神の心(精神)を探究するのが宗教であり、神の体(物質)を探究するのが科学です。
宇宙は神の心の表現体であり、神の心即神の体で一つです。
すなわち宗教と科学は一つであるということです。
宗教とは読んで字の如く宇宙を示す教えであり、神の心の側面から大宇宙を探究しますが、科学は神の体の側面から大宇宙を探究しています。
どちらも同じ神を探究しているのですが、探究の角度が異なっているだけです。
科学は神の体なくして発展せず、宗教は神の心なくして発展しません。
人類の霊性の進歩のために沈黙の神は自力で人間に自己を探究させておりますけれども、神の心なくして宗教なく、神の体なくして科学なしです。
宗教的真理は神の心に依存しており、科学的真理は神の体に依存しています。
宗教と科学は共に大宇宙、すなわち神の存在に依存しているのです。
宗教的真理も科学的真理も共に人間の自力で発展させているように見えますけれども、実際は宗教的真理は神の心によって発展し、科学的真理は神の体によって発展しています。
我々人類は精神と物質共に神の存在に依存しなければ進歩はないのです。
神は信ずるとか信じないとかいった相対的な次元には属していません。
目の前の大宇宙を見て下さい。
宇宙と自然界は肉眼でも見えるはずですが、この大宇宙の存在を神と言います。
過去・現在・未来の人類の中でただの一人でも大宇宙の存在を否定できる人がいるでしょうか。
否定できる人は一人もいません。
すなわち神の存在を否定できる者は、一人もいないということです。
大宇宙とは神の体であり、その大宇宙を表現した心を神の心と言い、その神の心は人間の心の中心に存在しています。
ただ人類は眼前に存在する大宇宙が神だと知らないだけです。
知っていれば無神論などあり得ません。
未熟な人類の前に大宇宙をボンと置いても、その大宇宙が途轍もなく偉大で、途轍もなく広大で、途轍もなく巨大なためにそれを神だと認識できないだけです。
大宇宙の広さとは、神の心の広さです。
しかしてマクロの大宇宙とミクロの人間は、永遠に一体で生きています。
西田哲学にありますように統一と矛盾の関係は、統一即矛盾であり、双方は一実在の両方面です。
本来、物質なしの教えの如きは、まだ精神と物質を自我で切り、精神的方面に偏っており、実在を正確に捉えた教えとは言えず、自我に比喩した善の方便の域を出ていません。
精神と物質の関係は精神即物質であり、双方は一実在の両方面であり、切ったら実在とはならず、自我となる。
現実そのままが真理である : 西田幾多郎
人間自我は、その知識・思考・概念・認識・情操、全て他と異なっており、相対的なものです。
相対的な性質であるということは、自我が意味する属性とは物質と同様「矛盾」であるということです。
西田哲学で説かれているように統一は矛盾によって成立し、矛盾は統一によって成立している。
統一即矛盾であり、双方は一実在の両方面です。
矛盾(人間自我)は、統一(神の心)によって存在しており、統一(神の心)は、矛盾(人間自我)によって成立しています。
すなわち人間は神によって存在しており、神もまた人間によって存在しています。
神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎
従って矛盾が消滅しますと実在も消え失せます。
人間の心は神の心によって生き、人間の体は神の体(自然界・宇宙)によって生きています。
大宇宙と人類は永遠に一体で生きているからです。
宗教が神の心に依存し、科学が神の体に依存しておりますように、人間もまたその心は神の心に依存し、その体は神の体に依存しています。
神の体から採取する原油を精製し、自動車を動かしたり、機械の工場を稼働したり、暖房を取ったり、飛行機を飛ばしたりしておりますが、神の体に依存せずしてそういったことはできません。
神の体から採取するレアアースや鉄、ニッケルや銅等々によって経済活動をしています。
神の体に依存せずして人間の体は生きられないのです。
自然界という神の体に何かの種を植えれば、穀物や野菜、あるいは果物がなり、それを食べて人間は生存しています。
神の体なくしてそういったことはできません。
神の体が、過去・現在・未来の人類の体を養っているではないか。
人間は勝手に生きているのではなく、神に生かされているのです。
嘘だと思うならば、人類ご自慢の選択の自由をもって、自分は水を飲まないでいる選択の自由があり、食べ物を食べないでいる選択の自由があると主張すればいい。
なるほどそうかもしれません。
ならばそう生きてみて下さい。
その自我の選択の自由を行使して下さい。
自分は空気を吸わないでいる選択の自由をもっていると主張し、そう生きて下さい。
3分生きられたら大したものです。
人間の体は神の体に依存せずして3分と生きられないと言っているのです。
人間は水を飲まざるを得ないし、食べ物を食べざるを得ないし、空気を吸わざるを得ないのです。
それを否定すれば、人間はみな死んでしまいます。
人間は生きているのではなく、生かされているのです。
では何故、人間は神から生かされているのか。
その意味を探究していくことが「人生の意義」になっています。
肉体だけではありません。
人間の心も神の心に依存せずして何ぴとも天国には帰天できないのです。
神の心に叶えば天国であり、神の心に叶わなければ地獄です。
人間は神の心によって天国に帰天したり、地獄に堕ちたりしているのです。
自我で好き勝手生きて天国に帰天したり、地獄に堕ちたりしているのではないのです。
神の心に照らして天国に帰天したり、地獄に堕ちたりしているのです。
善を為せば天国であり、悪を為せば地獄です。
天国とは幸福、地獄とは不幸です。
善とは幸福であると言わなければならない。
その全ての多様な善を統一している存在が神の心ですから、万法は永遠に神の心に帰一しているのです。
善が幸福であり、その全ての善の源に神の存在があるならば、神の心とは永遠の幸福であると言わなければならない。
また仮に地獄に堕ちたとしても、神の心に照らして「反省」すれば、早急に地獄界から抜け、天国に帰天していくことができます。
そして永遠の生命と幸福を得る。
地獄界ですら神の心が基準になっているのです。
だから仏教の本質は「反省」なのです。
人間精神の根源的本質である神の心(主観)が、大宇宙(客観)を表現しましたので主観と客観は永遠に合一しています。
この世でも西田哲学で説かれておりますように、見られる全世界(客観)は、見る者全人類の心の世界(主観)であり、主客は永遠に合一しています。
あの世でも同じく主客合一の法則に貫かれているのです。
見られる如来界というその世界(客観)は、そこに住む如来の心の世界(主観)であり、主客は永遠に合一しています。
見られる地獄界というその世界(客観)は、そこに住む地獄霊の心の世界(主観)であり、主客は永遠に合一しています。
過去の世界も主客合一の世界であったし、現在の世界も主客合一の世界であるし、未来の世界も永遠に主客合一の世界です。
天界も主客合一の世界であるし、この世も主客合一の世界であるし、地獄界も主客合一の世界です。
過去・現在・未来の天界・現界・地獄界は永遠に主客合一の世界になっています。
三界三世は主客合一の法則によって造られています。
すなわち主客合一の法則とは、絶対的な法則であり、相対的な真理ではありません。
そもそも相対的な真理というものは存在せず、立つ立場によって異なる善悪というのも真理とは言えず、どう好意的に見てもそれは方便の善に過ぎない。
主客合一の法則とは絶対の法則であり、不変です。
永遠に変わらないということです
世界の構造と仕組みが主客合一の法則によって創造されているという事実を知っていれば、カントが言うように主観が客観を可能にするわけですから、客観の世界を良化するには自己の「心」を磨くしかない事実が理解できるはずです。
人間の「心」は、神の心によってしか進化することはないわけですから、全世界を良化することができる存在とは神の心しかないということです。
相対的な自我で当の自我を進化させることはできないのです。
相対的な自我を強化して生きれば、生きるほど、相対的な物質の方面の支配を受け、「地」に向かって腐敗していくだけです。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
この天地一体の理法も絶対の理法です。
過去の世界も天地一体であったし、現在の世界も天地一体であるし、未来の世界も神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
過去・現在・未来を超えているということは、時間を超えている永遠の法則であるということです。
あの世でも同じです。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
地獄界とは、神の造った世界ではありませんが、この絶対の理法である天地一体の理法に反し、神の体を「天」に置き、神の心を「地」に置いているがゆえに神の光が射さず、神の心に叶っていない世界のために苦しみの世界となっています。
全人類はみなそうですが、宗教宗派の如何に拘わらず、神の心に叶っていれば天国で幸福となり、神の心に叶っていなければ、その分地獄にて反省行を積むことになっています。
人はみな神の心によって天国に帰天したり、地獄に堕ちたりしているのです。
これが神が全人類を支配している証明です。
永遠に神の心が「天」に置かれているということは、神は大宇宙を通して人類に神の心に向かえ、永遠に「天」に向かえと教えている。
正義を「天」に置き、利益と国益を「地」に置け。
神我を「天」に置き、自我を「地」に置け。
幸福を「天」に置き、快楽を「地」に置け。
統一を「天」に置き、矛盾を「地」に置け。
良心を「天」に置き、恣意を「地」に置け。
精神を「天」に置き、物質を「地」に置け。
絶対的なものを「天」に置き、相対的なものを「地」に置け。
神の心を「天」に置き、神の体を「地」に置けと大宇宙を通して永遠に教えています。
この通り生きられましたら、眼前の大宇宙の構造や仕組みと自己が一致する「宇宙即我」の生き方となります。
そして全世界は良化していくでしょう。
ところが実際の世界は、これと逆であり、神の体を「天」に置き、神の心を「地」に置いているわけです。
これは地獄界と同じであり、悪霊や悪魔は神の体に支配されておりますので、神の体を今の人類と同様「天」に置いています。
そして地獄界と同様、腐っている。
人類が神への正当な信仰に覚醒するまで腐敗は続いていくでしょう。
腐るべくして腐っているわけです。
水素と酸素を混ぜれば水ができますように、神の体を「天」に置けば、必然的に腐るべくして腐るのです。
精神が「天」であり、物質は「地」で、永遠に天地一体であり、これも永遠に不変です。
変わらないのです。
神への信仰なき人間は、相対的な自我のままに生きておりますので、同じく相対的な物質の方面の支配を必然的に受けるのです。
神我と良心を強化すれば、神の心の方面の支配を受け、神の属性のままに生きる人間となり、全世界を良化していきますが、相対的な自我を強化すれば、相対的な物質の方面と同通し、物質に支配され、物質の属性のままに生きて世界腐敗の因となります。
そして物質という「地」に向かい腐るべくして腐るのです。
では人類は何故、物質に支配されたのか?
神への信仰を失ったからです。
ただそれだけのことで全世界は腐敗し、戦争と暴力、人種差別と児童虐待、犯罪と不信、地獄界の人口増加と生物の絶滅、気候変動と飢餓の世界で苦しむことになったのです。
人類が神への信仰を失えば、まさに自動的に世界は腐り、最後は崩壊するように世界は創造されているのです。
世界の構造と仕組みが永遠にそうなっているのです。
自己の心が物質に支配された瞬間、人は物質の奴隷となり、その大切な人間の「心」を同時に失っていきます。
神の心を失えば、人は自己の「心」をも失っていくのです。
「心」を失った文明とは、現代の文明が実証中です。
神への信仰とは、人間の「心」を取り戻す行為なのです。
世界は人類が神への信仰を失ったがゆえに腐敗したのです。
次世代の文明では神の存在が中心に置かれます。
次の文明では現代の文明が犯したのと同じ過ちを犯してはならないということです。
この欠陥だらけの文明はリコールされなければならず、次世代の文明では現代文明の致命的な欠陥を修正し、進化した文明を創造していかなければならない。
西田哲学では、哲学の終結とは宗教であると説かれていますが、換言すれば哲学の終結とは神の心です。
哲学は神の心を解明し、科学しているのです。
神の心とは幸福であり、幸福とは主観的なものではなく、最も客観的な心ですから科学していかなければなりません。
幸福を主観的なものと考え、人の数だけの幸福があるという人がおりますが、もう少し悟りと修行が必要です。
真理の道は険しく、遠い。
主観的な幸福などというものは存在しません。
それは自我の感ずる快楽に過ぎず、幸福と快楽をすり替えています。
幸福とはイコール神の心であり、その神の心は共通項として万人に宿っている心ですから最も普遍的で客観的な心です。
幸福の科学は本来、この神の心を科学しようとして設立された団体です。
今は訳のわからん生き神信仰に耽り、当初の初心を忘れておりますが、初めはそうだったのです。
今さら言ってもしようがありませんが、哲学の終結が神の心であるように文明論においても文明の終結とは神の心です。
その文明論が神の存在にまで到達していない文明論であるならば、非常に未熟な思想と言わざるを得ない。
次世代の文明とは、文明の終結である神の心が中心に置かれます。
またそこまで悟りませんと今の地球は救えないということです。
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