真理関係

宇宙即我の文明 6

古代インドのヴェーダ(ウパニシャッド)の究極の悟りとは、「梵我一如」です。

宇宙を支配する真理と個人を支配する真理とは同一であり、宇宙の根本原理の「梵」と人間の神我である「我」とは一如、すなわち同一であるとする悟りです。

西田哲学でもこの「梵我一如」の悟りが最深の悟りとして説かれています。

西田博士は1945年にご逝去されており、あの時代ではまだ「宇宙即我」という言葉は、あまり有名ではありませんでした。

「宇宙即我」の悟りは、GLAの高橋信次氏で有名になったのです。

「梵我一如」の悟りとは、この「宇宙即我」の悟りと同じです。

「梵(宇宙を支配する原理)」と「我(個人を支配する原理)」は同じであり、西田哲学でも「ブラフマン(梵)」と「アートマン(我)」は一つであると残されています。

大宇宙を支配する原理は不滅なわけであり、その不滅の宇宙原理と個人を支配する原理が同一ならば、個人もまた不滅となり、大宇宙と同様、人間も永遠に生きていくことになります。

大宇宙は不滅であるが、人間は不滅ではないとすれば、梵我一如の悟りにはならず、「梵」と「我」とが離れていることになるのです。

大宇宙の存在のことを神と言いますので、「宇宙即我」の悟りから言っても、神が不滅ならば、人間も不滅ということになります。

不滅でなければ、人間の「人生の意義」を説明できず、「ない」ことになるのです。

人間の「心」が死後「無」になり、滅するのであれば、その「心」の中心に存在する神の心も「無」になりますので、完全なる神の心を悟るという「人生の意義」は存在しないことになります。

たとえ神の心を人間が悟ったとしても、その悟った「心」は、死と共に「無」となりますので、その「心」の存在意義も「無」となり、「ない」ことになるのです。

つまり「永遠」が存在しなければ、人間の存在意義は説明できないのです。

その「永遠」を実証している世界が、いわゆる潜在意識に存在する「あの世」と言われる世界であり、あの世の世界が存在しなければ、「永遠」も存在しないわけですから、人間の「人生の意義」も存在しないのです。

あくまでこの世において人間の存在意義を認めるのであれば、「永遠の世界」、いわゆるあの世の世界は認めなければなりません。

「永遠の世界」が存在して、初めて完全なる神の心を悟るという人間の「人生の意義」が成り立つのです。

そして完全なる神の心を悟るという「人生の意義」が成り立つとすれば、それは如何なる個人であれ、永遠に進化・向上していくことができるという事実を意味しておりますので、人類の全ての不幸の原因となっている人類各人の「未熟」は全て消滅し、人類は悟りを通して無限に幸福を実現していくことができるということです。

これが日蓮の言っていた「悟りという名の幸福」です。

悟りのないところに「未熟」があり、その人類各人の「未熟」が、全ての不幸を生んでいるということです。

ならば悟りのあるところに「成熟」があり、その人類各人の「成熟」が、全ての幸福を生んでいくということです。

悟りなくして光なし、悟りなくして成熟なし、悟りなくして幸福なし、悟りなくして神の心なしです。

悟りあるところに光あり、悟りあるところに成熟あり、悟りあるところに幸福あり、悟りあるところに神の心ありということです。

悟りあるところに真理あり、神の心あるところに幸福ありです。

人類を幸福にできるのは、人類自身ではなく、永遠に神の心なのです。

人類の幸福とは、神の心のことを言いますので、未熟な人間が幸福を実現していくには、神の心を悟るしかありません。

神の心を悟ることなく、人類は幸福にはなれないのです。

神の心を否定しますと人間には矛盾しか残らないからです。

その矛盾によって人類が幸福になることはないのです。

統一が「天」であり、矛盾が「地」で、永遠に天地一体の世界です。

「地」によって人類が幸福になることはありません。

神の心(統一)が「天」であり、人間の心(矛盾)が「地」で、永遠に天地一体です。

「天地一体の悟り」とは、大宇宙(天)と人間(地)が一体となった「宇宙即我の悟り」と同じなのです。

人類の幸福の原理とは、この「宇宙即我の原理」であり、「天地一体の原理」です。

だから「宇宙即我の悟り」とは、宗教的には究極の悟りと言われてきたのです。

ヴェーダ(ウパニシャッド)でも、この「梵我一如」の悟りが、究極の悟りとして説かれてきました。

これはあの世の多次元世界でも普遍妥当しているのであり、最高霊域如来界の共通の悟りとは、この「宇宙即我」の悟りなのです。

自己の心を究極レベルまで悟れば、誰であろうが、そこに全く同じ「大宇宙の存在」を見ると言うことです。

それぞれ個性の異なる80億人の「心」は、この「大宇宙の存在」が支配しており、たとえ個性が異なろうとも、自己の「心」を究極まで悟っていけば、必ずこの「大宇宙の存在」に到達するということです。

逆から言えば、自己の「心」を悟っていきながら、この「大宇宙の存在」にまで未だ到達していなければ、その悟りは、まだまだ未熟であることを意味しているのです。

「大宇宙の存在」のことを神と言いますので、みずからの「心」を悟っていけば、最後は必ず大宇宙に到達するということです。

神の心とは、山の如しであり、西から登ろうが、東から登ろうが、頂上は同じであり、「大宇宙の存在」になっています。

どこの方角から登ろうとも、頂上には同じ「大宇宙の存在」があり、神が全てを統一しておられるのです。

如何なる個性を持っていようが、その山の頂上には神の存在があり、大宇宙が君臨しているということです。

一見すれば、80億人の個性は、それぞれ異なり、自他の個性は「矛盾」しているように見えるわけですが、その個性を悟りを通して極めていけば、みな同じ「大宇宙の存在」に行き着くということは、人類80億人の個性を永遠に統一している存在とは、神の心であるということです。

神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎

自分の心の中にも「神の心」はあり、他人の心の中にも全く同じ「神の心」があります。

「神の心」を見性すれば、自他一体です。

逆から言えば、その自他の心が「神の心」にまで到達していなければ、自他一体ではなく、自他の分離となり、その分離が対立を生み、矛盾を生み、確執を生み、差別や虐待、暴力や争いを無限に生産していくことになります。

対立や矛盾のないところに確執はなく、差別や虐待もなく、暴力や戦争もないのです。

神とは全ての矛盾を永遠に統一している「永遠の統一者」です。

一人一人が「神の心」を悟らなければ、世界平和も暴力のない世界も決してあらわれないのはこれが理由です。

ソクラテスが残しておられるように「汝自身を知り」、「神の心」を悟って自他一体の境地を目指さなければ、自他は分離したままとなり、この分離が対立と矛盾を生み出すがゆえに、差別や暴力がなくならなくなるのです。

神への信仰を失った世界とは、「高くつく」のです。

「永遠の統一者」を失った世界には、矛盾しか存在しないからです。

大魔王の心の中にも「神の心」はあり、大如来の心の中にも全く同じ「神の心」があるということは、この「神の心」を否定すれば、大魔王即大如来とはならず、大魔王と大如来の矛盾は永遠なるものとなり、そこには「永遠の対立」が生まれるのです。

「永遠の対立」は、永遠の闘争と破壊、そして戦争と暴力を生むために、神なき世界は「高くつく」のです。

今回の「救世の法」の中心とは、この「大魔王即大如来としての神」の絶対的権威の確立であり、全ての矛盾を統一している自他一体としての神の存在です。

換言すれば、大宇宙の絶対的権威の確立、人間精神の本質の客観化、神の存在の永遠化です。

「宇宙即我の原理」が、人類の幸福の原理ですので、大宇宙の存在なくして人類は幸福にはなれないのです。

大宇宙の存在のことを神と言いますので、人類の幸福を実現してくれるのは大宇宙、すなわち神なのです。

神の存在なくして人類の幸福はないと言う不変の事実を知っていれば、無神論はないのです。

それでも無神論が横行するならば、今の人類は幸福の原理を知らないのです。

自分達を幸福にしてくれる存在を知らないということです。

知っていれば、無神論はなく、「信仰の自由」もないのです。

神が人類を幸福にしたいと思っておられるのは、神の心が永遠に「天」に置かれている大宇宙や自然界を見れば明らかなのです。

神も人類を幸福にしたいと思い、未熟な人類のほうも幸福になりたいと思っています。

ならば神への信仰は自由ではなく、義務なのです。

従来の方便の宗教では、神への信仰とは自由であると思われているようですが、神への信仰とは、本来自由ではなく、義務なのです。

神の心とは、自己の心の本質であり、正体ですので、これを悟ることは永遠の義務になっているためです。

大魔王即大如来としての神の心を悟らず、自他一体を悟れなければ、そこには対立と矛盾しか存在しないのです。

それは一人残らずの人類救済もなければ、人類の幸福もない絶望的な世界なのです。

それはまさに「絶望の世界」でしかないのです。

神の心が「永遠の希望」になっているのは、神の心とは未熟な人間が創り上げる全ての矛盾と対立を永遠に統一しておられるからです。

大魔王と大如来の矛盾を統一し、自分と他人の矛盾を統一し、自国と他国の矛盾を全て永遠に統一しているからです。

統一のあるところに対立はなく、対立のないところに争いや暴力、あるいは戦争はないのです。

戦争や暴力のあるところには、必ずこの対立と矛盾があるのです。

神の存在を否定すれば、この矛盾は矛盾のままであり、対立は対立のままであり、そこには平和もなければ、救済もないのです。

この神の心が「信仰の自由」のわけありません。

「信仰の自由」を主張される方は、神の心を知らない方なのです。

神の存在を安易に否定する方がおられますけれども、ならば神の心に代わって、自分と他人の個性の矛盾を統一している存在、あるいは大魔王と大如来の矛盾を統一している存在、並びに自国と他国の矛盾と対立を永遠に統一している存在を提示しなければならないのです。

この存在を提示できなければ、人類は永遠に矛盾と対立の世界に放り込まれ、闘争と破壊の世界を生きていくしかなくなるからです。

それは絶望と不幸な世界でしかないのです。

天国と地獄の「矛盾」を永遠に「統一」している存在が、人類の希望であり、人類の幸福を実現してくれる存在なのです。

これを神の心と言うのです。

人間は誰であろうが、善を悟っていけば、7次元神界となり、8次元菩薩界となり、9次元如来界となり、最終到達地点の悟りは「大宇宙の存在」、すなわち神の心に到達します。

個性の異なる存在が、全く同じ「大宇宙の存在」をそこに見るのです。

霊的に進化していけば、そこに全く同じ「大宇宙の存在」を見るのは、「大宇宙の存在」のことを神と言うからです。

次世代の文明とは、「宇宙即我の文明」であり、「天地一体の文明」です。

これは神の心(大宇宙の心)と人類の心が合一した「神人合一の文明」なのです。

今の古い文明の特徴とは、宇宙と人類が分かれ、天(神の心)と地(人間の心)が分かれている「神人分離の文明」なのです。

神の心と人類の心が離れているから、60%以上も地獄に堕ちるかのような不幸な文明の中に生きているのです。

現代文明と同じ間違いを犯さないためには、神への信仰に覚醒し、神の心と人間の心が合一していく「神人合一の文明」を建設していくしかありません。

神の心と合一して地獄に堕ちる人はいないのです。

地獄に堕ちる人がいないとは、そこに不幸はないのです。

これが神への信仰が人類を救い、人類の幸福を実現していくという意味です。

いずれにしろ、今の不幸な人類は「宇宙即我の文明」を建設していくしか選択肢はありません。

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