真理関係

レザレクション 5

最高霊域・如来界におられるお歴々の共通の悟りとは、「宇宙即我」の悟りです。

すなわち個人の「頂点の悟り」とは、この「宇宙即我」の悟りなのです。

「大宇宙」と「我」とが一体となり、「大宇宙の存在」が「神」そのものである事実を悟っておられる諸神霊がこの如来界におられるのです。

もちろん「大宇宙」は人間の創ったものではありませんが、「頂点の悟り」を極めれば、誰でもこの「大宇宙の存在」に到達するのです。

西洋で修業しようが、東洋で修業しようが、北から登ろうが、南から登ろうが、山の頂上は同じであり、「大宇宙の存在」です。

「大宇宙の存在」のことを「神」と言うからです。

従って「個人」の「頂点の悟り」とは、この「宇宙即我」の悟りですが、「人類」全体の「頂点の悟り」も、同じくこの「宇宙即我」の悟りなのです。

今後の人類は、「個人」にしろ、「人類全体」にしろ、この「大宇宙の存在」を目標とし、ここを目指し、合一していかなければならないのです。

「大宇宙」と合一して地獄に堕ちる人間は存在しません。

すなわち「宇宙即我」の悟りに地獄なしです。

確かに地獄に堕ちれば「不幸」ですが、誰も地獄に堕ちないわけですから、「宇宙即我」の悟りに「不幸」なしです。

「人類の不幸」は消滅していきますので、「人類の幸福」がそこに実現していくのです。

「人類の幸福」を実現していくとは、人類各人がこの「宇宙即我」の悟りを得るということなのです。

正確に言えば、多次元世界の全体のことを「神」と言いますので、5次元精霊界から10次元宇宙界までならばどこでも良く、「神のスカートの裾」である5次元精霊界や6次元霊界を掴んでもいいし、「神の二の腕」である8次元菩薩界や9次元如来界でも良いのです。

「宇宙即我」の悟りとは、「大宇宙」と「人間」との合一であり、それは人間のほうが自力的に「神」のどこかを掴む行為を意味します。

善霊は善霊に通じ、悪霊は悪霊に通じますので、みずからが「善」でなければ、「神」の何某かを掴むことはできません。

果たして人間が「善の存在」になるのか、「悪の存在」になるのかは、ひとえに「神の存在」に依っているわけであり、具体的に言えば、実は「善霊」と「悪霊」に依っているのです。

これはこの世の人間には原則、分からないわけですが、人間がどう善人ぶろうが、あるいはどう悪人ぶろうが、「善の存在」ならば、「善霊」と同通しておりますし、「悪の存在」ならば、「悪霊」と同通しているのです。

どう善人ぶっても悪霊と同通している限り、それは「悪」なのであり、オスカー・ワイルドのようにどう悪人ぶっても善霊と同通している限り、それは「善」なのです。

あの世の善霊は「神の心」の通りに動いておりますので、「神」が「善人」と「悪人」を分けていると言ってもいいし、その「神の心」に従って動いている諸神霊や善霊が「善人」と「悪人」を分けていると言ってもいい。

善悪の判断は、地上人間の修行になっておりますので、あの世の善霊のように判断することはできません。

諸神霊は、「邪教」と言うのは、この世では分からないけれども、あの世では確実に判定されると述べておりましたが、それは「神の光」で分かるのです。

「邪教」はこの「神の光」が出ておらず、良からぬ霊にコントロールされておりますので、確実に判定できるのです。

単純に言えば、「神の光」が出ていれば「善」なのであり、「神の光」が出ていなければ「悪」なのです。

そしてこの「神の光」は、地上人間には見えないのです。

「神の光」が見えないということが、「善悪の修行」になっているのです。

ただ過去・現在・未来を通して変わらず、「神の光」が出ていれば「善人」なのであり、「神の光」が出ていなければ「悪人」ですので、この場合「善人」に戻るための「修行と修正」が必要になるということです。

「神の光」は、「神の心」に付随しておりますので、畢竟、人間が「善」となり、「神の光」を出していくには、「神の心」を「心の基準」にするしかないということです。

「神の心」とおのれの心を同じくしなければ、この「神の光」が出て来ないからです。

「神の光」が出てこなければ、人は「善人」にはなれません。

「神の光」が出ている人間が「善人」であり、「神の光」が出ていない人間が「悪人」と便宜上述べても間違いではありません。

実際、「神の光」がその「心」から出ている人の中で地獄に堕ちる人はいないからです。

一人も地獄に堕ちることなき「地上天国」の建設とは、「宇宙即我の文明」の建設のことを言います。

「宇宙即我の文明」とは、「天地一体の文明」のことです。

「神の心」の「天」と「人間の心」の「地」が融合し、天地一体となった時、そこに一人も地獄に堕ちることなき「地上天国」が創られるのです。

「神の心」(天)と「自己の心」(地)の天地が交流している人間が、どうして地獄に堕ちるのでしょう。

生きながら「天」とその「心」が交流しているのです。

当然、「神の光」も出ています。

誰が地獄に堕ちるというのでしょう。

そう、一人も堕ちません。

天地一体の悟りに地獄なし。

「地獄なし」とは「不幸なし」です。

「不幸なし」とは、これを人類の「幸福化運動」と言うのです。

「全人類幸福化運動」とは、人類各人がこの「宇宙即我」の悟りを得るということであり、「天地一体」の悟りを得るということです。

「天」を目指すと言うことです。

地獄界とは、「大宇宙」と合一できなかった者達が堕ちているのです。

「天」(神の心)と交流できなかった人間が地獄に堕ちていくのです。

すなわち「天地分離の原理」が、人類の「不幸の原理」なのです。

換言すれば、「天地一体の原理」が、人類の「幸福の原理」です。

宇宙は永遠に「天地一体の原理」を体現しておりますので、永遠に「幸福の原理」を体現していると言えます。

そもそも「神」は「人間」を「地獄」に住まわせているのではなく、永遠に「神の心」が「天」に置かれている「天国」に住まわせているのです。

そもそも「神」は「人間」を「不幸な世界」に住まわせているのではなく、「幸福な世界」に住まわせているのです。

それを「人類の未熟」から「神の体」を「天」に置くことを通して、「神」の創られた「天国」を「地獄」に変え、「神」の創られた「幸福な世界」を「不幸な世界」に変えたのです。

この世界を「神」の創られた通りの「天国」に戻し、元の「幸福な世界」に戻していくには、「神の体」を「天」に置いた世界を「悔い改め」、大宇宙や自然界と同様、「神の心」を「天」に置いた世界を創っていくしかありません。

「神の体」(物質)とは、相対的なものであり、「矛盾」を意味しています。

「矛盾」を「天」に置けば、無限の悪の現象化は避けられず、人類は「悪の洗礼」を施されることになるのです。

「悪の洗礼」を受ければ、邪教団の信者と成り果て、多くが地獄に堕ちていくのです。

この世界と人類の悪化を食い止めるには、ゼウス神の「警告」に耳を傾け、その「警告」に従うしかありません。

方法は一つ。

光に向け、神に向け、神に向かうことだ。

それ以外に方法はない。

ソース : ゼウス霊示集(30頁)

今の人類がどう屁理屈を垂れようが、「神の心」に向かわなければ、人間の心からこの「神の光」が出てこないのです。

「神の光」が出てこなければ、地球を「光の惑星」にすることはできず、「神の光」で覆うこともできないのです。

まさに「それ以外に方法はない」のです。

「神の光」は「神の心」に付随しているからです。

人間の屁理屈や忖度で「神の光」が出てくることはないのです。

「神の心」をくらますことはできません。

「神の心」に叶っていれば「神の光」は出てくるし、「神の心」に叶っていなければ「神の光」は出てこないのです。

ただそれだけのことです。

これも未来永劫変わりませんし、変えることもできないのです。

無神論の時代において地獄に堕ちる人間が多発するのは、「天」を軽んじているからであり、そもそも「天」と合一しようとしないからです。

神への信仰なき人間は、神への信仰がないわけですから、必ず相対的な自我のままに生きているのです。

人間の自我は、その知識・思考・概念・認識・情操、みな相対的な性質しか有しておらず、この「自我の相対性」は、「物質の相対性」(神の体)と対応しているのです。

アインシュタイン博士は、その「相対性理論」において物質とはイコール「時空」であり、その「時間」と「空間」の「相対性」を論証されましたが、これは人間の「自我の相対性」と波長同通するのです。

従ってこの大宇宙に暮らしている限り、神への信仰なき人間は、必ず「相対的な自我」のままに生きておりますので、必然的に「相対的な物質」の方面、すなわち「神の体」の方面と「心」が同通しているのです。

神への信仰を失った人間は、この宇宙では、自動的に「神の体」(物質)に支配されるということです。

「神の体」は、永遠に「地」と定められておりますので、「神の体」に支配された人類は「地」に向かうしかなく、悪化を続けるしかないのです。

この宇宙の構造と仕組みによって、人間は誰であろうが、神への信仰を失いますと、「神の体」に支配されてしまいますので、「悪の存在」になるということです。

つまり我々の暮らす大宇宙では、神への信仰を失った人間は、必然的に「悪の存在」になってしまいますので、この世界は「神の心」を信ずるしかない世界なのです。

現代の人類も同じですが、見事に「神の体」と同通しています。

「物質の属性」に従って「思うこと」と「行うこと」が決まっておりますので、良くなりようがないのです。

そして「物質の属性」をもった思想と行動を取ることによって、その人間の存在自体が、地球の汚染源の一つとなるのです。

代表的な「物質の属性」とは、相対的な「利益と快楽」であり、これを「天」に置いて目的にするのです。

だから資本主義を通して相対的な「富」を「天」に置き、民主主義を通して「人民共通の利益」と称して、相対的な「利益」を「天」に置き、社会主義を通して「唯物論と称して」相対的な「物質」を「天」に置き、延々と「神への傲慢」に耽っているのです。

「神への傲慢」とは、相対的なものを絶対化し、神が永遠に「地」と定めているものを「天」に置くことです。

過去の文明も、全てこの「神への傲慢」によって滅び去っていったのです。

今回もそうなる可能性が極めて高いのです。

「物質の相対性」は、既にアインシュタイン博士が証明しておられるわけですが、今の人類はこの相対的なものを「天」に置いて絶対化しているのです。

相対的なものを相対化できず、絶対的なものを絶対化できないのです。

相対的なものを「天」に置いて絶対化するというのは、随分と非科学的な人類です。

この「非科学性」も人類の「無知」と「未熟」が原因です。

真理知識の著しい「不足」と言い換えてもいい。

宇宙がまるで見えていないのです。

相対的なものが見えず、絶対的なものも見えず、「天」も見えず、「地」も見えず、「天地」も見えず、「宇宙」も見えていないのです。

「盲目の衆生」とはよく言ったものです。

「宇宙即我」の悟りとは、「天」を知り、「地」を知る悟りです。

天地を知った時、「宇宙即我」になるのです。

「天」に置くべきものを「地」に置き、「地」に置くべきものを「天」に置いているようでは、「救世」にはなりません。

「救世の法」の基本とは、この「宇宙即我」の悟りなのです。

「宇宙即我」の悟りを説けない人は、「救世の法」を説けない人なのです。

「救世の法」の「編纂」とは、「宇宙即我」の悟りの「編纂」だからです。

今後の地球では、この「宇宙即我」の悟りが説かれていくのです。

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