2000年世界を支配してきたのは、方便の平等です。
物質に比喩した平等とは、良く言えば方便の平等であり、悪く言えば偽物の平等です。
方便の真理とは、それは「目的」にもならないけれども、「否定」もできない「目的」と「否定」の矛盾を含んだ平等です。
確かに真の平等は説かれてはいないけれども、しかして方便の平等であっても説かれないよりかは「まし」であり、事実として人類は神の下において永遠に平等なわけです。
ただ方便の平等ですのでその善の有効範囲は、物質の属性の通り「有限」です。
限られた地域の、限られた人間相手に、限られた範囲で説く分には、この方便の平等も善と言っていいのです。
「有限」の範囲を逸脱さえしなければ善です。
真の平等を今まで悟っていた者がおらず、説かれておりませんので仕方ありません。
その意味で「否定」はできません。
実相の領域でも、方便の領域でも「平等」は「否定」できないのです。
ただ悪が無限に現象化してきますので方便の平等は「目的」にもできないのです。
現代の世界はこれを「目的」にしているのです。
「目的」と「否定」の両極端のうちこの「目的」の方面に偏ってきたわけです。
この偏りは自我の作用です。
悟り不足であり、未熟を示すものと言ってもいい。
無限の真理はこの「目的」と「否定」の両極端の矛盾を統一している地点に存在しています。
左右の両極端を捨てて中道に入れ : 高橋信次
「目的」と「否定」の左右の両極端のうち「目的」の左に偏っているのです。
偏りは何であれ、自我の作用を示しており、悟り不足と未熟があらわれているものです。
自我の偏りとは、それだけ神の心とズレているということです。
この物質に比喩した方便の平等は、法の下における平等でも出ておりますし、死の下における平等や機会の下における平等にもあらわれておりますが、これは良く言えば方便の平等であり、悪く言えば偽物の平等です。
それは80億人の人間に対して決して平等ではないはずです。
厳密に言ってみな自他に差異があるため決して平等とは言えません。
この方便の平等は一人一票の選挙権にもあらわれており、菩薩も一票、神界も一票、霊界も一票、地獄に堕ちる人も一票、何をどう努力しても一票で変わらずです。
天国に帰天しようが、地獄に堕ちようが、努力しようが、すまいが、向上していようが、転落していようが、一人一票なのです。
これは人間を肉体という物質観で見ている物質に比喩した平等です。
心を見ていないのです。
心を見れば、そこには必ず差異があるのです。
思想や哲学の世界でもプラグマティズムや道具主義のような低い価値の思想もあれば、エマソンの思想のように高い価値の思想もあるのです。
イギリス経験論のような価値の低い哲学もあれば、ドイツ観念論や西田哲学のようにイギリス経験論やプラグマティズムとは比較にもならないほどの高い価値をもった哲学もあります。
実際、価値の高低があるわけです。
価値の高低がある限り、心の質の高低もあるのです。
これが多次元世界としてあらわれているのです。
ところがこれも全て一票です。
プラグマティズムも一票、道具主義も一票、ドイツ観念論も一票、エマソンも一票、イギリス経験論も一票です。
何故十把一からげに同じ評価をするのか?
何故、神がしておられるような公平な評価ができないのか?
少なくとも多次元世界では、如来も一票、菩薩も一票、神界も一票、霊界も一票、幽界も一票、地獄霊も一票、悪魔も一票という不公平な評価はされていないのです。
みな努力と悟りに比例した世界に住んでいます。
10の努力をした者は10の世界へ、50の努力をした者は50の世界へ、100の努力をした者は100の世界へ、公平に評価されているのです。
10の努力しかしていない者を50の世界に帰天させたり、50の努力しかしていない者を100の世界へ帰天させることはありません。
神の評価は、努力の質と世界、主観と客観は完全に比例しており、この世の人間のように10の悟りを持つ者が100の富を持っていたり、100の悟りを持つ者が10の富しかもっていないような不公平で歪んだ評価はされていないのです。
神の造られた正しき世界では、平等と公平が完全に順守されています。
まとう光も神界人の光よりも菩薩の光の方が大きく、菩薩のまとう光よりも如来のまとう光の方が大きく、悟りの質に比例した光をみなまとっており、同じ大きさの光ではないのです。
悟りの質が公平に光の量としてあらわれています。
それをこの世では同じ光にしてしまっているのです。
例えば仮に6次元霊界人の光を20の光とすれば、現代の平等は神界人も20の光で一票、菩薩も20の光で一票、如来も20の光で一票と不公平な評価をしているのです。
実際、そのようにはなっておらず、現実の神の評価と違うわけです。
地獄界を含めた5次元幽界から10次元宇宙界に到るまでその心の中心に同一同質同量同規模の全く微塵も差異がない神の心を宿している点、完全に神の下において平等ですが、その平等であり、同じ神の心を悟る人類各人の努力もまた公平に評価されて多次元世界の「多」としてあらわれ、階層性のある差別相になっています。
それは神の公平な評価でそうなっているのです。
多次元世界ではこの平等と公平が完全に守られているがゆえに低い霊域から高い霊域に到るまで全ての霊人が幸福を得ています。
神の造られた世界は、神の心を基準とした平等即差別の世界であり、平等即公平の世界です。
だから全霊人は幸福なのです。
現代のように神の心ではなく、神の体を基準とした平等でもなければ、差別でもないのです。
神の体、この物質の属性である富の多寡による差別でもなければ、肉体という物質を基準とした健常者と身障者の差別でもなく、肉体の肌の白黒黄色の人種差別でもないのです。
これらの差別は、神の体(物質)を基準とした差別であるがゆえに間違っているのであり、神の体を基準とし、物質を拝んでいる偶像崇拝に過ぎず、人類の悟り不足と未熟を示しているものです。
多次元世界の差別相は、神の体を基準とした偶像崇拝の差別ではなく、あくまで神の心を基準とした差別です。
同じ「差別」という言葉を使用していても意味と理念は真逆です。
西田哲学も現代人のように神の体を基準に平等即差別と言っているのではなく、神の心、あくまでこの実在を捉えて平等即差別と言っているのですが、これは要は平等即公平のことです。
実在の根本的方式は、一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである : 西田幾多郎
多次元世界とは、この西田哲学で説かれている通りの世界です。
富を基準とした差別相ではなく、善を基準とした差別相です。
現代の人間はこの平等を物質にすり替えて認識しており、人類は本当の平等を知らないのです。
だから菩薩も一票、霊界も一票、地獄霊も一票、悪魔も一票、暴力団も一票、何をどう努力しようが一票なのです。
神がそういった不公平な評価をしているのならば言いませんが、そのような無茶苦茶な評価はしていないのです。
好意的に見ても物質に比喩した方便の平等であり、「目的」として無限化してはならないものなのです。
これが現代では「目的」にされており、神の心を悟ろうが、悟るまいが一票であり、暴力団も一票、福祉施設の人も一票です。
とにかく何をやっても一票なのです。
有限に過ぎない方便の平等を無限化しているがゆえに間違っているのです。
例えば諸神霊によれば、今の日本には8次元菩薩界の人間が50名ほど再誕しており、8次元菩薩界と9次元如来界の中間の梵天界からは3名の梵天が生まれていると当時言っていました。
仮に50名の菩薩が全て集結したとしても、一人一票ですから50票にしかならないのです。
これが方便の平等を無限化した結果なのです。
方便の平等を無限化した結果、天地が分離し、人類はこの不幸の原理である天地の分離の原理に呑み込まれ、半数以上もの人達が地獄に堕ちる事態に陥ったのです。
これは光の天使の数だけを見ても分かります。
さあ、野郎ども、救世運動だ、と。
地球を救うぞ、光の天使よ、集結せよ!
で、50名の菩薩が集結したとしても一人一票ですからこの世では50票です。
このインコの屁。
こかれても気づきもせんわ。
もう、集結せんでもええわ、このトンボの屁。
匂いもせんわ。
50票なんかいらんわ、どっか行っとれ。
そこら辺で緑のたぬきでも食うとれ。
七味いっぱいかけて。
おいしいから。
一人一人の菩薩にはみな如来が指導霊としてついておりますので、50名の菩薩が集結すれば、少なくともあの世では巨大な力が結集したことになりますが、この世では一人一票のため50票という非常に小さい力にしかならないのです。
あの世では巨大な力ですが、この世では小さい力となり、あの世の「天」とこの世の「地」が切られてしまうのです。
天地の分離は不幸の原理ですので、この物質にすり替えられた平等観がこの天地を切り、人類を不幸の原理に呑み込み、多くが地獄に堕ちる世界になったのです。
一人一票ならば、神の心から遠い人間の方が量的には圧倒的に多いため、神の心に近い高い価値が社会に反映していくというより、逆の世界となり、神の心から遠い低い価値が社会に反映されていくため多くがその低い価値によって地獄に堕ち、不幸になってしまうのです。
選挙制度は民意の反映ではなく、神意の反映でなければならず、より神近き高い価値の反映でなければならないのです。
その根拠が多次元世界です。
多次元世界では、より高い質の悟りを有している神霊が高次元に存在しているのであり、数量で言えば、地獄界を含めた5次元幽界(180億人)や6次元霊界(260億人)の方が8次元菩薩界(2万人弱)や9次元如来界(500名弱)の神霊よりも圧倒的に多いのです。
しかして数量の多い霊域の方々は、数量の少ない霊域の神霊の世界よりも下の次元に置かれており、これは神が「量」ではなく、悟りの「質」を基準にしている何よりの証明です。
この世でもその事実は世界に示されており、神の心の属性は「質性」であり、神の体(物質)の属性は「量性」です。
従って相対的な自我を強化すれば、波長同通の法則の作用によって、同じく相対的な物質の方面と同通し、この物質に心が支配され、この物質の属性である「量性」に支配されます。
どこかの教祖も、やたら「量」に拘っておりましたが、それは神の心を心としないで自己都合で法を説いていた証明なのです。
教祖の明白な悟り不足と未熟が示されているものと言っていい。
相対的な自我の自己都合で法を説いていたから物質の方面の支配を受け、物質の属性である「量性」に支配されたのですが、それはもはやとても真理と言える法ではありません。
神の心とは、如何なる教祖の自我からも来ることはありません。
過去・現在・未来に登場してくる全ての多様な真理は、神の心に帰一しているのであり、神の心に帰一しているということは、全ての真理は神から来るということです。
人間や教祖さまの相対的な自我から神の心が下りることは永遠にありません。
それは単に自我の矛盾から発している間違った法に過ぎません。
この大宇宙では神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
すなわち神の心の属性である「質」が「天」に置かれ、神の体の属性である「量」は「地」に置かれているのです。
多次元世界でもそうなっています。
悟りの「質」が低い者は、たとえ「量」が数百億人いても下の次元世界に置かれているのです。
逆から言えば、悟りの「質」が高ければ、たとえ500名弱と「量」は少なくとも、遥かに高い高次元の世界に置かれています。
これは「量」ではなく、悟りの「質」を磨きなさいと神が人間に教えているということです。
この世では「質」の属性をもった神の心を「天」に置くことによってそれを教え、あの世では悟りの「質」の高い者を高次元に置くことによってそれを教えているのです。
この世でもあの世でも神は「質」を基準にしていることを大宇宙を通し、多次元世界を通して人間にそれを永遠に教えています。
「量」で人の心を救うことはできないからです。
物質や富をいくらかき集めても富で人の心を救うことはできません。
神の心の「質」の高さによってしか救えないのです。
富の総量を増やせば、増やすほど、あるいは世界のGDPが増えれば、増えるほど世界は良くなるのではなく、悪くなるのです。
富を増やしたから腐敗したのではなく、その増えた富の矛盾を真理と悟りで統一できないために腐敗しているのです。
未熟を何とかしないで統一もできない利益と快楽の総量ばかりを増やしているからその富の総量の矛盾を心が受け入れることができなくなり世界は腐敗しているのです。
神の心が真理であり、神の体が現象利益です。
真理と現象利益の関係は、真理即現象利益であり、双方は一実在の両方面です。
真理が統一であり、現象利益は矛盾です。
統一と矛盾の関係は、西田哲学で説かれておりますように統一即矛盾であり、双方は一実在の両方面です。
神は神の心で神の体を統一しており、この宇宙では真理が現象利益の矛盾を統一しておりますので、宇宙や自然界は繁栄しながら腐敗もしないのです。
人間の方はみずからが生んだ現象利益の矛盾を真理で統一できないために腐敗しているのです。
神は大宇宙を通して、人類に利益と快楽の矛盾は真理と悟りで大宇宙のように統一しなさいと永遠に教えているわけですが、今の人類は宇宙を通して神が実践されているように生きられないのです
神は現象利益の矛盾を永遠に統一しておりますが、人間は現象利益の矛盾を神のように統一できないのです。
直ぐに利益と快楽の矛盾を「天」に置いてむさぼろうとするのです。
そして矛盾の大海に入らなければいいのに、入って溺れてしまい、色々と溺死しているわけです。
これも悟り不足と未熟が原因ですから神の心を悟らずに人類は幸福になることはできないということです。
物質や現象利益は今後も永遠になくなりませんので神の心によって統一していくしかありません。
現象利益を統一するには、人間が神の心を悟るしかないということです。
神の心が真理であり、神の体は現象利益です。
宇宙は神の心の表現体であり、真理が永遠に現象利益を統一しています。
神は大宇宙を通して人間に生き方を教えており、現象利益は真理で統一せよと永遠に教えているわけです。
ところが今の人類にはこれができないのです。
神のように生きられないわけです。
これも次世代の文明と現代の文明とを画然と分ける生き方と言っていいでしょう。
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