全ての善の源とは「神の心」であり、全ての悪の源とは「神の体」です。
全ての悪の源である「神の体」は、全ての善の源である「神の心」の表現体であり、大宇宙は神の一大倫理表現です。
この一大倫理を「真理」と言い、「神の心」と言います。
完全なる神の心とは、大宇宙や自然界、並びに多次元世界に表現されており、人間の書く聖典や書物に書かれてあるのではありません。
大宇宙と多次元世界に直接書かれてあるのです。
大宇宙や自然界に直に書かれてある神の心を読める者を、仏教的には「如来」と言い、キリスト教的には「大天使」と言います。
如来界共通の悟りとは、「宇宙即我」であり、宇宙と我とが合一しているため、宇宙に記載されている神の心の一端を読めるのです。
大宇宙の理法と同通しておりますので、大宇宙や自然界に書かれてある神の心を読めるわけです。
だから如来は神の心が説けるのです。
完全なる内容で読める者は、今後もおりませんが、如来は生涯神の心を読み続け、説き続けるのです。
80年以内で表現できる神の心と言うのは知れており、完全なる神の心というのは、80年で表現できるようなものではないのです。
だからエマソンも「人間を通して出てくる善は、全て神の近似値に過ぎない」と残しているのです。
神ですら大宇宙に表現しておられるのであり、80年しか生きることのない肉体人間に、神の心の全てを表現したり、説いたりすることは不可能なのです。
所詮、人間は神にはなれません。
ただ人間は大宇宙における「永遠の神秘」を一つ一つ解明していくことが「人生の意義」になっています。
神の心というのは「永遠の神秘」として存在しているからです。
「永遠の神秘」を解明することが、神の心を解明するということであり、この「永遠の神秘」の解明によって、人類と文明は、飛躍的な発展を遂げていくことができるのです。
未熟な人類とその文明の発展も、この「永遠の神秘」、いわゆる神の存在に依存しているのです。
「永遠の神秘」に依存せずして、人間は精神的にも、物質的にも、無限に発展していくことはできないのです。
神の心の「永遠の神秘」を解明してきたのが「宗教や哲学」であり、神の体(物質)の「永遠の神秘」を解明してきたのが「科学」です。
どちらも「神の心」と「神の体」、いわゆる「大宇宙の神秘」を解明してきたのです。
大宇宙の存在を神と言いますので、どちらも神の存在を探究してきたわけです。
大宇宙を知ることを、神を知ると言うのであり、真正の自己を知ると言います。
今までも大宇宙に依存して文明を発達させてきたわけですが、今後は意図的、あるいは自覚的に大宇宙に依存しながら文明を創っていくのです。
次世代の文明は、大宇宙と人類が融合した「宇宙即我の文明」です。
大宇宙と人間は、永遠に一体で生きているのであり、双方切り離すことはできません。
人間の表面意識や自我は、その知識・思考・概念・認識・情操、みな相対的な性質しか有しておらず、それは「矛盾」を意味しています。
この相対的な自我の「矛盾」ゆえにキリスト教では、人間を「罪の子」と言ってきたのであり、全ての罪の源である自我を「原罪」と説いてきたのです。
神の心(統一)と人間の心(矛盾)が離れている場合、矛盾しか残らない人間の心は、全ての罪の源である「原罪」となり、全ての言動が「矛盾」から発する「罪の子」になるのです。
神の心と人間の心が離れることを罪と言い、悪と言うからです。
「原罪」や「罪の子」の思想は、神の心と人間の心が離れた「神人分離」から来ておりますので、「神人合一の悟り」を得れば、「原罪」の思想も、「人間・罪の子」の思想も、現象無常でなくなっていきます。
神の心と人間の心が合一し、なおその神の心と合一している人間の心には、「原罪」があり、「罪の子」であるとは言えませんので、神の心と合一すれば、人間は全て「善の存在」となり、「原罪」や「罪の子」の思想はなくなっていくのです。
あくまで「原罪」や「罪の子」の思想は、神の心と人間の心を自我で切り、神の心と離れた人間の心を分析して出てきた思想ですので、自我に比喩した方便の善です。
確かに人間は、神の心と離れることもありますので、方便としては有効ですが、「原罪」や「罪の子」の思想を、あまり強調し過ぎれば、罪があるのだと信じ込み、地獄界がなくならない世界になっていくのです。
地獄界は「なくなる世界」であり、罪の子も「なくなる思想」なのです。
神の創ったものはなくなりませんが、人間の創ったものは全てなくなるのです。
地獄界や罪は、人間の創ったものですので、いずれなくなるのです。
神の心と合一すれば、全ての存在は善になりますので、「原罪」はなくなり、「罪の子」もいなくなり、全員「神の子」になります。
神の心(統一)と人間の心(矛盾)が、神人合一で一体となれば、統一即矛盾の大宇宙の姿に戻りますので、人間を含めた万物は善となります。
神の心によって人間の心の「矛盾」が統一されるため、人間は「善の存在」になるのです。
それは神の体(自然界)の「矛盾」が、神の心によって統一されているのと同じあり、森羅万象は善です。
大宇宙の存在とは、善である : プラトン
神の心と自己の心が離れた時、それを悪と言い、罪と言います。
正法とは、神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけなのです : モーゼ
神人合一が善であり、神人分離が悪なのです。
我々人間が、果たして「善の存在」になるのか、「悪の存在」になるのかは、ひとえに神の存在に依存しています。
神の存在とは、未熟な人類にとって永遠の「善悪の基準」になっているからです。
宇宙即我が善であり、宇宙と我とが離れれば悪になり、その善悪を大宇宙に依存しているのです。
自然即我が善であり、自然と我とが離れれば悪となり、その善悪を自然界に依存しているのです。
多次元世界即我が善であり、多次元世界と我とが離れれば悪となり、地獄に堕ちてしまうわけです。
過去・現在・未来の未熟な人類は、その「善悪の基準」を大宇宙に依存し、自然界に依存し、多次元世界に依存しているのです。
すなわちその「善悪の基準」を、永遠に「神の存在」に依存しているのです。
2000年後の人類であろうが、3000年後の人類であろうが、この「善悪の基準」は不変であり、宇宙と我が合一すれば善なのであり、宇宙と我が離れれば悪になるのです。
大宇宙や自然界、並びに多次元世界そのものを神と言いますので、未熟な人類は、未来永劫その「善悪の基準」を神の存在に依存していると言えます。
人間が、果たして「善の存在」になるのか、「悪の存在」になるのかは、ひとえに神の心との合一如何にかかっています。
この神の心が「信仰の自由」のはずはなく、神とは信じようが、信じまいが、個人の自由のわけないのです。
神との合一に失敗し、「悪の存在」となり、地獄に堕ちていくのは、いつでも人間のほうなのです。
神との合一に成功して地獄に堕ちる人はいません。
一人も地獄に堕ちることなき地上天国の建設とは、神の存在を無視したり、否定してできる世界ではないのです。
人類80億人を一人残らず救い、その幸福を実現し、未熟な人間を全て「善の存在」にしてくれるのは、神の存在だけなのです。
諸神霊によれば、現代人の60%以上が地獄に堕ちているそうですが、ならばその現実をどう変えるのかを提言する必要があるのです。
60%以上と言えば、ここに人が10人いれば、4人も天国に帰天できない非常に危険な世界です。
この不幸な現実をどう変えるのか。
どうすればこの不幸な現実に歯止めをかけ、食い止めることができるのか。
そもそも人類の中に80億人全てを救う能力をもった人物が存在するのか。
答えは「否」であり、人間の中に人類の全てを救えるような人間は存在しないのです。
人間の相対的な自我は、「矛盾」しか創ることはできず、人類の統一者ではないからです。
所詮、人間は神にはなれず、宇宙の統一者にはなり得ません。
人間であろうが、人格神であろうが、所詮、大魔王即大如来としての神にはなれないのです。
もし人類の6割以上の地獄堕ちを回避し、その現実を変えることができるとすれば、この大宇宙の統一者だけなのです。
自分の心の中心にも神の心はあり、他人の心の中心にも全く同じ神の心があります。
80億人の個性は、みな異なりますが、その心の中心には全く同じ神の心が存在しています。
つまり我々人類80億人を永遠に統一しているのは、「神の心」なのです。
悪魔とて、かつてはみな天国にいたわけですから、その心の中心に神の心はあるのです。
大魔王の心の中心にも神の心はあり、大如来の心の中心にも全く同じ神の心があります。
この同じ神の心を見性した時、大魔王即大如来としての神の存在が浮上してくるのです。
この「神」が全てを救うのです。
人類の中に60%以上地獄に堕ちる現実を変えることのできる人間はおらず、人類80億人を救い、幸福にできる人間も存在しません。
もしそういう人物がいるとするならば、名乗りを上げればいいわけであり、残念ですが、人間の中にそういった能力のある人間は存在しないのです。
それは神のみができることだからです。
人間にはできないのです。
人間にはできないということは、神の存在を否定すれば、人類80億人一人残らずを救うことはできず、人類80億人一人残らずの幸福を実現することはできず、6割以上が地獄に堕ちる現実を変えてくれる存在もいなくなるということです。
逆から言えば、神のみが人類80億人一人残らずを救い、人類80億人一人残らずを幸福にし、6割以上が地獄に堕ちる現実を変えることができるのです。
神の存在が、人類にとって「永遠の希望」になっているゆえんなのです。
神の心を「天」に置き、人類がこれと融合すれば、地獄に堕ちる人間の比率は「0%」になりますが、現代の文明のように神の体(利益と快楽)を「天」に置き、人類がこれと融合すれば、地獄に堕ちる人間の比率は「60%以上」になるのです。
どちらが賢明な判断かは言うまでもありません。
安易に神の存在を否定する人がおりますけれども、ならば人類の救済と幸福は、どうすれば現実化するのか、そのビジョンを示すべきなのです。
神の体(利益と快楽)を「天」に置いた世界では、矛盾を「天」に置いておりますので、悪が無限に現象化してくるため、多くが地獄に堕ちていくのです。
この不幸な現実を変えるためには、矛盾(神の体)を「天」に置いた世界から、統一(神の心)を「天」に置いた世界に変えるしかないのです。
人類の中に人類全体を救済したり、幸福にできる存在はいないわけですから、それができる神の存在を中心にもってくる以外に道はないのです。
大魔王即大如来としての神は、大魔王と大如来の矛盾を統一し、天国と地獄の矛盾も永遠に統一しておられるわけですから、もし人類80億人を救ったり、幸福にできる存在がいるとすれば、この神の心しかないのです。
個々人の心の中心に神の心が存在しておりますように、世界の中心にも神の心を存在させなければなりません。
今の世界はその中心に神の心ではなく、神の体(利益と快楽)が存在しているのです。
主観と客観が分離しているのです。
過去・現在・未来の人類の心(主観)の中心には、永遠に神の心が存在しており、その中心から人類の心を統一しています。
実際、大宇宙や自然界もその中心には神の心が存在しており、永遠に神の心が「天」置かれているのです。
我々の創る文明の中だけ神の体が「天」に置かれ、その客観の世界の中心に存在しているのです。
神の体を「天」に置けば、神の心(天)と人間の心(地)が天地分離し、不幸の原理の中に放り込まれるのです。
神の心が「天」であり、人間の心が「地」で、永遠に天地一体になった時、一人も地獄に堕ちることなき地上天国が創られます。
地上天国の建設では、人間の心と同様、世界の中心に神の心を置くしかありません。
人間の心の中心には、永遠に神の心が置かれています。
「主観の中心」にも神の心が置かれており、「客観の世界(宇宙や自然界)の中心」にも神の心が置かれているのです。
人間の創る特殊な文明だけが、その世界の中心に神の体を置いているのです。
全人類を救い、全人類の幸福を実現し、6割以上地獄に堕ちている不幸な現実を変えることのできる者は、人類の中には存在しないわけですから、それができる神の心を信ずるのは使命であり、義務なのです。
大宇宙や自然界、並びに多次元世界のことを神と言いますので、未熟な人類にとって永遠に「善悪の基準」となっているのは、この大宇宙であり、多次元世界であり、神の存在なのです。
過去・現在・未来の全人類にとってその永遠の「善悪の基準」になっている存在が、全人類一人残らずを救い、全人類一人残らずを幸福にし、6割以上地獄に堕ちている不幸な現実を変えることができるのです。
これは如来であろうが、大如来であろうが、人間にできる芸当ではないのです。
大魔王即大如来としての「神の存在」のみが可能なのです。
人類の中に当の人類を救済できる人間はおらず、幸福にできる人間もいないわけですから、人類が真に人類の幸福と救済を願い、望むのならば、選択の余地なく、神の心を信ずるしかないということです。
一人残らずの人類救済も、一人残らずの人類の幸福も、大魔王即大如来としての神には実現可能であるということです。
この真の統一者とは、大宇宙のゴッドでもありますので、次世代の文明は、真の統一者である大宇宙と人類が融合した「宇宙即我の文明」になるということです。
「宇宙即我の文明」の建設とは、地上天国の建設なのです。
大宇宙と融合して地獄に堕ちる人は一人もいません。
一人も地獄に堕ちることなき地上天国の建設とは、この「宇宙即我の文明」の建設のことです。
次世代の文明は、神と人類との新たな関係構築と融合の時代に入ります。
神が我々未熟な人類を幸福にして下さるでしょう。
























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