宗教とは、「大宇宙の心」と「人間の心」を同じくし、「自然界の心」と「人間の心」を同じくし、「多次元世界」と「人間の心」を同じくするものです。
「神の心」と「人間の心」を同じくする思想や価値を真理と言います。
正法とは、神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけなのです。: モーゼ
「神の心」と言うのは、人間のまとめる書物や聖典に「言葉」で表現できるようなものではなく、大宇宙や自然界に直接書かれてあるのです。
過去において「神の思想」を悟られた方は、みなこの一点は悟られていました。
「神の心」と言うのは、ある教祖がその妄想と空想の中で、言葉をこねくり回し、その脳細胞で勝手に組み立てた思想のことを言うのではありません。
それは人間が勝手に創っている思想ですから「偶像」に過ぎません。
人間の創ったものを信ずることを「偶像崇拝」と言い、神の創ったものを信ずることを「神への信仰」と言います。
大宇宙や自然界は、人間の創ったものではなく、神の創ったものですので、「神の心」は、この神の創った大宇宙や自然界、並びに多次元世界に表現されています。
完全なる神の心と言うのは、大宇宙や自然界に直接書かれてあるのです。
ヘーゲルはこれを「理性的なものは、現実的であり、現実的なものは、理性的である」と言い、エマソンは「自然は完全である」と残しておられるのです。
自然を完全と見ていたと言うことは、「完全」とは「神の別名」ですので、エマソンは「自然の存在」が神である事実を悟っていたのです。
西田哲学では、大宇宙や自然界の「現実そのままが真理である」と説き、「絶対矛盾的自己同一」の悟りや「主客合一の世界」として大宇宙を読んでいました。
人間は「矛盾した思想」を「理性的な思想」とは言いません。
ヘーゲルの言う「理性的なもの」とは、矛盾のない存在であり、西田哲学で説かれる「宇宙の大統一者」のことです。
矛盾のない存在、すなわち「理性的な存在」が大宇宙を創造し、「大宇宙の存在」という「現実的なもの」になったと言うことです。
ヘーゲルは、ヘーゲルなりに「大宇宙の存在」を神として残しているのです。
「理性的なもの」とは、全ての矛盾を統一している「神の心」のことを言っているのであり、ヘーゲルはその「神の心」は、大宇宙や自然界に現実化している、実に現実的なものであると述べているのです。
宇宙は矛盾なき存在であり、全ての矛盾を統一している存在が創造したということです。
大宇宙や自然界という「現実的なもの」には、また「理性的なもの」、いわゆる「神の心」が表現されていると残しています。
過去、「神の思想」を悟られていた方々というのは、共通して大宇宙や自然界に表現されている「神の心」を読み取って真理を残しておられるのです。
従って真理とは、「宇宙の心」と「人間の心」を同じくする「宇宙即我」の道を説いたものです。
菩薩以下は、この「宇宙即我」の悟りを持っておりませんので、まだ「宇宙」と「自己」が分かれているのです。
「宇宙」と「自己」が分かれているということは、大宇宙に記載され、表現されている「神の心」を、まだ十分読み取ることができないのです。
だから「神の心」を説くことができず、弟子の生活になってしまうのです。
「神の心」は、如来の霊格を有している者から説くことができるようになりますが、それは「宇宙即我」の悟りを持っているからです。
「宇宙」と「自己」が同体の悟りを持っているがゆえに、大宇宙に書かれてある「神の心」を読み取ることができるのです。
だから「神の心」を説くことができるのです。
従ってその説く真理が、本当に「神の心」か、否かを判断したければ、それを真理であり、「神の心」であると説いている人間に、この「宇宙即我」の悟りを問えば分かるのです。
本物の「神の心」ならば、この「宇宙即我」の悟りを説けますが、偽物の「神の心」は、この「宇宙即我」の悟りを説けないのです。
本当の「神の心」と偽物の「神の心」を分ける悟りが、この「宇宙即我」の悟りです。
「宇宙即我」の悟りを説けなければ、それは「神の心」ではないということです。
如来界には「500名弱」の諸神霊がおられるようですが、「神の心」を説くことのできるこの「如来」と言われる存在は、共通してこの「宇宙即我」の悟りを持っているのです。
「宇宙即我」の悟りを持っていなければ、「神の心」は説けないということです。
大宇宙に表現されている「神の心」を読み取ることができないからです。
従ってそれが本当の「神の心」か、否かを知りたければ、その人間にこの「宇宙即我」の悟りを問えばいいのです。
「宇宙即我」の悟りを説けなければ、それは「神の心」ではないのです。
大宇宙や自然界の存在が神であるという不変の事実も知らないはずです。
「宇宙即我」の悟りを説き、「自然即我」の悟りを説き、「多次元世界即我」の悟りを説くことができれば、それは「神の心」と判断していいのであり、もし説けなければ、それは「真理」でもなければ、「神の心」でもないということです。
自然界は法のあらわれである。
人はこの法をもって思いと行いを正せよ : 高橋信次
このように「神の心」を悟られている方と言うのは、「自然界の心」と「人間の心」を同じくしようとするのです。
大抵、「人間の心」は醜いものですが、「自然界の心」は、常に美しく、調和に満ちており、「叡智と神秘」に溢れています。
この「神の心」と「人間の心」を同じくする思想を真理と言い、「神の心」と言うのです。
「神の心」は、大宇宙や自然界に表現されているからです。
人間の書く聖典に表現されているのではないのです。
過去・現在・未来の全人類に普遍妥当する永遠不変の「善悪の基準」とは、目の前の「大宇宙の存在」であり、「自然界の存在」であり、「多次元世界の存在」なのです。
「大宇宙の存在」や「多次元世界の存在」を「神」と言うからです。
すなわち宇宙即我が「善」であり、宇宙と我とが離れれば「悪」なのです。
自然即我が「善」であり、自然と我とが離れれば「悪」なのです。
多次元世界即我が「善」であり、多次元世界と我とが離れれば「悪」なのです。
従って文明論においても同じであり、宇宙即我の文明が「善の文明」であり、現代の文明のように、宇宙と我とが離れている文明ならば、それは「悪の文明」なのです。
「悪の文明」に世界や人類を良化する能力はないのです。
それは「悪の文明」ですから、悪化を続けていくだけです。
次世代の文明が、果たして「善の文明」になるのか、あるいは「悪の文明」になるのかは、ひとえに眼前の大宇宙の存在に依っているのです。
大宇宙や自然界と融合できれば「善の文明」になるのであり、融合できなければ「悪の文明」になるのです。
個人にしろ、人類全体にしろ、文明にしろ、それが「善の存在」になるのか、あるいは「悪の存在」になるのかは、ひとえに目の前の大宇宙や自然界の存在に依存しているのです。
「大宇宙の存在」を「神」と言いますので、人類は誰であろうが、自己が「善の存在」になるのか、あるいは「悪の存在」になるのかは、永遠に「神の存在」に依存しています。
神が存在しなければ、誰も「善の存在」にはなれないのです。
その相対的な自我の「矛盾」によって「悪の存在」になるだけです。
宇宙即我が「善」であり、宇宙と我とが離れれば「悪」になるからです。
神人合一が「善」であり、神人分離が「悪」です。
「神の心」と合一して地獄に堕ちる人はおりませんので、「神の心」には「不幸」が「ひとかけら」もないのです。
今後の人類が、将来的に「地獄界の消滅」に向かうのならば、神への信仰は必須です。
人類の中で地獄界を消滅できるような存在は、今後もいないからです。
人格神の中にも存在しないのは、今の地球系霊団が証明しています。
すなわち人類と歴史から「不幸」を消滅していくには、神への信仰が必須なのです。
神の存在なくして、人類は救済もされなければ、幸福にもなれないからです。
地獄に堕ちれば「不幸」です。
「神の心」と合一して地獄に堕ちる人がいなくなるとは、全ての人間が天国へと帰天していくということであり、「不幸」が消滅していくということです。
地獄に堕ちる人がいなくなるわけですから、「不幸」は消滅し、人類の幸福が実現していくのです。
「神の心」と「自己の心」が離れている人間が、地獄に堕ちているのです
神人合一が「善」であり、神人分離が「悪」だからです。
釈尊の説かれた「全人類幸福化運動」の要諦とは、神への信仰を通した「神の心」と「人間の心」との合一なのです。
「善なる心」が「天国」を創り、「悪なる心」が「地獄」を創ります。
生きながら善霊と同通すれば、そこが天国となり、生きながら悪霊と同通すれば、そこが地獄になるのです。
この世に地上天国を創りたければ、一人一人の「心」が善霊と同通すればいいのであり、この世に地獄を創りたければ、一人一人の「心」が悪霊と同通すればいいのです。
宗教ビジネスと称し、「神の心」をお金儲けの道具に堕とし、「地」に置いたため、諸神霊や善霊と交流できなくなり、二度と高級霊の霊言を出せなくなった大救世主を見れば明らかですが、諸神霊や善霊と自己の「心」が同通し、交流していくには、大宇宙や自然界と同様、「神の心」を「天」に置くしかないのです。
口先の善では不可能であり、「神の心」を「永遠の本音」にしている善霊と交流していくには、地上人間もまた「神の心」を本音にするしかないのです。
波長同通の法則が、あの世とこの世を永遠に支配しているからです。
人間は自己の創った「心の波長」の通りの存在を呼び込むのです。
「善の波長」を創れば、善霊を呼び込み、「悪の波長」を創れば、悪霊を呼び込むのです。
人が「善の波長」を創るのか、あるいは「悪の波長」を創るのかは「自力」です。
「自力」ですが、自己の創った「心の波長」の通りの存在を、否応なく呼び込むのです。
波長同通の法則が、永遠に作用しているからです。
自己の本音を「利益」に置きながら、善霊と同通し、交流することはできません。
自己の本音を「善」に置かなければ、波長同通の法則上、善霊と同通し、交流していくことはできないのです。
あの大救世主ですら、自己の本音を「正しき心」に置くことができなくなったがゆえに、高級諸神霊からソッポを向かれたのです。
例外はないということです。
「利益と快楽」を本音にすれば、善を本音にしている存在がどんどん離れていくのです。
当たり前の話ですが、天上界の霊である限り、その「心の本音」は、常に「正しき心」であり、「善」なのです。
その善霊と同通し、交流できなくなれば、地獄に堕ちてしまうのは、その本人なのです。
自己が天国へと帰天していくには、生きながら善霊と同通し、交流していくしかなく、善霊と同通し、交流していくには、自己の本音を善霊と同様、「正しき心」に置き、その心の物差しを「善」に置くしかないのです。
信仰の前に選択の余地はありません。
善を本音に置かなければ、善霊と交流していくことはできず、善霊との交流を失えば、地獄に堕ちてしまうのは、その本人のほうなのです。
大宇宙や自然界と同様、神の正しさを「天」に置かなければ、人間は諸神霊や善霊と同通し、交流していくことはできないのです。
生きながら善霊と同通することができれば、そこが地上天国になるのです。
この世から「不幸」が消滅していくのです。
「善なる心」が天国を創るからです。
「悪なる心」が天国を創ることはないのです。
善は善であり、悪は悪なのであり、因果の理法をくらませることはできません。
不昧因果です。
大宇宙や自然界、あるいは多次元世界は、神の創られた世界であり、神の創った世界は全て「天国」なのです。
「悪なる心」が「天国」を創ることはありませんので、神の創られた世界が全て「天国」ならば、神の心とは「善なる心」であるということです。
神の創られた「天国」を「地獄」に変えたのは、未熟な人類のほうなのです。
神の創られた世界は、神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体の「天国」です。
多次元世界も神の心が、永遠に「天」に置かれています。
未熟な人間が創った世界は、神の天地創造と逆の世界であり、神の体(利益と快楽)を「天」に置き、神の心を「地」に置くことによって、神の創られた「天国」を「地獄」へと変えたのです。
この「地獄」を元の「天国」に戻すには、大宇宙と同様、神の心を「天」に置くしかありません。
神の心を「天」に置くとは、神への信仰に覚醒するということです。
これが神への信仰が、人類と世界を救うという意味です。


























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