これは偶然見つけた動画ですが、幸福の科学を知っている者からすれば、半ば伝説と化していたテープであり、1988年11月から12月にかけて行われた『霊道現象とは何か』の中に収録されている「高橋信次 救世の大復活」です。
ちなみに私はGLAにも幸福の科学にも属したことはありません。
支部にも講演会にも1度も行ったことはなく、ただ書物とテープ、あるいはDVDで勉強させて頂いただけです。
ただ幸福の科学という教団名ができる前からこのまん丸い顔をした人から「とにかく幸福の科学に行け、行けば分かる。
行かなかったらぶっ殺すぞ」とストーカー的に何年にも渡って脅されておりましたので読んでいただけです。
こんな人のいい人を散々脅しやがって、あのハゲ。
行っとったら金ぴか像を売らされとったわ。
如来の慈悲、広げとったわ。
頬ずりしたくなるようなこの金ぴか像、ポンポンポン、と。
こいつは黙っていても金を運んでくれるんだ。
まさに「存在の愛」だ、と
この金ぴか像が何かを喋るから尊いのではない。
この金ぴか像が何かを行うから尊いのでもない。
この金ぴか像は、ただそこに存在するだけで尊いのだ。
そして信者のかわいい尻、ポーンと叩いて、この金ぴか像を売ってこんかい。
如来の慈悲、広げてこんかい。
「存在の愛」を広げてこんかい。
そうすりゃ金は入るわ、尊敬されるわで一石二鳥。
こんなことをやらされとったわけで、結局、行かなくて正解だったのではないか。
正確には生き神信仰を始めてしまったために行こうにも行けなくなったというのが実際のところです。
生き神信仰をする如来は一人も存在しないという事実を知らなければならない。
今後の人類は最高霊域におられる全ての如来と言われる神霊が拝んでいる神を一緒になって拝んでいく未来になるのです。
如来は一人一人が直接神の心をキャッチしておりますので、人間生命の本質への信仰、いわゆる神への信仰は説きますが、人が人を拝む生き神信仰をする如来はおりませんし、人間を拝ませようとする如来も存在しません。
生き神信仰は、神が永遠に「地」と定めている自我を「天」に置き、人間に教祖の相対的な自我と矛盾を拝ませる信仰ですから、明白に誤りと言えます。
生き神信仰をされている教祖さま達は、早急に修正しませんと死んでから修正することはできなくなります。
教祖が宇宙の創造主を名乗りながら、それを注意も指導も警告もしない支援霊とは、一体どういった支援霊なのか。
何故、ほめちぎるのか?
何故、注意しないのか?
少なくとも諸如来諸菩薩ではあり得ない。
真っ当な霊ではないということだ。
確かに高橋信次氏の生前の著作は全て読みましたし、大川さんの著作も1991年の『永遠の仏陀』までは一冊残らず読んでいました。
フライデー事件以後は変なことをするようになりましたので読まなくなりました。
だからこの高橋信次追放事件も21世紀に入ってから知ったために大変驚きました。
1994年には既に追放されていたのですね。
この高橋信次氏が大川さんに入って語っているテープです。
もうね、次から次へと引き上げていくからね。
順番に引っ張り上げていくから。
ひょひょいのひょいってみんな引き上げて、引っ張り上げていくからね。
もう遠慮しないで順番に引っ張り上げていくよ。
つまんで、ひょひょいってね。
みんな言うこと聞かんからつまみ上げていくからね。
・・・要は殺すってこと。
えーと、信次君はいつからそんな怖い子になったのかな?
あんなに優しくて、いい子だったのに、人さま捕まえて、やれ、引き上げるだの、引っ張り上げるだの、順番に次から次へとひょひょいのひょいって引っ張り上げるだの、つまみ上げるだの、信次君は、いつからそんな怖い子になったのかな?
頼んだよ、頼んだよ、甲斐さん、頼んだよ。
やたら人間に頼る天の父。
頼んだよ、頼んだよ、甲斐さん、頼んだよ、・・根こそぎだよ。
家・土地・財産、全部だよ。
年金も保険も退職金も全部だよ。
別荘から自宅まで全部売らせるんだよ。
頼んだよ、頼んだよ、甲斐さん、頼んだよ。
タンス預金もだよ、分かってるね、甲斐さん。
頼んだよ、頼んだよ、甲斐さん、頼んだよ、根こそぎだよ、布施させるんだよ。
分かりました、この者達を動員致します。
って、どんな悪魔達だよ。
「小学生からの布施の仕方」
って、小学生からも取るんかい。
大の大人が小学生の半ズボンのポケットに手を突っ込んで500円玉取るんかい。
おこづかいまで取るんかい。
「・・それでも大人か!、それでも大人か!」
ちなみに甲斐さんの名誉のために述べておきますが、甲斐さんは元GLA会員の方であり、この方は2014年か何年かに既に死亡されています。
死ぬ最後まで地球ユートピアへの情熱を失わなかった立派な方です。
甲斐さんは霊道を開いており、人の心を読む他心通と霊視能力をもっていた方であり、高橋信次氏死後においても反省行を怠らなかった人です。
GLAの霊道者は、高橋信次氏死後はほとんど魔軍に殲滅されてしまったわけですが、それでも生き残った生き残りであり、精鋭です。
もし霊道を開いている甲斐さんが反省行を怠っていたら、他の霊道者と同じ運命を歩んでいたでしょう。
反省行が甲斐さんを守ったわけです。
この甲斐さんも幸福の科学にはいられず、退会しています。
善人はいられなくなるか、死ぬんですね、何だかね。
これが幻のテープであり、かなり前に既に絶版になっておりますので購入することはできません。
本題に戻りますが、宗教とは宇宙を示す教えであり、宇宙と自然界に表現されている神の思想を読み取った教義を通して神の心とおのれの心を同じくするものです。
宇宙は神の心の表現体ですから、神の心とはこの世では宇宙と自然界に表現されており、あの世では多次元世界に表現されています。
如来界の共通の悟りは「宇宙即我」であり、宇宙と自己が一体となっている悟りです。
宇宙と一体であるがゆえに宇宙に表現されている神の心を読み取ることができるのです。
だから神の心を説ける者とは、この如来界以上の神霊です。
菩薩以下は、まだ宇宙と自己が離れているために十分宇宙や自然界に表現されている神の心を読み取ることができないのです。
だからどうしても弟子の生活となり、その説く教義も方便の教えになります。
間違った宗教の類型の一つは手かざし系の宗教であり、手をかざして光で悪霊の除霊をしようとするわけですが、除霊とは一つの結果であり、現象利益です。
宗教とは神の心とおのれの心を同じくするものであり、神の心とおのれの心が同じくなりましたら、これを原因として結果、その光っている「心」に悪霊は憑いていられなくなりますから除霊という現象利益があらわれます。
手かざし系の宗教は、神の心と自己の心を同じくしないで除霊という現象利益だけを目的にしているために間違っているのです。
悟りと反省が「天」であり、除霊が「地」で、永遠に天地一体です。
真理が「天」であり、現象利益が「地」で、永遠に天地一体です。
真理と現象利益は、精神即物質で一つであり、双方切ることはできず、一実在の両方面です。
第二の類型は、超能力、あるいは霊能力を「天」に置いて目的にしているような宗教です。
悟りが「天」であり、神の心を悟れば、必要な場合には霊能力が発現することもあります。
悟りが「天」であり、霊能力が「地」で、永遠に天地一体です。
超能力宗教、あるいは霊能力信仰が間違っているのは、この神が永遠に「地」と定めている霊能力を「天」に置いているがゆえに大宇宙、すなわち神ご自身の目から見て間違っていると断定していい。
人生の目的は、霊能力を得ることではなく、神の真善美を悟り、わが心の正体を知ることです。
悟りとは真正の自己を知る、これに始まってこれに尽きる : 西田幾多郎
たとえ霊能力を目的とし、事実霊能力をもったとしても、それで神の心と自己の心が同じくなるわけではありません。
むしろその霊能力をもってしまったがゆえにその霊能力に驕り、霊能力を心の物差しとし、非霊能者を下に見たり、優劣の相対観に捉われたり、自己を特別な人間のように錯覚したり、悪しき選民主義に陥るならば、神の心と自己の心は離れてしまいます。
あの世の霊人は全て霊能力をもっておりますが、その霊能力で驕ったり、見下したり、心の物差しにしている霊人は一人もいません。
天狗や仙人界もありますが、真っ当な天国ではありません。
霊能力は人生の意義にも目的にもならないものです。
霊能力で神の心と自己の心を同じくすることはできません。
真善美や正義、愛や叡智でなければ、神の心と自己の心を同じくすることはできないのです。
霊能力とは方便であり、それは目的にもならず、否定もできないものです。
霊能力は悟りに比例しており、悟りが上がれば、上がるほどその発現する霊能力も巨大なものになります。
だから霊格の高い者、すなわち悟りの高い者ほど巨大な霊能力をもっています。
霊能力を維持するのは、霊能力ではなく、悟りです。
GLA系統の霊道者が、ほぼ全滅したのは、悟りと反省による神の心と自己の心との合一的方面を失ったからです。
悟りもなく、反省もなく、ただ霊能力だけを持ってしまったためにあらわれた悲劇です。
霊能力を維持するのは霊能力ではなく、悟りと反省なのです。
従って悟りを失い、反省も失いますとその霊能者は必ず魔に魅入られます。
悟りと反省による神の心とおのれの心の合一を失ったからです。
霊能力を維持するのは、神の心だけであるということです。
悟りと反省が「天」であり、霊能力は「地」で、天地一体ですから、この「地」である霊能力を「天」に置いているために大宇宙、すなわち神ご自身の目から見て霊能力信仰は間違っていると断定していい。
事実、GLAでは霊能力を心の物差しとしてしまったために、これは神の体を心の物差しとしているのと同じですから、その偶像崇拝によって魔に殲滅されてしまったのです。
これは富の多寡や地位名誉を振りかざしている者達と変わりません。
同じなのです。
霊道を開いていながら、そのような不用意なことをしていれば、時間の問題ですが、いずれ魔にやられることになります。
魔は物質に関しては百戦錬磨だからです。
高橋信次氏も生前言っていたはずですが、「心に正しいという基準を失った時、人は狂っていくのです」、と。
心の物差しを失った時、すなわち心に神の心を失った時、人は狂っていくのです。
間違った宗教の類型の3番目は先祖供養系の宗教です。
先祖に感謝して生きていくのは良いことですが、えてしてそれは他力信仰になっていくのです。
自己が不幸にならず、何等かの利益が欲しいために先祖に頼り、先祖供養をするならば、明らかに間違いと言えます。
先祖に頼る他力信仰です。
悪霊や悪魔ほどよく先祖を供養せよと言います。
これは高橋信次氏時代の霊道現象でもあったと思う。
不幸に見舞われた家族がおりますと、そこに先祖が出てくるわけです。
「わしは7代前の先祖じゃ、と。
ところが現代では7代前の先祖なんて言われても分からないのです。
今、お前達が不幸なのは先祖を供養せんからじゃ。
わしを供養せよ。」なんて言うわけですが、その先祖供養にはお墓や仏壇、祭壇や色々なもので100万、200万かかるかねと言って高額な金額を要求します。
まず天国に帰天している先祖ならば、子孫を不幸にすることはない。
それでも子孫を不幸にする先祖がいるならば、それは地獄に堕ちた先祖です。
地獄霊は自分達が救われたいために、今地獄で自分が不幸なのは子孫がわしを供養せんからじゃと地獄に堕ちた責任を自分の心のせいにしないで子孫のせいにしているため、自分を供養せよと要求します。
地獄霊も救われたいわけですが、どうすれば救われるのかが分からないために子孫に先祖供養を頼むのです。
生きている方もそう言われれば、救われたいために先祖に言われたように供養しようとしますが、先祖をいくら供養しても、それでその供養している者の心と神の心が同じくなるわけではない。
先祖供養によって神の心とおのれの心が同じくなることはないのです。
ただ不幸から逃れたいために、その7代前の先祖に頼っているだけであり、それは他力信仰でもあり、御利益信仰でもあります。
他力信仰や御利益信仰で人の心が救われることはないのです。
そのような先祖供養は、生きている方も他力信仰と御利益信仰を身につけ、死んでいる先祖の方もその子孫の先祖供養で救われるわけでもない。
地獄に堕ちた先祖は、生前の自己の罪を自分自身で反省しなければ地獄界から出ることはできない。
子孫にいくら供養してもらっても、それでその先祖の生前の罪が許されるわけでも、救われるわけでもありません。
その7代前の先祖自身が神の心とおのれの心を同じくするまで救われることはなく、他者である子孫がいくら先祖供養をしたところでその先祖の心と神の心が同じくなるわけではない。
生前の高橋信次氏は、真の先祖供養とは、その子孫が神の心を心の物差しとして思うことと行うことを正して生活をすることが最大の先祖供養であると言っていたはずです。
地獄に堕ちた先祖は、その正しい生活をしている子孫を見て、「こうすればいいのか」と救われるきっかけを掴み、地獄界からどうすれば出られるのかを悟っていくことができる。
悟りか反省によって自己の心と神の心を同じくできたならば、その時初めて自分は地獄界から抜け出て救われていくのだと悟ることができる。
これが地獄に堕ちた先祖への最大の先祖供養であると言っていたと思う。
宗教において先祖供養を強調する宗教は、大抵が他力信仰であり、御利益信仰です。
生きている方も死んでいる先祖も共に他人に頼る他力信仰になっています。
子孫の方も先祖に頼り、先祖の方も子孫に頼る他力信仰です。
そしてそれは子孫の方は、今の不幸から逃れたい、御利益が得たい御利益信仰であり、先祖は先祖で地獄界から救われたい、この苦しい世界から何とか抜け出したいという御利益信仰です。
他力信仰や御利益信仰で、その子孫であろうが、地獄に堕ちた先祖であろうが、救われることはないのです。
子孫であろうが、地獄に堕ちた先祖であろうが、反省を通して神の心とおのれの心を同じくするまで救われることはないのです。
宗教的真理とは、神の心と自己の心を同じくするという、ただこれだけです。
他力信仰や御利益信仰に陥っている先祖供養が間違った宗教の類型の3番目です。
良いお年を。
この記事へのコメントはありません。