本サイトは、基本的に「真理のサイト」であり、「時事ネタ」のサイトではありません。
「神の心」を最高レベルで編纂する「目的」で開設されているサイトです。
従って本サイトに興味のある方というのは、基本的に「神の心」に興味のある方であろうと思います。
それを前提として、一つの「質問」と言いますか、「問題」を出してみたいと思います。
「神の心」を求める「求道者」であるならば、一つ解いてみて下さい。
それほど難しい問題ではありませんけれども、もしこの「問題」を自力で答えることができなければ、「真理の使徒」としては、その「悟りのレベル」は、明らかに「中クラス以下」なのです。
もしこの「問題」に答えることができれば、「悟りのレベル」としては、「初級から中級クラス」の「悟りのレベル」にあるということです。
一つ考えてみて下さい。
この問題は、かつて唐代の禅僧・臨済義玄和尚(りんざいぎげん)が弟子達に課した問題と同じです。
臨済和尚のお弟子さんが、答えることができたのか、否かは判然としません。
臨済和尚は「1159年前」の禅僧ですが、1200年前の坊主にしてこの境地にあったということなのです。
自分の「悟りのレベル」を確認してみて下さい。
『宗門統要集5』には、臨済和尚がその門下の雲水に対して述べている箇所があります。
師(臨済和尚)は、機に応じて「喝」を用いることが多かった。
その門下の雲水も師の喝(かつ)を真似た。
ある日、師(臨済和尚)は、僧に問うた。
「君たちはみなわしの喝を真似ているが、ひとつ尋ねてみたい。
一人が東堂から出てきて、一人が西堂から出てきた。
両人そろって一喝を交えたとする。
そこに「主客の別」は、はっきりしている。
君たちはどう見分けるか。
もし見分けられねば、今後わしの喝を真似てはならぬ」
弟子が師を真似るのは子供だからですが、そこには物質と形への執着があるのです。
物質に執着している方に、この臨済和尚の言葉を理解することはできません。
物質に執着している「未熟者」は、この「主客の別」を見分けることができないのです。
東堂から一人の禅僧が出てきて、西堂からもう一人の禅僧が出てくる。
互いにあい対し、正面から同時に「一喝(いっかつ)」を交える。
臨済和尚の言う通り、「主客の別」は、はっきりしています。
一体、どちらが「主」であり、どちらが「客」なのか?
東堂の禅僧が「主」なのか、あるいは西堂の禅僧が「主」なのか?
あるいは東堂の禅僧が「客」なのか、あるいは西堂の禅僧が「客」なのか?
さあ、「主客」をどう見分ける?
「主客の別」は、はっきりしている、さあ、答えてみせよ。
この臨済和尚の課した「問題」は、ある意味「真理の基本」なのです。
見分けられずに、おどおどしておりますと、臨済和尚に胸倉をつかまれて、突き飛ばされた後、「とんだ、カチカチのクソの棒だ」とどやされます。
「無門関第21則」に「雲門屎橛(うんもんしけつ)」という公案があります。
ある僧が雲門(うんもん)和尚に「仏とはどんなものですか?」と問うたのです。
すると雲門和尚は「乾いた屎橛(しけつ・クソカキベラ)だ」と答えたという公案です。
雲門和尚は「仏とはクソカキベラだ」と言ったのです。
これは物質に執着している方には決して分からない公案であり、よく人間の本質と宇宙の仕組みを知っている公案と言えます。
「屎橛(しけつ)」というのは、牛馬のクソをかき取ったり、便所で使うヘラのことです。
人が触れることを最も嫌がる最低の道具のことを言います。
禅家は「自力門」であり、生命中心の「神の心」と「力」こそが、真の自分の力と言う意味でこれを「自力」と言っています。
禅で言う「自力」とは我力行ではないのです。
「本当の自分の力」と言う意味での「自力」なのです。
「仏とは何か」、あるいは「仏とはどんなものか」と問うている限り、その問うている僧自身は「仏」とは何かを知らない。
ではその僧の「心」の中に「神の心」が存在していないのかと言われればそうではない。
万人の「心」の中に「神の心」は在る。
禅僧は常に人間生命の本質を「神」そのものとして、生命の本質から人間と世界を見ておりますので、「無門関第21則」のような答えとなるのです。
雲門和尚は思うでしょう。
「この小僧は、他人である俺に仏とは何かを問うている。
自分の心の本質を、他人である俺に質問してやがる。
小僧め、トラのヒゲを引っ張る気か。
仏とは何かを俺に質問している限り、小僧自身の中に既にある仏を、この小僧は見ておらず、理解もしていない」
「仏とは何か」とは、少なくともこの問うている小僧自身にとっては「仏とはクソカキベラ」と同じだ。
「仏」が小僧の中にも存在してはいるが、その小僧の中で何の役にも立っていない。
少なくともお前にとって「仏」とは、俺に質問している限り「クソカキベラ」と同じだという公案です。
お前の中にある「神」は、お前の中で「クソカキベラ」と同じ役割でしかないという意味です。
生命を単刀直入にズバリと言います。
これは「臨済録・上堂の章」でも同じことが言われています。
「この肉体には無位の真人がいて、常にお前達の顔から出たり入ったりしている。
まだこれを見届けておらぬ者は、さぁ見よ ! 、さぁ見よ ! 」
すると一人の僧が進み出て「その無位の真人とは、一体何ものですか」と問うた。
臨済和尚はいきなりその僧の胸ぐらを掴んで、「さぁ言え、言え」と迫ります。
僧がもたついておろおろしておりますと、突き飛ばして「なんと見事なカチカチのクソの棒だ」と言います。
これも「無門関第21則」と同じ意味であって臨済和尚ならばいきなり胸ぐらを掴んで
「お前の本質を言え、言え」
と迫りますが、答えられなければ突き飛ばして、
「無位の真人とは、お前にとってはカチカチのクソの棒と同じだ」
と言います。
万人の中に「神の心」があるわけですが、それを悟らない。
その僧にとって「神」というのは何の役にも立っていない、「仏」も「無位の真人」もその者にとっては「クソカキベラ」と同じであり、意味はない。
単なる「クソ」と同じであるという公案です。
今の世界も同じであり、万人の心に「神の心」はあるわけですが、その「神の栄光」が人間の心を通してあらわれていないがゆえに悪化しているのです。
禅僧が言うように「神の心」が、人類の心の中で「クソカキベラ」になっているのです。
もし人類の心の中に在る「神の心」が「クソカキベラ」ではなく、「神の心」のままに用を足していたならば、ここまで世界や人類は悪化していないのです。
その最も大切な心を悟っていないのならば、「仏」も「無位の真人」も、確かにお前の中にはあるけれども、「クソカキベラ」と同じだという公案です。
いくら万人の心の中に「神の心」があったとしても、それをみずから悟らなければ、「神の心」とその栄光があらわれることはなく、その「神の心」とやらは、単なる「クソカキベラ」と同じなのです。
その禅僧の心の中で「クソカキベラ」になっている「仏の心」を臨済和尚は試しているのです。
わしの「喝」を形だけ真似ている限り、「主客の別」を見分けることはできぬ。
それはさながら西洋の民主主義を形だけ真似ても、その内容まで真似することはできませんので、歪な国になるのと同じです。
臨済和尚は、形だけを真似ている者は、内容まで悟っておらず、理解もしておりませんので、「主客の別」を見分けることができないことを知っていて、あえて「主客の別」を見分けよと言っているのです。
形だけを模倣していくことの危険性を述べているのです。
臨済和尚は、この「主客の別」を見分けることができなければ、「今後、わしの喝を真似てはならん」と言います。
その弟子の形だけを真似る「未熟」に対してお前はこうだと試した公案です。
臨済和尚の言う通り「主客」ははっきりしています。
現象ではなく、実相、物質ではなく生命から人間と世界を常に見ているのかどうかを問うているのです。
おろおろしておりますと臨済和尚から「この小便小僧が」と怒鳴られます。
しかして真理から見ますと「主」と「客」ははっきりしているのです。
臨済和尚は、物に執着している「未熟者」は、この「主客の別」を見分けることができないことを知っているのです。
知っていて、あえて弟子に問うているのです。
『無門関』第5則「香厳上樹」(きょうげんじょうじゅ)の公案にしろ、『無門関』第14則「南泉斬猫」(なんせんざんみょう)の公案にしろ、禅の公案には一定の共通した法則があり、「神の心」と「神の体」の関係を公案にしているのです。
大宇宙の構造と仕組みを単に知っているだけではなく、果たして本当に知っているのか、どうかを「公案」で試しているのです。
非常に実践的だと思う。
「神の心」に執すれば生き、「神の体」に執すれば死ぬことを、禅僧は良く知っています。
とても「1200年前の坊主」とは思えないわけですが、真理というのは時代を超えているのでしょう。
禅の公案は、1200年経った現代でも十分普遍妥当しています。
「神の心」を悟っている人間というのは、禅僧のように過去・現在・未来を超えるのです。
「神の心」を悟れば、みな「タイムリーパー」になると言うことです。
過去に生まれようが、現代に生まれようが、未来に生まれようが、同じことを言い、同じ信念を持ち、同じことをやるのです。
それはそもそも「神の心」というものが、過去・現在・未来を超えている「永遠の心」だからです。
だから「神の心」を悟れば、その人間もまた時間を超えるのです。
この『宗門統要集5』の「主客の別」をどう見分けるのかの「答え」は、忘れていなければ、ひと月後以降に記事にします。
東堂から一人の禅僧が出てきて、西堂からもう一人の禅僧が出てくる。
互いにあい対し、正面から同時に「一喝(いっかつ)」を交える。
果たしてどちらが「主」で、どちらが「客」なのか。
この「主客」をどう見分けるのか?
臨済和尚の言う通り、「主客」は、はっきりしているのです。
臨済和尚のお弟子さんのように、一つ考えてみて下さい。
この「主客の別」が見分けられなければ、「真理の使徒」としては、「初級クラスの悟り」もクリアしていないのです。
クリアできれば、「中級の下クラス」と言えます。
別にバカにしているわけではなく、もし見分けることができなければ、その「未熟」はその方にとって非常に危険だと言っているのです。
それは、おかしな教祖やおかしな救世主に簡単に騙される人なのです。
「求道心」のある人が「前提」ですが、「ひと月」ほどじっくりと考えてみて下さい。
自力で「考える」という作業なくして、人の「心」は進化していくことはできないのです。
当方が忘れていなければ、「ひと月後」にその「答え」を記事にします。

























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