今回の「救世の法」と他の世界中に存在する既存宗教とを画然と分ける法とは3つあります。
第一の法が「悟りの段階論」であり、第二の法が「輪廻転生の法則」であり、第三の法が「多次元世界」です。
この3つの法は、他の宗教家では絶対に説けない法であり、神の心を悟っている者にしか説くことはできません。
逆から言えば、この3つの法を説けない宗教家は神の御名を騙って詐欺罪を犯しているわけです。
そう断定していいのです。
もっと言えば本当の真理と偽物の真理を分ける法の一つと言ってもいいでしょう。
真理とは神の心です。
本当の神の心を悟っている者は、この3つの法を説くことができますが、神の心を悟っていない者はこの3つの法を説くことができないのです。
試しにどの教祖でもいいですけれども、この3つの法について質問をしてご覧なさい。
どの教祖も誰一人答えることはできませんから。
この3つの法を説くことのできない教祖とその教団からは離れておくことです。
神の御名を騙って詐欺の片棒を担ぐことになるからです。
みな神の心を宿した神の子であり、万人は「心の王国」を神から与えられているわけですから言い訳は聞かないのです。
幸福の科学では救世の三部作において最初期に説かれました。
『太陽の法』、『黄金の法』、『永遠の法』の三部作です。
これは少なくとも初版本は、ほぼ100%釈尊の入神状態で書かれた書籍です。
従ってあれは地上の人間が書ける書物ではないのです。
それを幸福の科学では、既に初期の初版本は絶版にし、何度かおかしな書き換えを行い、特にGLA関係者については偽りを記載してしまい、法に毒を入れてしまいましたけれども、最初期の初版本に戻すべきです。
何故、釈尊が救世の3部作を書かせたのか?
何故、「救世の法」における基本3部作になっているのか?
これは救世の母体と他の全ての宗教家とを画然と分ける法だからです。
だから『太陽の法』で愛の発展段階説を説き、「悟りの段階論」を説いたのです。
次に『黄金の法』で洋の東西における偉人や天才達の過去世を明らかにし、「輪廻転生の法則」を説いたのです。
そして最後に『永遠の法』においてあの世、いわゆる「多次元世界の存在」を説きました。
「悟りの段階論」、「輪廻転生の法則」、そして「多次元世界の存在」、これが『太陽の法』、『黄金の法』、『永遠の法』の三部作になった理由です。
この3つの法は既存の宗教と救世の法とを画然と分ける法であり、今後の人類の未来を造る柱の法なのです。
だからこの3つの法を説けない宗教は、救世の団体とは言えないのです。
1980年代、イエス・キリストが幸福の科学に再臨した時、同じことを言っていた事実に気づいた人がどれだけいるでしょうか。
イエスは大川さんのところに降臨した時、既存のキリスト教の教義について修正したい点を6点述べていました。
第一点目は「輪廻転生の法則」を説かなかった点であり、第二点目は「天国と地獄の明確な理解と描写の不足」を上げ、第三点目は「悟りの方法論の欠如」を述べていました。
第四点目は既存のキリスト教の教義には「神の本義の説明不足」があり、第五点目はキリスト教と他の宗教との関係の説明不足を上げ、最後の6点目に真理の体系の完成と弟子の教育には、ある程度の時間が必要であった、この6点を上げていました。
このキリストの再臨の最初期の時点で幸福の科学の「救世の3部作」は既に説かれていたのです。
第一の「輪廻転生の法則の説明不足」は、『黄金の法』で説かれ、第二点目の「天国と地獄の構造論的な説明不足」とは、要はキリスト教ではあの世、いわゆる多次元世界が明確に説かれておらず、クリスチャンは死後の世界をよく知らないのです。
死後の世界とは、どういった世界であり、一体どういった構造と仕組みになっているのか。
キリスト教もそうですが、他の宗教でも説かれていないわけです。
イエスが言っていたこの二点目の天国と地獄の構造論的な説明を『永遠の法』で説いたのです。
そしてイエスが上げていた三点目の「悟りの方法論の欠如」に関しては、『太陽の法』で愛の発展段階説として説きました。
この『太陽の法』、『黄金の法』、『永遠の法』で説かれた「悟りの段階論」、「輪廻転生の法則」、そして「多次元世界の存在」とは、イエスと釈尊の共通の見解と見ていいでしょう。
これが今後の新しき文明の柱となる3つの法なのです。
だからこの3つの法を説けない宗教は、救世の母体でも何でもないのです。
大川さんは自動書記で書かされていたようですから、分かっていないような点が見受けられましたが、あの世の釈尊とイエスは明確に分かって説かせていました。
この3つの法が説けない教祖は、新しき文明における未来を創造できない教祖ですから、真理とは言えません。
この3つの法が新しく創造される文明の柱となるのです。
「悟りの段階論」、「輪廻転生の法則」、そして「多次元世界」です。
この3つの法の完成が「救世の法」の完成であり、当サイトで言えば「人生の意義」の完成です。
人生の意義とは、神の心を知ることと言うのは容易いが、この3つの法を説けなければ人間の存在意義と大宇宙の存在意義を合理的に説明することができず、説くこともできないのです。
人間の存在意義と大宇宙の存在意義とは、人類の存在意義と神の存在意義のことであり、この「人生の意義」、存在意義が説明できなくなるのです。
この3つの法を説いて初めて人類と宇宙の存在意義が矛盾なく説明できるようになります。
逆から言えばこの3つの法が説けない者の真理は、人間と宇宙の存在意義を合理的に説明できないということです。
何のために人間は生きているのか。
何故、人間は存在しているのか。
何故、大宇宙は存在しているのか。
これらの問いに神の心から説くことができないということです。
特に悟りの段階論については、当サイトでは「自を生かし、他を生かし、全てを生かせ」で真理の発展段階説として説いておりますけれども、これは基本的に幸福の科学の愛の発展段階説と同じです。
幸福の科学の方がオリジナルであり、いくら霊聴で受けたとは言え、当サイトの方は霊聴で受ける前に『太陽の法』を読んでおりましたから、この霊聴の意味は直ぐに愛の発展段階説と同じだと気付きました。
ただあえて相違を上げれば、当サイトの方は幸福の科学で言う「愛する愛」の段階がなく、いきなり「自を生かす」、7次元神界の悟りから入っています。
「自を生かす」段階の悟りは、多次元世界で言えば7次元神界の悟りであり、「他を生かす」段階の悟りは8次元菩薩界の悟りです。
「全てを生かす」段階とは、9次元如来界の悟りです。
「愛する愛」の段階の悟りとは、あの世で言えば5次元幽界上段階と6次元霊界の悟りであり、真心と正直さ、そして優しさの大切さを悟っている段階の霊域です。
従って真心と優しさを人生の5割以上実践できれば、この次元の霊域の天国に帰天し、永遠の幸福を享受します。
ここの霊域の霊人は、「あなたは他人から真心と優しさをもって接せられればうれしいですか、あるいはうれしくないですか」と問えば「うれしいです」と答えます。
「それではあなたがうれしいのですから、あなた自身が他人に真心と優しさをもって接すれば、他人もうれしく感ずると思いますか、どうですか」と問えば、「私もうれしいですから、他人もうれしく感ずると思います」と答えます。
だから正直さと真心、そして優しさをもって生きようとする。
その大切さを悟っているのです。
これが「愛する愛」の段階の悟りです。
ところが例えばここにコレラに罹患した患者がいるとします。
助けたいと思うのは山々でしょうが、果たして真心と優しさだけでそのコレラの患者を救えるでしょうか。
真心と優しさだけでは救えないのです。
確かに真心と優しさをもって生きれば、天国に帰天できますけれども、その真心と優しさだけではコレラの患者は救えないのです。
コレラで死亡する人は、脱水症状で死ぬわけですから、水分を十分補給しながら、コレラ菌が体外に排出されるまで根気強く水分を与えていく。
この知識のない人は、いくら真心と優しさをもっていても救えないのです。
知は力なりと言いますが、専門的な知識がなければコレラの患者は、その真心と優しさだけでは救えないのです。
だから5次元幽界上段階、6次元霊界の上に各分野で専門知識を極めた人達が住む7次元神界の世界があるのです。
この7次元神界では、芸術家や経営者、学者や文学者、医者や科学者等、各専門においてその分野の知識を極め、大衆を指導できる段階の悟りを有した霊人が住んでいます。
まだ功利性と有用性に支配されている段階の悟りです。
この上に8次元菩薩界がありますが、この菩薩の悟りの段階に至って、始めて神の心を心とすることができるようになります。
7次元神界では、まだ自我とその努力に捉われた悟りであり、確かに個人で見れば優秀なのでしょうが、未だ功利性と有用性から抜けることができず、従って人類救済の境地にはないと言えます。
菩薩の悟りに至って、始めてその自我の相対性の中に人類の救いはなく、自我のままに生きれば、その自我と物質の相対性から対立と矛盾が際限もなくあらわれ、決して神が良しとする人類救済や人類の幸福は実現できない事実を自己の固有の人生を通して、はっきりと悟ります。
神の心を心としなければ、決して人類の救済や幸福はない事実を悟っておりますから、この8次元菩薩界の段階から真の意味において神の心を自己の心の物差しとし、自己自身が神の心を生きんとすることができます。
自我はどの人間であれ、その知識・思考・概念・認識・情操、全て相対的なものであり、時間と共に好き嫌いもコロコロと変化していくものです。
そのような自我の中に人類の救いはなく、幸福もない点を十分悟っているのが菩薩です。
人類の救いと幸福は、神の心にしかない事実を悟っているということです。
だから菩薩は自我ではなく、神の心を心とせんとする。
ただ菩薩は神の心の重要性は十分悟っておりますが、その神の心との一体感が不十分なのです。
だから8次元菩薩界の上に9次元如来界がある。
この9次元如来界に到って初めて神の心そのものを説くことが許されています。
ここの神霊は、神との一体感が十分であり、神だか自分だか分離できなくなっている霊域です。
神との一体感が十分であるがゆえに神の心と十分通じている。
だからこの9次元如来界の神霊は、みな宇宙の経綸と奥義を授けられており、神の心を直接キャッチし、地上界で神の心を説くことができる。
ここまではGLAから幸福の科学の流れの中で学ばれた方もいると思う。
ただ当サイトから見て欠落していると思われるのは、多次元世界における霊格の捉え方です。
今回はそういったものがあるということを告げ知らせなければならないあの世の事情もあるようですが、霊格は「地」であって「天」ではないのです。
悟りが「天」であり、悟れば、これを原因として結果、霊格が上がります。
悟りが「天」であり、霊格は「地」で、永遠に天地一体です。
この「地」である霊格を「天」に置いて大威張りすれば、それが神への傲慢となり、「地」を「天」に置く偶像崇拝となる。
神が「地」と定めているものは何であれ、目的にして「天」に置いてもならず、否定をしてもならない。
「地」と定められているものは、この目的と否定の両極端の中道に入るのが神の道です。
目的に偏っても、否定に偏っても中道を外れます。
多くは多次元世界における霊格を誤解しており、例えば専門知識を極めている7次元神界の悟りには、6次元霊界の悟り、5次元幽界上段階の悟りも含まれているのです。
8次元菩薩界の悟りも、その下の次元の悟りである7次元神界の悟りも6次元霊界の悟りも5次元幽界上段階の悟りも全て含まれています。
この点を誤解している人が多いのです。
7次元神界の悟りをもっていると言いながら、6次元霊界や5次元幽界の人達がもっている真心と優しさを失っているならば、それは神界の悟りではないのです。
その高度な専門知識をもって人を見下し、霊界や幽界の霊人がもっている優しさや思いやりを失っているならば、それは如何に高度な知識をもっていたとしても、それは7次元神界の悟りではないのです。
7次元神界と言い、8次元菩薩界と言い、それは下の次元の悟りを全て含んでいるのです。
俺は菩薩だ、お前は神界だ、だから俺の方が偉いのだなんてふんぞり返っているような人は、こんなの何も分かっていない人です。
10次元宇宙界の神霊ならば、ゼウス神も「我は全次元存在なり」と述べておられましたが、それは10次元以下の次元の悟りを全て含んでいるということなのです。
5次元幽界上段階の悟りを含み、6次元霊界の悟りを含み、7次元神界の悟りを含み、8次元菩薩界の悟りを含み、9次元如来界の悟りを含み、10次元宇宙界の悟りを含み、この6つの次元の悟りを1として統一し、一即多、多即一の悟りから全ての次元の悟りを含んでいる状態で、それを永遠に実践しているのが10次元宇宙界の神霊達です。
自己を8次元の菩薩だと言いながら、5次元幽界上段階や6次元霊界の方々が普通にもっている真心と優しさをもっておらず、失っているならば、それは菩薩の悟りでも何でもないのです。
菩薩ならば、7次元神界の悟りを含み、6次元霊界の悟りを含み、5次元幽界上段階の悟りを全て含んでいるのです。
その多次元の悟りを同時に実践できなければ、それは7次元神界の悟りでも8次元菩薩界の悟りでもありません。
GLAから幸福の科学の流れの中でこういった点が十分理解されていないように思う。
それは神の造られた多次元世界を誤解させているのと同じであり、だから多次元世界を霊的なカースト制度のように捉える者も出てくる。
多次元世界とはそういった世界ではないということです。
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