神の心を直接説く法を実相説と言い、神の体(物質)に比喩した善を説く法が方便説です。
実相説と方便説の双方を説く者が如来であり、方便説だけを説く者が菩薩です。
宇宙は神の心の表現体であり、神の心即神の体、精神即物質、真理即現象利益、実相即方便が真理です。
現実そのままが真理です。
方便の善とは、神の体に比喩した善、自我に比喩した善、物質に比喩した善、利益に比喩した善、快楽に比喩した善、「地」に比喩した善です。
菩薩の説く法は方便の善であり、菩薩の法にも色々とありますが、典型の事例が親鸞の浄土真宗の絶対他力の教えです。
自力が「天」であり、他力が「地」で、永遠に天地一体ですが、菩薩はこの「地」に比喩した善を説くのです。
「地」とは物質を意味しており、物質に比喩した方便の善になってしまうのです。
悟りと反省が「天」であり、救済が「地」で、永遠に天地一体です。
神の心を悟るか、あるいは神の心に照らして反省すれば、神の心とおのれの心が同じくなりますので、これを原因として結果、救済という現象利益があらわれます。
悟りが「天」であり、救済が「地」で、永遠に天地一体ですが、救済とは現象利益です。
絶対他力とは利益に比喩した方便の善であり、救済を目的にしているから悪人正機説を説いたのです。
善人を救うとは言いませんから、悪人であるあんたこそが救われるという悪人正機説は、救済という御利益を目的にしています。
利益に比喩した善であり、やはり菩薩の善です。
救済というのは現象利益ですので決して「目的」にはならないものですが、「目的」にしており、下手をすれば利益で人さまの心を誘惑することになります。
「地」である救済を「天」に置けば、天地が切れるのです。
悟りと反省が「天」であり、救済が「地」で、永遠に天地一体です。
物質とは「目的」にもならず、また「否定」もできないものであり、この「目的」と「否定」の矛盾を含んでいます。
自力で正当に努力していれば、必ず他力も入りますので他力を「否定」することはできません。
しかして他力が信仰として「目的」とされれば、絶対他力となり、念仏地獄の因となります。
相対的な自我の知情意の中に人間の救いはありませんので、その自我力行をほかしてただ阿弥陀仏の心に没入する他力ならば結果として救いはありますが、自力を一切放棄させれば危険な教えとなります。
念仏地獄では自力を一切放棄させてきましたので、自力で反省しようとしなくなり、その地獄から出ることができなくなったのです。
ただ何百年も南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏地獄で阿弥陀仏の救いを待ち、祈っているわけですが、阿弥陀仏が救いにくることは永遠にないのです。
自分の罪は自分で反省するしかなく、自分の心の曇りは自分で晴らすしかないからです。
従って仮に阿弥陀仏が救済のために念仏地獄に舞い降りようとも、言うことはただ一つです。
自分の罪は自分で反省しなさい、反省とは自力です、と。
これだけです。
そうでなければ救えないからです。
阿弥陀仏が自分に代わって悟ってくれるわけでもなければ、自己の罪を代わって反省してくれるわけでもない。
阿弥陀仏に頼っても無駄であり、自分の悟りは自分で磨くしかなく、自分の罪は自分で反省するしかなく、自分の心の曇りは自分で晴らすしかありません。
正法は自力です : 高橋信次
阿弥陀仏信仰とは、イエス・キリスト信仰であるとあの世の唯円も述べておりましたが、大川さんの指導霊はそのイエス・キリストです。
皮肉にも頼っても救えなかったことを実証してしまいました。
まさに非業の死を遂げてしまったわけです。
それは至極当たり前の話であり、自分の悟りは自分で磨くしかなく、自分の罪は自分で反省するしかないからです。
絶対他力で自我を放棄させたまま念仏地獄に堕ちておりますが、その念仏地獄から出るには自力の反省が必要になる。
これが絶対他力の矛盾ですが、物質に比喩した善とは、矛盾に比喩した善であり、矛盾とは「目的」にもならず、「否定」もできないものです。
絶対他力はこの「目的」と「否定」の両極端のうち「目的」の方面に偏っており、この偏りは自我の作用です。
菩薩の法は、どうしても自我に比喩した方便の善になってしまうのです。
他力とは「目的」にもならず、「否定」もできないものであり、「目的」と「否定」の矛盾を統一しているこの両極端の中道に入らなければならない。
神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎
自力が「天」であり、他力が「地」で、永遠に天地一体であり、この「地」である他力を「天」に置けば誤りとなり、これが念仏地獄を生むことになります。
自力なきところに他力は入りません。
それでも他力が入るならば、それは単なる御利益信仰です。
利益で人の心を釣っているに過ぎず、お金で人の心を釣るような者と変わりません。
誘惑を来たらせる者は災いです。
「地」を「天」に置く者は、天地を分離させている者であり、天地の分離は不幸の原理ですので念仏地獄という不幸を生むことになる。
方便の善とは、その善としての有効範囲は有限であり、それを無限に伝道し、説いていけば、悪もまた無限に現象化してきます。
自我に比喩した善とは、物質に比喩した善ですので、この物質(時空)から抜けられないのです。
仮に絶体他力を無限に説いていけば、自我を全て放棄させますので人類が奴隷になってしまうのです。
自力で神の心を悟ろうともせず、自力でみずからの罪を反省しようともしなくなるのです。
神我が「天」であり、自我が「地」で、永遠に天地一体ですが、自我を「否定」させれば、「地」そのものを「否定」することになりますので天地が切れます。
天地の分離は不幸の原理なのです。
自我は「目的」にもならず、「否定」もできないものです。
この「目的」と「否定」の両極端の中道に入る道が神の道であり、統一の道です。
相対的な自我はそれ自体「矛盾」を意味しており、その矛盾の全てを統一している存在が神です。
統一と矛盾の関係は、統一即矛盾であり、双方は一実在の両方面であり、切ったら実在とはならず、自我となる。
無限とはならず、有限になるということです。
自我は「地」ですので「地」に向かうことにもなる。
精神と物質の矛盾、神我と自我の矛盾、幸福と快楽の矛盾、真理と現象利益の矛盾、天と地の矛盾を永遠に統一している存在を神の心と言います。
矛盾をそれ自体「否定」するのでもなければ、「目的」にするわけでもなく、矛盾をそのまま統一している存在が神です。
イエスの心の本質にも神の心はあり、釈迦の心の本質にも全く同じ神の心があります。
イエスと釈迦の個性は異なっており、その意味で矛盾ですが、その絶対矛盾はそのまま神の心によってその中心から永遠に統一されています。
人類80億人の個性はそれぞれ異なっておりますが、その心の本質には同じ神の心が存在しており、80億人の矛盾した個性は神の心によって永遠に統一されているのです。
神の体、この物質の矛盾も神の心が永遠に統一しています。
方便の善とは、物質に比喩した善ですので時間と空間を抜けられないのです。
だから人類普遍の価値基準にはならないわけですが、時間の経過と空間の位置変化によって相対的に変化していく善悪は方便の善であり、神の普遍的な善悪でもなければ、善悪の価値基準でもありません。
現代で魔女裁判をすれば、それは単なる犯罪ですが、当時は正義の下に行われた道徳的な行為だったのです。
魔女裁判は昔は善でしたが、今は悪です。
時間の経過によって変化していく善は神の善ではありません。
立つ立場によって変わる善とは相対的な善であり、神の絶対的な善とは言えない。
如来は全てそうですが、神の絶対善を説くのです。
如来の悟りと菩薩の悟りを画然と分けているものとは大宇宙の存在です。
如来は宇宙に直接表現されている神の思想を読み取ることができるため、神の法を説くことを許されておりますが、菩薩は宇宙に表現されている神の思想を読み取れないために、まだ神の法を説くことを許されていないのです。
だからどうしても方便の善になってしまうのです。
時間に比喩した善、空間に比喩した善しか説けないため「永遠」を悟れないのです。
その者が如来かどうかは「永遠」を悟っているかどうかで分かります。
如来は「永遠」を悟っているため時間と空間を抜けた神の思想を説くことができますが、菩薩はまだ「永遠」を悟っていないために時空を抜けることができず、時空(物質)に比喩した方便の善になります。
如来というのは、例えばエマソンがそうですが、全ては償われるという「償いの原理」を説きました。
肉体即我の未熟者は、肉体人生の80年に捉われ、80年かけても決して償うことができない罪を犯したと懊悩することがあります。
大丈夫です。
誰でも死んだ後、償えます。
と言いますか必ず善人に戻るために償わせられると言った方が正確です。
これが地獄ですが、地獄を恐怖の世界として捉えている方もおりますが、そういった側面がないわけではないけれども、恐怖の世界としてだけ説くのは眉唾です。
あの世の天台大師が述べておりましたように地獄界とは一時的にそこにいる病院であり、神の慈悲の世界と言ってもいいし、高橋信次氏が述べていたように地獄界とは善人に戻るための厳しい特訓場と言ってもいい。
あるいは地獄界とは元の善人に戻るため、自己の負債を支払う場所と言ってもいい。
もし罪や悪を犯しても、その負債を支払う場所がなければ、人間は善人に戻りようがなくなるのです。
その意味で誰でも全ての負債を支払うことのできる場所としての地獄界という存在は、まさに神の慈悲の世界と言えるでしょう。
罪や悪とは人間の犯すものですので有限であり、永遠の実在ではありません。
如何なる罪や悪も永遠には勝てません。
支払えない負債はないのです。
エマソンが「償いの原理」を説いたのは、この「永遠」を悟っていたということです。
如来とは「永遠」を悟っている者のことです。
「永遠」とは、過去・現在・未来の時間を超えているということです。
時間を超えているということは、時間と空間は切れませんので空間の全体をも超えているということです。
西田博士も如来でしたが、「絶対矛盾的自己同一」の悟りや「主客合一」の悟りで「永遠」を説かれています。
見られる世界(客観)は、見る者の心の世界(主観)であり、主観と客観は永遠に合一しています。
見られる菩薩界というその世界は、そこに住む菩薩の心の世界であり、主客は永遠に合一しています。
見られる地獄界というその世界は、そこに住む地獄霊の心の世界であり、主客は永遠に合一しています。
過去の世界も主客合一の世界であったし、現在の世界も主客合一の世界であるし、未来の世界も主客合一の世界であり、不変なのです。
過去・現在・未来を超えているということは時間を超えているということであり、「永遠」を悟っているということです。
今回、『神約民主論』において人民共通の「人生の意義」に基づいた国家契約を打ち出しておりますけれども、過去の人類の「人生の意義」も神の心であったし、現在の人類の「人生の意義」も神の心であるし、未来の人類の「人生の意義」も同じく神の心なのです。
神の心とは永遠不変であり、変わらないのです。
如来とはこの「永遠」を悟っている者のことです。
過去・現在・未来の人類の「人生の意義」が神の心であると言う事実は、誰も変えることはできず、その意味で絶対的な心です。
GLAで説いていた波長同通の法則も絶対的な法則であり、主客合一の法則も絶対的な法則です。
時間と空間を超えているものなのです。
世には往々何ゆえに人間は神を信じなければならないのかを問う人がおりますけれども、人間が神を信じなくなれば、自動的に人類が不幸になるからです。
人間の自我はその知識・思考・概念・認識・情操、全て相対的な性質しか有していないのです。
アインシュタイン博士が相対性理論で論証されましたように物質の相対性と自我の相対性は波長同通の法則によって必ず同通するのです。
人間が神への信仰を失いますと、必然的に相対的な自我のままに生きようとするのです。
すると自我の相対性と物質の相対性が同通し、人間は自動的に神の体(物質)の方面の支配を受けるのです。
だから相対的な富を「天」に置き、相対的な国益を「天」に置き、神の心から遠い者達を主権者と称して「天」に置いているのです。
神への信仰を失っている証明です。
そして半数以上もの人達が地獄に堕ちるかの如き、非常に不幸な世界に生きているのです。
半数以上もの人達が地獄に堕ちている世界というのは、これほど不幸な世界はありません。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
物質とは神が永遠に「地」と定めているものですので、これに支配されて「天」に置けば、永遠に物質を「地」に置いている眼前の大宇宙、すなわち神と人類が分離してしまうのです。
天地の分離は不幸の原理ですので人類自身が不幸になるのです。
過去・現在・未来を問わず、イエスであろうが、マホメットであろうが、大川さんであろうが、霊格の高低や人間を問わず、相対的な自我を強めれば、同じく相対的な神の体(物質)の方面に支配され、良心、ないしは統一的な神我を強めれば、同じく統一的な神の心の方面の支配を受けるのです。
そして神の心に支配されれば、人類は幸福となり、神の体に支配されれば、人類は不幸になるのです。
なっているのです。
神への信仰を失えば、人間は相対的な自我のままに生きようとするため必然的に相対的な物質の方面の支配を受け、天地が分離し、まさに自動的に人類は不幸になっていくのです。
またこの我々の生きている大宇宙では神の心が永遠に「天」に置かれておりますので、人類自身が神への信仰に覚醒し、神の心を「天」に置きませんとこの宇宙(幸福)との融合はないのです。
幸福になれないのです。
今回はこの大宇宙の絶対的権威、いわゆる神の権威のことですが、これの確立が救世運動の核心だったのですが、大川さんがこの最も大切な信仰の部分をエルカン信仰に変えてしまったのです。
しかもあの世のエルカンではなく、この世に生きている人間への生き神信仰にしてしまったのです。
全く何やってんだか。
あの方たちったら神の権威というより、ご自身の権威を確立しようとなさっていらっしゃるから、ほんと敬語で。
大宇宙の存在を神と言いますが、それは神そのものですので過去・現在・未来の全人類を支配しているのです。
相対的な自我を強化すれば、同じく相対的な神の体に支配され、統一的な神我を強化すれば、同じく統一的な神の心に支配されるのです。
誰であろうが、神と人間の関係は永遠にそうなっているのです。
人間は神の心と神の体、いわゆる大宇宙に支配されているのです。
神と人類は永遠に一体で生きているから支配されるのです。
この神の支配から逃れることのできる者は存在しません。
文句を言ったって神がそう造ったわけですから、人間ではどうしようもありません。
そして神の心に支配されれば、人類は幸福となり、神の体に支配されれば、人類は不幸になるのです。
これも不変の事実です。
人類が神への信仰を失えば、必然的に神の体の方面の支配を受けてしまいますので、自動的に人類は不幸になっていくということです。
人類がその幸福を実現していくには、盲信や狂信ではない、正当な神への信仰に覚醒するしかありません。
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