今年は、大川隆法氏の三回忌だったと思いますが、幸福の科学は大川さんの葬式も上げておらず、未だ復活の祈りをしているようです。
「偉大なる常識人」の教えは、どこにいったというような状況であり、葬式もしないというのは酷い話です。
「救世の法の完成と成就」の使命も果たさず、「宗教改革」の使命も果たさず、「新たな文明建設」の使命も果たさないまま死亡されています。
何とも酷い結末で終わってしまったわけですが、何ら使命を果たさずに死亡するというのは、最も良心が後悔する死に方であり、それは神との約束を破ったことになるからです。
1980年代後半の凄かった頃の幸福の科学を知っている人間からすれば、まさに信じ難い事態と言えます。
幸福の科学は、既にカルト宗教という評価が固まってしまっており、教義の修正もしないまま教祖が死亡しておりますので、あのままにしておく以外にありません。
ただ初期の「人を信じ、世を信じ、神を信ぜよ」というのは、私の根本思想であり、あれをどうしてくれるのかという少し困った問題があります。
エルカン信仰を始めてしまったために、「神を信ぜよ」とは言えなくなったのです。
この思想を最初に日蓮が下ろしていたということは、私自身が幸福の科学の協力者の一人として予定されていたのでしょうが、生き神信仰を始めてしまったために行けなくなり、大川さんのサポートもできませんでした。
1980年代はエル・ランティから幸福の科学に行けと何年にも渡って強要されておりましたので、ずっと私は大川さんのサポート役だと思っていたのです。
結局、生き神信仰によってそれもできず、縁もありませんでした。
通常、カルト宗教の教祖は、オウムの麻原にしろ、旧統一教会の文鮮明にしろ、自分で勝手に救世主を名乗るものですが、大川さんの場合、自分で名乗ったのではなく、あの世のモーゼや高橋信次氏、ミカエル等々、諸神霊が共通して大川さんを現代の大救世主であると言ったから、みな信じたのです。
諸神霊からそう言われて、本人もその気になっていました。
当時、諸神霊は「天上界のヘッドと言われる方が出ているのだ」、「2000年から3000年に1回輝く光なのだ」、「大救世主が降臨しているのだ」、「世界教師であり、大導師が下生しているのだ」、「イエスの教えが世界中に広がるのに2000年かかったが、現代はそのように悠長に待っている時間的余裕などはないのだ。
人類の危機が迫っている。
同時代で全てを救うには、天上界としてもそれだけの巨大な力を持った者を出さざるを得ないのだ。
今回は仏陀の再誕は再誕でも、仏陀意識の本体が再誕しているのだ。
本体部分は、そうそう出てくるものではないのだ。
今回の大救世主・大川隆法は、かつての救世主にはなかったほどの力と使命を帯びて再誕しているのだ」と、凄いことを色々と言っていたのです。
「ベンジャミン・クレームが、いくらイギリスのロンドンで大マイトレーヤーを探したって、そのようなところに大マイトレーヤーは生まれてはおらず、この日本に生まれているのだ。
光は東方より、だ」と、あの世の諸神霊がこぞってそう言っていたのです。
この方が大マイトレーヤーなのだ、なんて「まあ、言っとるわ」、「まあ、言っとるや」、「まあ、イットれや」、「まあ、勝手に言っとレヤー」のマイトレーヤーになってしまいました。
「勝手に、まあイっとれやー」
今、気づいたけど、宇宙界のマイトレーヤー、もしかして怒ってるんじゃないか。
名前をもてあそばれて。
「まあイっとれやー」なんて言われて。
そういう時には「すみませんでした」、「ごめんなさい」と誤れば、諸神霊は寛容なので許してくれるのです。
「ごめんなさい」なんて、「まあ、言っとるわ」、「まあ、言っとれや」、「まあ、イットれや」、「まあ、勝手に言っとレヤー」、・・こういう人は反省してませんから。
ちなみにこのギャグは、「高橋信次の霊言」で言われていたことであり、あの世の高橋信次氏が言っていたのです。
うけたので真似しているだけです。
「兄は、あんな下品な冗談は言えない人でした。」
「・・・どうだか。」
まあ、勝手にそう言っトレヤー。
幸福の科学は、1991年3月、生き神信仰を始めてから、ついに一人も高級霊の霊言を出すことができませんでした。
諸神霊は、真理に関してそれだけ厳しい態度をとったということだと思われますが、「救世の法」は元の本来の意味に戻しておく必要があります。
この大宇宙では、如何なる人間であろうが、その相対的な自我を強化すれば、同じく相対的な神の体(利益と快楽)の方面と心が同通し、物質の属性を有した思想や行動をとります。
霊格の高低は関係ありません。
誰でもそうなるということです。
大宇宙が神であり、人類を永遠に支配しているからです。
物質の属性とは、「利益性」ですので、この利益に強く支配され、宗教ビジネスを始めるのです。
また物質宇宙は神の表現結果ですので、この物質の属性には、「結果主義」もあります。
物質に支配されている教祖は「結果しか見ない、数字しか見ない、言い訳は許さない」と言うようになるのです。
神の心の属性は「質性」であり、神の体(物質)の属性は「量性」ですので、相対的な自我を「天」に置いた教祖は、相対的な物質に支配されておりますので、この「量性」に心が強く支配されるのです。
やたら量にこだわるのは、神の心を心とせず、自己都合で法を説いていた証拠なのです。
神の心を信じてきた者は、真理の「質」で勝負するものです。
また物質の属性には、「無常性」があり、自己都合で真理を説いている人間は、この無常性に支配されています。
法がコロコロと現象無常で変わり、霊格や過去世がコロコロと現象無常で変わるのは、そこの教祖が相対的な自我を強めてしまったため、同じく相対的な物質の方面と心が同通し、この物質の属性である「無常性」に支配されたからです。
前で言うことと後で言うことが違ってくるわけですから、真理の統一性と一貫性は失われ、この無常性から法の矛盾があらわれてくるのです。
神への信仰を失いますと誰でもそうなりますので、神は信じざるを得ないのです。
自我を中心に自己都合に走りますと、この宇宙では必ず「矛盾」に支配されてしまうからです。
神への信仰と神の正しさを心の中心に置きませんと、相対的な自我の好悪のままに生きることになりますので、必然的に相対的な物質と心が同通し、この物質の属性である「矛盾」に心が支配されるのです。
そうなりますと「矛盾」に支配された心境で「法の編纂」はできませんので、真理の体系が矛盾だらけになっていくのです。
神への信仰なき人間は、必ず相対的な神の体(利益と快楽)に支配されてしまうのです。
今の人類もされているはずです。
心の物指しは「利益と快楽」に置かれ、自己に不利益や不快な進言や諫言、あるいは行動をとる者に対しては、情け容赦なく、首、破門、左遷、追放、粛清の嵐となり、その恐怖から周りはイエスマンだらけになっていくのです。
生き神信仰の悪い点ですが、こうなりますと、もはや救世の母体とは言えなくなります。
これも全て中心人物である教祖が、神の正しさを心の物指しとせず、利益と快楽を心の物指しに置いたからです。
相対的な自我を強化すれば、必ずこの相対的な物質の方面と心が同通し、物質の属性に支配され、この利益と快楽に突進していくのです。
ひたすら利益と快楽を選択しようとするのです。
そして利益と快楽をめがけて突撃しながら、「一点の悔いなし、一点のためらいなし、一点の後悔なし、一点の逡巡なし、一点の躊躇なしに利益と快楽に猪突猛進!」するのです。
天上界のヘッドはイノシシか。
そのようなことをしておりますと、悪魔にぼたん鍋にされて食べられてしまいます。
悪魔は、決して矛盾を見逃しません。
必ず突いてくるのです。
だから矛盾を信じさせるのは危険なのです。
生き神信仰とは、教祖の相対的な自我を信じさせている信仰であり、それはすなわち矛盾(自我)を信じている信仰です。
非常に危険な信仰であり、だから生前の高橋信次氏も「神仏を名乗る者を決して信じてはならない」と残し、個人崇拝を厳しく戒めていたのです。
相対的な利益や快楽は、西田哲学でも残されておりますが、善悪の標準にはならないのです。
大救世主であるならば、過去・現在・未来の全人類に対してこの善悪の永遠不変の基準を示さなければならないのです。
大川さんは、大救世主としてこの善悪の基準を人類に対して示せなかったのです。
それは生死の基準を示せず、幸不幸の基準を示せなかったのと同じです。
正しき心の探究を放り出し、利益と快楽に猪突猛進し、本人自身がその心の物指しを「利益と快楽」、この心地良いものに置いていたことが原因です。
「利益と快楽」は、心の物指しにはならないものであり、その正体とは「矛盾」だからです。
相対的な利益と快楽を心の物指しに置いておりますと、本人が矛盾の大海に没していくだけです。
過去・現在・未来の全人類に普遍妥当する不変なる善悪の基準とは、眼前の大宇宙の存在であり、自然界の存在であり、多次元世界なのです。
我々が暮らしている世界そのものが、変わらぬ善悪の基準です。
如来界共通の悟りの一つに「宇宙即我」の悟りがありますけれども、「宇宙即我」の悟りとは、宇宙の存在そのものが、人類にとっての永遠の善悪の基準になっているという悟りなのです。
大宇宙の存在を神と言うからです。
幸福の科学は、至れり尽くせり、順風満帆な船出だったのです。
進路と航路は、人類の幸福ではっきりしていたのです。
大川さんは、エル・ランティによって大きく豪華な桐箱に大切に入れられ、箱入り娘ならぬ、箱入り息子として育てられ、大切に大切に育てられていました。
良く言えば、それだけ期待されていたということであり、悪く言えば、それだけ甘やかされていたということです。
私のように、お前みたいな雑草は、そこら辺で勝手に生えとれ、みたいな扱いではなく、非常に大切に育てられたのです。
そのおかげでまあ、わがままに育っちゃって、あれでは周りの人間が迷惑したろ。
初期にはあの世の谷口雅春氏から、「生長の家の信者を、幸福の科学に少し分けてやろう」なんて言われていました。
物じゃあるまいし。
「生長の家の信者を、幸福の科学に少し分けてやろう」
おすそわけ?
夏のお中元か。
冬のお歳暮か。
お隣さーん、ちょっと今日、肉じゃが創り過ぎちゃって、おすそわけー。
お隣さーん、ちょっと今日、信者、創り過ぎちゃって、おすそわけー、みたいな。
やっぱお中元か。
お歳暮か。
作り過ぎた肉じゃがか。
幸福の科学は、1991年3月の生き神信仰化によって、徐々に悟りが低下していきます。
悟りの低下は、非常に危険なシグナルであり、悟りの喪失に向かっているのです。
信者の方の話によりますと、1994年の法シリーズから真理の質がガクッと落ちたと言います。
調べてみますと、1994年『月刊誌、幸福の科学3月号』で宇宙の根本神仏を名乗っていました。
1994年.幸福の科学 3月号 NO.85(75頁)
この年は、幸福の科学にとっては決定的な年になったようであり、「1994年.幸福の科学 2月号 NO.84(42頁)」ではこう言っていたのです。
2月号では、まだ「偉大なエル・ランティ様」なんて言っていたのです。
それからわずか3か月後の「1994年.幸福の科学 5月号 NO.87(17頁)」では、その「偉大なエル・ランティ様」は、単なる「切れっぱし」になってしまいました。
教祖の悟りと精神性に何か不安定なものがあったことが伺えます。
「偉大なエル・ランティ様」と言っていたものが、わずか3か月後には「切れっぱし」と侮辱しているわけですから、少し異常性を感じます。
高橋信次氏を「雷門の浅草仙人」とも呼んでおりましたが、何かイメージだけで言ってないか?
「切れっぱし」という言い方は、失礼な言い方であり、酷い言い方だと思いますが、いくら呼んでも出てこなくなったため、頭にきたのでしょうね。
ただ呼んでも出てこなくなった高級霊は、何も高橋信次氏だけではなかったはずです。
高級霊は、全員呼ばれても出てこなくなっていたはずです。
こちらは真理探究と悟りを上げることで忙しかったため、これはかなり後で知ったことですが、何故、高級霊が出てこなくなったのかは、1991年、1992年、1993年にやっていたことを見れば得心がいきます。
少し振り返れば、分かりそうなものですが、本人らは分からなかったようです。
本当に驚いたのは、宇宙の創造主を名乗り、それが途中で何ら修正されることなく、大宇宙の根本神仏を名乗ったまま死んでしまったことです。
これはショッキングな事実ですが、死んだ人間は生き返りません。
当サイトでしてやれそうなことは、「救世の法」を本来の意味に戻し、「救世の法」を完成成就し、大魔王即大如来としての神の心の全容を可能な限り解明し、『神約民主論』国家の実現を通して大宇宙の絶対的権威を確立し、「宇宙即我」の文明を建設していくことだけです。
私の悟りの大部分は、この「大魔王即大如来」としての神に集約されています。
この言葉は、1981年にSF作家の故・平井和正氏によって教えて頂きました。
1981年という年は、丁度大川さんが高橋信次氏の通信を受け始めた年です。
私は分からないために「謎の意識体」と呼んでおりますが、エル・ランティが「いいですか、今回の救世運動は絶対失敗はないのです」と言っていた1987年のまさにその瞬間、「失敗させる、思い通りにはさせない、逆の結論にする」と言っていた意識体が存在していたのです。
初めは一瞬「あれ、何で」と思ったわけですが、その後の経過を見ますと「謎の意識体」の言う通りになっています。
エル・ランティの意識量を遥かに超えた大きなエネルギー体でしたので、大日意識以外に見当たらないわけですが、本当は分からないため「謎の意識体」と言っています。
「大魔王即大如来」という7文字に「救世の法」が凝縮されており、恐らくこの「謎の意識体」が導いて下さったと思っています。
何故なら平井さんが自分の小説に「大魔王即大如来」を書かなければ、今の私の悟りはないからです。
平井さんで一拍置いたのは、恐らく導いている意識体の存在を私に教えるためです。
私もこの「大魔王即大如来」の真理に救われた感が強い一人です。
どこかに無茶苦茶なことをする方がいらっしゃってね。
命がいくつあっても足りないことを、いくらでもして下さる神霊がいらっしゃいまして、おかげで随分と真理と悟りが上がりました。
俺が、どんだけ命の危険に晒されたかは、俺の真理の高さを見れば分かるだろう、みたいな。
その「謎の意識体」は、私を幸福の科学から意図的に遠ざけていたのです。
怖ろしいものに近づくなという意味で、意識を人格化し、私の背中を引っ張ってくれたこともあります。
実際、十数年後に恐ろしい団体になったのです。
エル・ランティは、幸福の科学に行けと常に強要しておりましたので、この「謎の意識体」はエル・ランティではないのです。
未来が完璧に見えている意識体であり、幸福の科学の「救世の法」がなくなることも見えていたのです。
この世の人間はその時にならないと分からないわけですが、「こんな酷い状況では、救世の法がなくなるのではないか」と思っておりますと、「あれ、でも俺が戻せるからなくならないよな」と気づくのです。
そして何故なくならないのかという理由を考えますと、1981年に「大魔王即大如来」の言葉を知ったからです。
1981年に既に布石が打たれていたのです。
その「謎の意識体」は、20年後、30年後の未来が明確に見えており、その20年前、30年前から布石を打っているのです。
まるで神さまのようであり、神さまというのは、ああいった存在を言うのであろうと思ったことがあります。
大川さんと高橋信次氏だけならば、今回の「救世の法」はなくなっていたのです。
「救世の法」がなくならないように1981年の段階で、この「謎の意識体」が布石を打っていたため、「救世の法」はなくならないのです。
1981年に大川さんには、エル・ランティが通信を開始し、同じ年に私にはこの「謎の意識体」が導いていたのです。
この「大魔王即大如来」の結論は、今も変わっておらず、今後も変わりません。
この記事へのコメントはありません。