ず「同ずぅ」するのです。
どうしようもないのです。
神が人類を永遠に支配しているから「同ずぅ」するのです。
「同ずぅじだくなあい」とわがままこいたって、「同ずぅ」するものは、「同ずぅ」するのです。
どうしようもないのです。
人間は神の子ですので、「神の心」か「神の体」と必ず「同ずぅ」するということです。
人類の「心」が「神の心」と同通すれば、世界と人類は良くなっていきますが、人類の「心」が「神の体」と同通すれば、世界と人類は悪くなっていくのです。
現代の人類と世界が悪化を続けている理由もこれですが、その「心」が「神の体」と同通し、支配されてしまった原因こそが、この「神への信仰の欠如」なのです。
神への信仰を失ったがゆえに、人間は相対的な自我のままに生きるようになり、同じく相対的な物質(神の体)の方面と「心」が同通し、大宇宙と切り離され、「悪の存在」になってしまったのです。
神への信仰とは「自由」ではなく、「義務」になっているのは、この大宇宙の構造と仕組みが関係しているのです。
神ご自身が、神への信仰を失った人間は、自動的に「悪の存在」になるように創ったのです。
どう足掻いても、神への信仰を失った限り、それは「悪の存在」に過ぎないのです。
善は善であり、悪は悪なのです。
因果の理法をくらますことはできません。
不昧因果です。
「神の心」が永遠に「天」に置かれている世界で、それを「地」に置いたわけですから「悪の存在」になるしかないのです。
あの救世主でさえ、「悪の存在」になったまま、早死にしてしまったのです。
例外はないということです。
「神の心」が永遠に「天」に置かれている世界で、それを「地」に置けば、自動的に大宇宙と切り離され、自然界と分離し、誰であろうが、「悪の存在」になってしまうのです。
人間ではどうしようもないのです。
神の創られた正しき世界は、「神の心」を「天」に置くしかない世界なのです。
「神の心」が永遠に「天」に置かれているという、この大宇宙の構造と仕組みを変更できる人間は存在しないのです。
誰も変えられないのです。
従って「神の心」を「天」に置けない人間は、「悪の存在」になるしかないのです。
人間は、「神の心」を「天」に置かなければ、大宇宙や自然界と融合できず、「善の存在」になれないのです。
人間が「悪の存在」になれば、次に「主客合一の法則」が発動し、その「悪の存在」はそのまま客観化され、世界もまた「悪の世界」になっていくのです。
過去・現在・未来の未熟な人類にとって永遠不変の「善悪の基準」とは「大宇宙」、すなわち「神の存在」になっているからです。
人間には「善」を「悪」にしたり、「悪」を「善」にすることはできないのです。
善悪は、永遠に神ご自身が決めておられるからであり、人間が決めているわけではないからです。
霊格の高低に関係なく、如何なる人間であろうが、「神の心」か「神の体」と同通するのは、神と人類の関係とは「宇宙即我」の関係だからです。
神と人類は永遠に一体なのです。
永遠に「宇宙即我」の関係になっておりますので、人間は「神の心」か「神の体」と必ず同通するのです。
大宇宙や自然界と同通するということは、神と人類は永遠に一体で暮らしているという証拠です。
一体でなければ、「神の心」とも同通することはありませんし、「神の体」とも同通することはありません。
大宇宙と人類は、永遠に一体であるがゆえに、「神の心」か「神の体」と必ず同通するのです。
「縦の宇宙即我」とは「天地一体の悟り」であり、「横の宇宙即我」とは「宇宙即我の悟り」です。
当サイトで説いておりますのは、主にこの「縦の宇宙即我の悟り」であり、その「天地一体の悟り」は、「三千世界の根源的改造真理」として結実しました。
ただ今回の救世主は、幸福の科学の大川隆法氏でしたので、その巨大な「法の計画」があったはずなのです。
これが結局、下りなかったのです。
あの世の日蓮が今後、40年、50年と法を説いていけば、我々の目指している「法の大きさ」が理解できるであろうと言っておりましたので、大きな「法の計画」自体はあったはずなのです。
これは推測するしかないのです。
恐らくその計画されていた法とは、「横の宇宙即我」なのです。
大川さんは、高橋信次氏の「法の後継者」ですので、生前の高橋信次氏の悟りと法の延長で推測していくしかないのです。
高橋信次氏が説いた法は、「個の法」です。
個人の「思うこと」と「行うこと」の基準を説き、その基準を「自然界」に置いていました。
自然界は法のあらわれである。
人はこの法をもって思いと行いを正せよ : 高橋信次
「自然界の心」と「人間の心」を同じくしようとしたのです。(自然即我)
当時、あの世の高橋信次氏が、大川さんに言っていたのは「全体の法とその編纂」です。
高橋信次氏の延長で推測するならば、幸福の科学が期待されていたことは、個人の「思うこと」と「行うこと」の基準ではなく、人類全体の「思うこと」と「行うこと」の基準です。
私にも「全体の法とは、人類がこう思って、こう行うと、世界はこうなっちゃうよという法なのだ」と言っていました。
世界の悪化は、人類全体の「思うこと」と「行うこと」を通して悪化しているのです。
ならば人類全体の「思うこと」と「行うこと」を通して、同じく良化していくはずなのです。
「個の法」も「全体の法」も、その「思うこと」と「行うこと」の基準は同じく、「自然界の存在」であり、「大宇宙の存在」なのです。
基準は同じです。
大宇宙や自然界に表現されている「神の心」の通り、思ったり、行ったりしていないために、人類と世界の悪化を招いています。
GLAの時のように個人の「思うこと」と「行うこと」の基準に加えて、幸福の科学では、人類全体の「思うこと」と「行うこと」の基準の解明を期待されていたのです。
「思うこと」と「行うこと」の基準とは、「大宇宙の存在」であり、「多次元世界の存在」です。
だから大宇宙と多次元世界の構造と仕組みを解明せよと言っていたのです。
これは「宇宙即我」の悟りを持ち、「自然即我」の悟りを持っていなければ、解明できませんので、大川さんはGLAの頃よりも、詳細な解明を期待されていたことになります。
人類の「思うこと」と「行うこと」の基準の解明とは、かなり大きな法になります。
しかしてもしこの「全体の法」を説くことができれば、人類の「思うこと」と「行うこと」を通して悪化していった世界ですから、同じく人類の「思うこと」と「行うこと」を通して世界を良化していくことができるはずなのです。
幸福の科学は、この全人類の「思うこと」と「行うこと」の基準の解明を期待されていたのです。
これが説ければ、まさに大救世主でしょうね。

























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