GLAの高橋信次氏以降、初めてあの世の存在の全貌が多次元世界として説かれましたが、あの世とは表面意識の奥に存在する潜在意識のことを言います。
あの世の世界は、近代ではフロイトやアドラー、あるいはユングと言った心理学的方面からアプローチされてきましたが、さすがに限界がありました。
カントは、当時のスウェーデンボルグの影響を受けていたのだと思われますが、あの世の世界を学問の対象とするにはあまりにも忍びないため、宗教と学問の世界に一線を引き、神のものは神に返したのです。
その思考的傾向によって近代合理主義が出てきたわけですが、神の存在やあの世の存在という真実に目を塞ぐ結果になってしまいました。
この近代合理主義を乗り越えていくために「救世の法」は説かれるのです。
あの世の世界とは、一人一人の「心」と離れて存在しているわけではなく、一人一人の自我の奥、表面意識の奥、現象我の奥、すなわち潜在意識に存在しています。
神の国は、見られるかたちで来るものではない。
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。
神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ : ルカ17-20,21
そう、潜在意識に在る。
従って潜在意識の「天」と表面意識の「地」が天地一体となった時、神の国もまた「見られるかたち」であらわれてきます。
これが地球ユートピアです。
釈尊の使命の一つであった「新しい文明の創造」とは、この地球ユートピアの創造であったわけです。
幸福の科学の3つの使命とは、一つには「救世の法の完成と成就」であり、二つには「宗教改革」であり、そして三つにはこの「新しい文明の創造」でした。
結果論に過ぎませんが、大川さんはこの3つの使命をどれも果たすことなく死んでしまったわけです。
通常、光の天使は自己の使命を果たした後に死んでいくものであり、使命を果たしたがゆえに天上界に帰天しているわけです。
何も使命があるのは光の天使だけではなく、霊格の高低に関係なく人間にはみな使命があります。
それが神の世界計画の遂行であり、神の善の実行です。
霊格が高かろうが、低かろうが、万人は神から永遠の使命を与えられているのであり、その神から与えられている使命が、カントの言った「まさに善を為すべし」という道徳的命令であり、神の善の遂行なのです。
この神の善の遂行の使命を果たした者のみが霊天上界に帰天していくのであり、天国に帰天し、幸福を得るには神の善の遂行が絶対条件なのです。
従来、これを単純に善を為せば天国へ、悪を為せば地獄へと説かれてきたわけですが、天国へと帰天するという現象利益のために神の善を遂行するならば、良くて利益に比喩した方便の善であり、下手をすれば明らかなる間違いとなります。
利益のために神の善を遂行する者はおらず、カントは「道徳的命令」、すなわち強制的な義務のように残しておりますが、神の善とはそれ自体が「永遠の目的」であり、その遂行は聖なる使命なのです。
神の心とその実現が目的であり、その目的を成就すれば、これを原因として結果、天上界へと帰天していくという現象利益を得るのです。
真理が「天」であり、現象利益は「地」で、永遠に天地一体です。
これを逆転し、天国に帰天するという現象利益のために神の善を遂行するならば、それは良くて方便であり、無限化すれば、利主神従の明確な地獄の創造主となり、悪が無限化してくる世界になります。
天国への帰天という現象利益を「天」に置き、真理を「地」に置く者は天地を分離させているのであり、不幸の原理にしかならず、好意的に見ても大衆レベルで許される方便の善に過ぎません。
「まさに善を為すべし」という道徳的命令が使命であり、この使命を果たした者が天国へと帰天していくのです。
この聖なる使命は、神の善の遂行ですので人間が天上界へと帰天していくには、神の善を実行していくしかありません。
俗に地獄に堕ちる者の普遍的な特徴とは、この神から与えられた善の遂行の使命を果たさなかったことであり、神の使命を果たさずに死んだ者が行くべき世界は決まっています。
人間が天国に帰天するのか、あるいは地獄に堕ちるのかは、このカント哲学で説かれる「道徳的命令」によって決まっており、神の善によって決まっています。
人間にとって生と死を意味する天国行きか地獄行きかは、神の心によって永遠に決まっているということです。
使命を果たした者が天国へと帰天し、使命を果たさなかった者が地獄に堕ちてしまうということです。
これは今後も変わりません。
万人にはみな神から与えられた使命をもっているのであり、この聖なる使命は絶対的なものです。
神の善の遂行とは、空間を超え、過去・現在・未来の時間を超え、人類に普遍妥当している使命なのです。
時間と空間を超えているということは、時空はイコール物質ですから、この聖なる使命は物質の全体を超えているということです。
すなわち絶対的な使命なのです。
未来の人類もまた神の善の遂行が使命であると認識できますならば、神の善とは時間を超えている永遠なるものである事実を認識できているということです。
それとも未来の人類は善を遂行しなくても良い存在であり、悪の遂行が使命であると認識しているのでしょうか。
それはその主観が「永遠」を正確に認識できていないということです。
神の善の遂行とは、過去・現在・未来の人類の使命なのです。
すなわち過去・現在・未来の時間を超えている「永遠なる使命」です。
人間の主観がこの「永遠」を認識できている限り、主客合一の法則上、主観と客観は切れませんので、その主観で認識している「永遠」が客観化された世界、すなわちあの世の世界は存在するということです。
潜在意識が存在するというならば、あの世の世界は存在するのであり、潜在意識が存在しないというならば、あの世の世界も存在しないのです。
西田哲学で説かれている主客合一の法則とは、あの世とこの世を貫いている絶体の法則ですので、主観で「永遠」を認識していながら、その「永遠」が客観化されておらず、客観にその永遠の世界が存在していないということの方が考えにくいのです。
今までもこのあの世の世界を仏教では「彼岸」と説き、キリスト教では「神の国」と説いてきたのです。
この「彼岸」に到達すれば、深遠な般若の智慧を得ることになります。
だから仏教徒はこの到彼岸を悟りの目標としてきたのです。
ここは「永遠の世界」ですので、「永遠」を悟ると言っても同じであり、永遠の生命に生死はありませんので生死を超えると言っても同じ意味になります。
この「聖なる使命」とは、神との約束ですので、その使命を果たさずに死んでしまうということは、誰であれ永遠の後悔を残すことになります。
かつてあの世の高橋信次氏は、幸福の科学についてこう言っていたのです。
私たち、天上界の法をつくるための、主流の魂系団たちが、やっておることは何かというと、結局いろいろな時代に出て、文明の原理をつくり、聖典をつくってきたのは私たちなのだということです。
二千五、六百年前にインドにおいてブッダが悟られた時に、ブッダに対していろいろな啓示を与えたのも私たちでありました。
また二千年前にイエス様が目覚められた時に、霊言を伝えたのも私たちでありました。
また三千二百年前にモーゼが霊言を伝えた時に、いろいろなことを言ったのも私たちでありました。
その前にはギリシャのゼウスのところにも、私たちは通信を送りました。
こうした大規模の、世界的規模の大きな啓示を与えるために私たちはやっとるんであって、私たちの啓示というのは単なる霊能者とか、単なる霊媒とかには絶対にかからんのです。
出て来ないのです。
そういうことを間違えてはいけないのです。
私たちが通信を送るということは、本当に世界的規模での救世の事業が起きる時だけなのです。
それ以外の時は、絶対にあり得ないのです。
そういうことです。
ですから、地上の皆さん方、高橋信次が通信を送る人というのはどういう人かというと、結局その人が救世の事業を起こし得るか否かにかかっておるのです。
真実、救世の事業をしている人であるならば、私たちからの通信を受けることができるのです。
そうでない巷の霊能者たちは、私たちのメッセージを受けることが絶対にできません。
今、世界的に大救世主の降臨であるとか、大マイトレーヤの降臨であるとか、大導師の下生であるとか、こういうことが言われています。
まさしく、そういう時期が来ておるのです。
そのために、私たちは、その証明のために、こぞって出て来て、こうして霊言を伝えておるのです。
ソース : 高橋信次の新復活 第5章 大宇宙と神理
まさに大川さんが、現代の大救世主であったわけです。
ここまで言うのですから、それはそうだったのでしょう。
ですから、地上の皆さん方、高橋信次が通信を送る人というのはどういう人かというと、結局その人が救世の事業を起こし得るか否かにかかっておるのです。
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( ´,_ゝ`)プッ
では何だ、あのグルグル回転菩薩とかいう得体の知れない謎の行動は。
正義から利益にすり替え、幸福から快楽にすり替え、神我から自我にすり替え、質から量にすり替え、主から従にすり替え、実相から現象にすり替え、統一から矛盾にすり替え、滅多やたらと未熟と悟り不足が目立っておりましたが、あれでは救世主の使命などとても果たせないでしょう。
真理の世界とは、実相即現象であり、実相不変であり、現象無常なのです。
ところが逆に現象不変、実相無常の法を説いていました。
現象利益の方が不変であり、真理の方が耐久消費財と言いますか、使い捨てと言いますか、単なる消耗品扱いにされていました。
民主主義も擁護しておりましたが、民主主義とは人民共通の利益に基づいた国家契約ですので利益を「天」に置いている政治体制です。
相対的な利益を「地」に置いている大宇宙の存在と切られている政治体制なのです。
利益と国益を「天」に置くとは、神への傲慢を犯している政治体制なのです。
神への傲慢とは、相対的なものを絶対化し、神が永遠に「地」と定めているものを「天」に置く動機と思想、並びに行為を言うのです。
民主主義と資本主義だけではありませんけれども、世界をその傲慢によって腐敗させ、多くを地獄に堕としている政治体制であり、経済原理なのです。
神から遠い者を主権者とし、神から遠い利益を拝み、神から遠い国益を拝み、一生懸命神から遠い世界を創っているわけですから腐るのは当たり前ですが、利益と快楽で釣っている誰かさんの性質がよく反映されている世界です。
相対的な利益と国益を「天」に置いている限り、アダムとイブと同様、エデンの楽園から追放されている世界なのです。
少なくとも宇宙即我の政治体制ではありません。
次世代の新しい文明とは、如来界と同様、宇宙即我の文明であり、現行の宇宙と分離している文明ではないのです。
宇宙と分離しているとは、神と分離しているということであり、まさに罪の文明です。
これが世界の腐敗の根本の原因であり、多くの人達が地獄に堕ちている原因でもあります。
宇宙の存在が神ですから過去・現在・未来の全人類を永遠に支配しています。
イエスであろうが、釈迦であろうが、エル・ランティであろうが、霊格の高い者であろうが、低い者であろうが、全て神の心と神の体、すなわち大宇宙が永遠に支配しているのです。
神が支配しているということは、神と人類は永遠に一体で生きていることをあらわしています。
神と人間を切ることは誰にもできません。
宇宙と人間を切ることはできませんので、人間の側がその相対的な自我を強めれば、波長同通の法則によって同じく相対的な神の体(物質)の方面に支配され、その統一的な神我を強めれば、波長同通の法則によって同じく統一的な方面である神の心に支配されます。
神の心と神の体のいずれかに全人類が支配されるのは、大宇宙と人類、神と人類は永遠に一体で生きているがゆえに支配されるのです。
未来の人間も一人残らずがこの神の心と神の体に支配されます。
大宇宙の支配から逃れることのできる者は一人も存在しません。
宇宙が神だからです。
そして人間が神の心に支配されれば、神の心の属性のままに生きるようになりますので世界は良化し、人間が神の体に支配されれば、物質の属性のままに生きるようになりますので世界は悪化を続けます。
私であろうが、イエスであろうが、釈迦であろうが、誰それであろうが、人に分からんと思うて、その相対的な自我を強化すれば、必ず相対的な神の体(物質)の方面の支配を受けるのです。
そして物質の属性のままに生きるようになり、物質の属性には「利益性」がありますので、富と株で釣るような行動を取ったり、物質の属性である「快楽性」によって支配欲の快楽を優先したり、物質の属性である「弱性」によって人さまの弱みにつけ込んで不信を撒いたり、物質の属性である「遠位性」によって神から遠い者達に迎合し、わざわざ神から遠い霊域に下りたり、物質の属性である「量性」によって量の多い大衆を利益で釣り始める行動を取るのです。
イエスも大宇宙に支配されているということであり、聖書で書かれてあることと行動の分離の「矛盾」も物質の属性です。
聖書には、ただ神のみを拝し、神のみに仕えよと書かれてあるのです。
ところが実際の行動は、ただアメリカ大統領の権力に仕え、アメリカの資産家の富に仕えているわけです。
だからその資産家の富が減少しないように必死で株を上げているのです。
幸福の科学でも如実に出ておりましたが、この想念と行動の「矛盾」は、物質の属性ですので神の心を心とせず、自己都合でやっている証明です。
聖書には神殿で両替商の富を散らし、神殿を強盗の巣にしたと書かれてあるのですが、実際の行動は地球と言う神の神殿でお金儲けをしている資産家の富に仕え、神の心の方を妨害しているのです。
聖書に書かれてある通り、地球と言う神の神殿でお金儲けをし、神の心から利益だけを盗み取っている強盗共のお金をイエスは散らさないのでしょうか。
強盗共のお金儲けで気候変動まで起こっているのです。
一生懸命、強盗共の富に仕えているようですが、言うことと行うことが矛盾だらけです。
今回、イエスのこういった「矛盾」が際立っているのです。
これはイエス自身が神の心を心とせず、自我を「天」に置いているため神の体の方面の支配を受けたのです。
あの世であれ、この世であれ、自我を「天」に置けば、必ず神の体の方面の支配を受け、物質の属性をもった思想と行動を取るのです。
イエスも大宇宙が支配しているということです。
大宇宙が神だからです。
本来、大宇宙という真の神を信ずるべく造られている神の子達を、自己の支配欲のために人間への信仰、この生き神信仰にすり替えることによって、神の心から神の子達を奪っているのです。
だからクリスチャンは目の前に存在する大宇宙が神である事実も知らないのです。
神への信仰になっていないのです。
神でも何でもないものを信ずる宗教をカルトというのです。
幸福の科学もエルカンという神でも何でもないものを信じているからカルトと言われるようになったのです。
利益性、快楽性、遠位性、結果主義、弱性、矛盾、量性、従性、イエスはこの物質の属性を全て持っておりますが、これはイエスが神の心を心とせず、自我を「天」に置いている証明です。
マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネの福音書も、良く言えば方便の教え、悪く言えば偽物の真理になっています。
少なくとも好意的に見ても方便の真理ですので、無限に伝道していい教えではありません。
方便の真理を無限に伝道すれば、必ず悪も無限に現象化し、その酷い悪を克服できず、地獄に堕ちる方も出てくるのです。
神を拝ませずに自分を拝ませ、神の心から神の子達の信仰を奪うことをやめるべきなのです。
神への信仰と言っているわけですから、素直に宇宙の存在と宇宙の本質と人間の本質は同じですので、人間の心の本質を信じさせればいいだけの話なのです。
その神への信仰に私やイエスや釈迦と言った人間の入る余地はないのです。
人間の信仰とは神の心に捧げられるべきものであり、神のものは神に返せということです。
新しい文明ではこの大宇宙の存在が中心に置かれます。
少なくとも我々は今後、この神の心と神の体の探究、いわゆる大宇宙の探求に入っていきます。
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