汝自身を知れ(グノーティ・サウトン): ソクラテス
悟りとは、真正の自己を知る、これに始まってこれに尽きる : 西田幾多郎
果たして人間とは「肉体的存在」なのか、あるいは「精神的存在」なのかという「人間の存在」の定義によって価値観や世界観は根源から変わってきます。
結論から言えば、「人間の存在」を「肉体的存在」と定義すれば、全ての価値観と世界観は「矛盾」にぶつかり、人間とは、価値の低い存在ということになるのです。
と言いますか、人間とは単にそこに没価値的に「偶然」川辺に転がっている、さながら「小石」のような存在であり、全く無意味で、無価値な存在に過ぎなくなるのです。
人間の肉体に同一のものはなく、指紋・声紋・顔形・身長・体重・髪の毛の本数から生理現象に到るまで悉く同一の肉体はなく、「平等」はないためです。
「人間の存在」を「肉体的存在」と定義すれば、人間とは「無価値な存在」になるのです。
「平等」がないとは、「人類の共通性」がないということですので、人類に普遍妥当する高邁な思想や価値は存在しないという結論になるからです。
かつて「イギリス経験論」哲学が、こういった結論に到達し、「真理の懐疑論」に陥ったのです。
「真理」や「正義」などと言った価値は、本当は存在しないけれども、そう主張すれば、人間のほうが怒ってしまうために、あくまで社会の調和と安寧秩序のために便宜上、「正義や愛」は主張されているに過ぎないのだ。
本当は「正義や愛」など存在せず、「真理」もなく、いわんや「神」も存在しない。
少なくとも「神の存在」は明確には証明できない。
それはあくまで人間社会の利益のために主張されているのであって、本当は存在しないのだと言う「真理の懐疑論」になったのです。
「正義や愛」(神の心)のために人間が存在しているのではなく、あくまで「人間とその社会的利益」のために「正義と愛」は主張されているのであり、本当はそのような「真理」は存在しないのだという結論です。
イギリス経験論は、「真理」に到達することのできなかった知的に劣る哲学と言えます。
劣った哲学者や人間が到達した結論が、この「傲慢」なのです。
あくまで「人間」が「神」のために存在しているという「永遠不変」の「人生の意義」に到達することができず、なんと「神」のほうが「人間とその社会的利益」のために存在しているかの如く、「神の存在」を「人間の端女(はしため)」にしてしまったのです。
「端女」(はしため)とは、「女中」のことであり、「お手伝いさん」です。
「神」は「人間の利益」のために存在しているという「傲慢な哲学」となり、その「神の心」(真理)すら、実はその存在は証明できないとまで言い切ったのです。
正確に言えば、「神の存在」は確実に証明することができないという、深い不可知論に陥ったのです。
無神論と同じです。
「神の存在」を知らないで証明しようとするからそうなるのです。
「神の存在」を証明するとは、「大宇宙の存在」を証明することなのです。
果たして「大宇宙の存在」とは、それを証明するようなものなのでしょうか。
「大宇宙の存在」を証明するも何も、人類はみな大宇宙で暮らしているわけであり、証明しようが、すまいが人類は大宇宙や自然界と離れて生きていくことはできないのです。
試しに自然界の外に出て、暮らしてみると言い。
自然界と離れては、誰一人生きていくことはできないのです。
これが人間は、「神の存在」と離れて生きていくことはできないという意味なのです。
つまり大抵の人間は、目の前に存在している「大宇宙の存在」が「神」であるという事実を知らないのです。
ここ数千年は、知らない「神の存在」を一生懸命証明しようとしてきた歴史なのです。
本人が知らないわけですから、その知らない「神の存在」を証明できるはずはないのです。
「大宇宙の存在」を「神」であると知っていれば、「大宇宙の存在」を証明しようとする人間はいないのです。
「大宇宙の存在」を「神」であると知らないがゆえに、その知らない「神の存在」を一生懸命証明しようとするため、その架空の「神の存在」を証明できなくなるのです。
「神」は、如何に愚かで未熟な人間であったとしても、「絶対」神の存在だけは「否定」できないように「大宇宙」として目の前に永遠に存在しているのです。
もっと具体的に言えば、「神の存在」を「否定」するとは、「大宇宙の存在」を「否定」することと同じなのです。
「大宇宙の存在」を「否定」できる人がいるのでしょうか。
たとえ口先で「大宇宙の存在」を「否定」したとしても、その「大宇宙」が忽然となくなり、消滅するわけではありません。
また「量子力学」を持ち込み、人間が観測している時には「大宇宙」は存在しているが、人間が観測していない時には「大宇宙」は存在していないとする「コペンハーゲン解釈」を持ち込んで「否定」してみても、人間や大宇宙の「存在意義」を説明することはできません。
「量子力学」では、何故、「観測者」がそこに存在しているのかを合理的に説明することはできないのです。
何故、「人間」はそこに存在し、何故、「大宇宙」はそこに存在しているのか?
「神の心」とは、この「人間」と「大宇宙」の存在意義と目的を明確に説いた「教え」なのです。
これが説けなければ、それは「神の心」とは言えません。
イギリス経験論は、認識は経験を通して獲得されると説いたため、普遍的な真理に到達できなかったのです。
好意的に見ても自我に比喩した「方便の哲学」であり、善の有効範囲は「有限」です。
「真理の正邪」を分ける「神の理法」から言えば、明確に「悪の哲学」と言っても良く、少なくとも無限に広げていい哲学ではありません。
「神」は存在するのか、しないのかすら、分かっていないような哲学や思想を広げても、問題提起はそれなりにあるかもしれませんが、基本的に実害なだけです。
「神の存在」がなくなれば、人は必ず相対的な「利益と快楽」を追い、「悪」を目的に生きるようになるのです。
だから「神」は「人間社会の利益」のために存在していると捉え、現代も「利益と快楽」を「天」に置いて気候変動を引き起こしているのです。
神への傲慢が、気候変動を引き起こしたのです。
「神」が「人間社会とその利益」のために存在しているというならば、その「人間」自身は、一体何のために存在しているのでしょう。
「神」ですら「人間の利益」のために存在しているわけですから、人間の「存在意義」と「人生の意義」とは、「利益と快楽」に他なりません。
「利益と快楽」は、相対的なものであり、その正体は「矛盾」です。
「矛盾」は、万人共通の「人生の意義」にはなりません。
今の人類はその「矛盾」を目的にして悪化を続けているのです。
思想や哲学の世界でも、矛盾した思想や哲学は価値の低いものですが、価値が低いとは、神の心から離れていることを意味しておりますので、悪化していくしかないのです。
この宇宙では統一が「天」であり、矛盾が「地」で、永遠に天地一体の世界ですので、「矛盾」に向かえば、「地」に向かうことと同じですので、人類と世界が悪くなることはあっても、良くなることは決してないのです。
神の定めた「天地の方位」は「絶対」だからであり、必ずそうなる方位だからです。
誰も抗うことはできないのです。
「天」を選べば良くなりますし、「地」を選べば悪くなるのです。
「神の心」とは、これだけのことです。
今の人類は、「資本主義」を通して相対的な富を「天」に置き、人民共通の利益に基づいた国家契約である「民主主義」で相対的な利益を「天」に置き、「社会主義」の唯物論で相対的な物質(時空)を「天」に置いているのです。
神が永遠に「地」と定めているものを全て「天」に置いてしまっているのです。
世界と人類が悪化を続けるのは当たり前の話です。
いくら人間がそれを「天」に置こうとも、それは神によって永遠に「地」と定められておりますので、「地」に向かって悪化を続けるだけです。
たとえ「人類」が一丸となって「神」に抗おうとも、誰も「天地の方位」に抗うことはできませんので、「人類」は一丸となって今後も悪化を続けていくということです。
この世界の悪化を食い止め、人類の良化を望むのならば、神の創られた正しき「神の神殿」(地球)において、国民が「主権者」であり、神から遠い人間達が「主権者」であるというような「明白な嘘」をつくことをやめて、「真の主権者」である「神の心」と「神の体」、いわゆる「大宇宙」にその「主権」を返上し、大宇宙や自然界と同様、「神の心」を「天」に置くことです。
そうしなければ、人類と世界が良くなることはないのです。
宇宙や自然界は、神の創られた世界ですので、当然のことながら「人間の意向」が現実化してくることはなく、常に優先的に「神の意向」が現実化してくるのです。
「神の意向」が優先的に現実化しているから悪化を続けているのです。
「人間の意向」としては、みな世界を良くしようと思っているのです。
「人間の意向」としては、世界を良くしようと思っているのですが、そうならないのは、この世界は神の創られた世界ですので、常に「神の意向」が優先的に現実化してくるからです。
「人間の意向」が世界に現実化してくることは、かつてなかったし、今もないし、今後も永遠にないのです。
「人間の意向」を現実化しようとすれば、するほど、悪化と腐敗が度を越して進んでいくだけに終わります。
今の人類はそれを経験しているのです。
何十年生きても、決して良くなることはありません。
この文明は、あまりにも「神の体」(利益と快楽)を「天」に置き過ぎており、人間の「人生の意義」が変わってしまっているのです。
大宇宙や自然界が「魂修行の場」としての体をなしていないのです。
誰かさんが、ひたすら利益誘導をしている世界としか思えないのです。
「正義」(神の心)のために生きるのではなく、「利益」(神の体)のために生きることが「人生の意義」となっており、「幸福の実現」(神の心)のために生きるのではなく、「快楽の実現」(神の体)のために生きることが、人間の「存在意義」になってしまっているのです。
「人間の存在」を「肉体的存在」と定義すれば、そこに「人類の平等」はなく、「共通性」もありませんので、「矛盾」(神の体)しか存在しない世界になるのです。
「矛盾」しか存在しない世界では、ひたすら人類はその「矛盾」(利益と快楽)を目的にひた走るのです。
「矛盾」は神によって永遠に「地」と定められておりますので、「矛盾」(利益と快楽)を「天」に置く限り、人類は一丸となって「地」に下り、「地」に向かって悪化を続けるしかないのです。
どこかの大救世主も「利益と快楽」をむさぼって「地」に向かい、一貫して悪化を続けた挙句、死んでしまったのです。
「地」を選べば、「地」に向かうのです。
神の定めた「天地の理法」は「絶対の理法」であり、たとえ大救世主であろうとも、抗うことはできず、「地」を選んだ限り、誰であろうが「地」に向かうのです。
「利益と快楽」のほうが気持ちがいいものだから、みずからの選択で「地」を選び、道を踏み外していったのです。
道を踏み外したのは、一体誰の責任ですか。
本人の責任であり、「利益と快楽」を選べと言っていた高級霊は、ただの一人もいませんでした。
どの高級霊も「現世利益を売り物にする教祖は堕地獄である」と言っていたのです。
にも拘らず本人が選んだわけですから、それは誰の責任でもない「本人の責任」なのです。
「神の体」(利益と快楽)の正体とは、「目的」にもならず、「否定」もできず、そして「なくならないもの」です。
「神の体」は、大宇宙と同様、「神の心」によって「統一」するしかありません。






















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