真理関係

レザレクション 3

幸福と快楽は似て非なるものである : 西田幾多郎

「悟り」を偽っている人間の「普遍的な特徴」とは、この「幸福」と「快楽」をすり替え、「真理」と「現象利益」をすり替えている点です。

神の創られた正しき世界は、幸福が「天」であり、快楽が「地」で、永遠に天地一体です。

つまり「幸福即快楽」の世界なのです。

真理が「天」であり、現象利益が「地」で、永遠に天地一体です。

つまり「真理即現象利益」の世界なのです。

神我が「天」であり、自我が「地」で、永遠に天地一体です。

つまり「神我即自我」の世界なのです。

神の心(統一)が「天」であり、神の体(矛盾)が「地」で、永遠に天地一体です。

つまり「神の心即神の体」の世界であり、統一即矛盾の世界です。

「悟り」を偽っている者は、この「天地」を「紙一重」ですり替えるのです。

「天」と「地」の「矛盾」を「統一」している領域に「神の心」はあるわけですが、「天」と「地」の左右の「矛盾」の左右に偏り、この「統一」に入れず、「矛盾」に入ってしまうのです。

すなわち「地」である相対的な自我を「天」に置いて「生き神信仰」に走ったり、「地」である現象利益を「天」に置いて「宗教ビジネス」を始めるのです。

あるいは「地」である「快楽」を「天」に置き、「幸福」を「地」に置いたりします。

これが「悟り」を偽っている人間の特徴です。

快楽を「天」に置いておりますので、「善悪の標準」が自己の「快不快」となっており、自分にとって「不快な言動」をとる者に対しては、情け容赦なく「首」、「破門」、「追放」、「左遷」、「粛清の嵐」となり、周りの人間もまた全て自己の「利益と快楽」に奉仕させようとするのです。

あの世の世界観も「快不快」の「歪んだ世界観」となり、「天国」を「快楽の世界」と認識し、「地獄界」を「不快な世界」として認識していくのです。

「天国」を「快楽の世界」と認識しておりますので、「利益と快楽」をむさぼる行為とは、「天国」に帰天する行為となり、「不快な世界」を避けるとは、「地獄堕ち」を避ける行為と誤認していくのです。

そして「快楽」をとって「不快」を避け、「利益」をとって「不利益」を避ける人間となり、西田哲学が非難する「人性にもとる」人間が創られていくのです。

そしてひたすら「利益と快楽」をむさぼっていく「エゴイスト」になり、本人はそれが「天国への切符」であると勘違いしていくのです。

「天国」を「快楽の世界」と見ているためです。

これは明らかに悟りを偽っている者の世界観です。

真理と現象利益を「紙一重」ですり替え、幸福と快楽を「紙一重」ですり替えますと、如何なる「善人」であろうが、「利益と快楽」をむさぼる「エゴイスト」になり、「悪人」に変わっていくのです。

神の創られた世界は、永遠に「真理即現象利益の世界」であり、「幸福即快楽の世界」ですが、この「即の中道」を外れ、まさに「紙一重」で「善人」が「悪人」になっていくのです。

自我の強い偏った人間は、必ず右の相対的な「現象利益」に偏り、「快楽」に偏り、「即の中道」に入れないため、「善人」にはなれず、「悪人」となり、世界腐敗の温床になるのです。

「神の心」を悟るとは、この「即の中道」の「紙一重」を悟ることを言います。

「悟り」とは、「紙一重」なのです。

この「紙一重」を悟っていない者は、いずれ相対的な自我の求める「利益と快楽」の方面に偏っていき、道を逸れていくのです。

そして「神の光」を失い、「魔」の介入を許し、みずからの魂をも滅ぼしていくのです。

「神の体」(利益と快楽)によって「善人」が創られることはないという「典型の事例」です。

「善人」と言うのは、「神の心」によって創るものなのです。

全ての「善」は、「神の心」から来るからであり、「神の心」を「天」に置けない人間は「善人」にはなれないのです。

「天国」と「地獄」の世界観を、表面的で観念的に捉えやすいもの、いわゆる「浅薄」に捉えていきますと、「善人」ではなく、「悪人」ができるのです。

「天国」と「地獄」の世界観を「軽薄」に捉え、「浅薄」に認識していきますと、非常に危険な世界観となり、危ない人間になっていくのです。

浅薄さこそ至高の悪徳である。

自覚されたことは、全て正しい : オスカー・ワイルド

ワイルドは「善」を「善」として「自覚」し、「悪」を「悪」として「自覚」することは「全て正しい」と述べており、その「善悪の正しい自覚」を誤認させていくものが「浅薄さ」であると言っています。

「神の体」(物質)から世界を見ていきますと、そこにある「世界」を「正しく認識」していくことができなくなるのです。

神の創られた正しき世界と「真逆の世界」となり、事実、今の世界も「神の正しき世界」と「真逆の世界」になっています。

これは人類の多くが、神の創られた世界を「神の体」(物質)の方面から見ていることを意味します。

物質(利益と快楽)の方面から自己の住んでいる世界を見ているわけですから、これも人類各人の「未熟」と「悟り不足」を示しています。

この人類各人の「未熟」と「悟り不足」が「人類の不幸」の「全ての原因」なのです。

神の創られた世界は、「真理即現象利益」の世界であり、「幸福即快楽」の世界ですので、確かに「天国」には「快楽的側面」はありますが、その「天国の快楽」とは、この世と同様、「幸福の結果」に過ぎません。

「地獄界の不快」も、この世と同様、「不幸の結果」に過ぎないのです。

その人間の心が、「神の心」(幸福)に叶った時、これを「原因」として「結果」、「天国の快楽」を感じるのです。

その人間の心が、「神の心」(幸福)に叶っていない時、これを「原因」として「結果」、「地獄の不快」を感じるのです。

「天国の快楽」と「地獄の不快」は共に「結果」(物質)に過ぎません。

「天国」を「快楽の世界」と認識し、「地獄界」を「不快な世界」と認識していくのは、「結果主義」に陥っているということです。

物質宇宙は神の表現「結果」ですので、「結果主義」は「物質の属性」ですから、これも「悟りの未熟」を示しているものです。

神の創られた「幸福即快楽」の世界を軽薄に捉えていけば、「紙一重」で「快楽」(矛盾)を「天」に置き、「快不快」(矛盾)の「魔境」を彷徨うことになるのです。

そしていずれ「魔」に蹂躙されていきます。

この「幸福」と「快楽」を「紙一重」ですり替えてしまうのは、「自我の偏り」が原因です。

自我で偏っているということは、「神の心」と合一していないことを意味します。

「神の心」と「本人の心」がズレているのです。

相対的な自我を強化すれば、同じく相対的な物質(神の体)の方面と「心」が同通しますので、「物質の属性」である相対的な「利益と快楽」を求めるようになり、「利益と快楽」を「天」に置いて「魔境の扉」を開き、「パンドラ・ボックス」を開放してしまうのです。

あらゆる悪業と災いが解き放たれ、人類の心は「無限の厄災」に見舞われることになり、「60%以上」もの人達が地獄に堕ちていくような「不幸な世界」で暮らすことになるのです。

相対的な自我と相対的な物質は、共に「矛盾」を意味しており、この「矛盾」から次に「対立」が生まれ、その「無限の対立」から「悪」が無限に開放されていくのです。

相対的な自我を強めれば、同じく相対的な「利益と快楽」を求めるようになり、あの世の「天国」と「地獄」の世界ですら「利益と不利益」、あるいは「快楽と不快」で見ていくようになり、道を逸れていくのです。

あくまで「利益と快楽」の見地から人類と世界、あるいは「天国」と「地獄」の世界を見ようとするならば、それは神によって永遠に「地」と定められている「方位」ですので、個人であろうが、人類全体であろうが、必ず「地」に向かって「転落」していくことになります。

悪化を続けていくということです。

「天」に向かえば、良くなり、「地」に向かえば、悪くなるのです。

「神の心」とは、ただこれだけの話なのです。

この神の定めた「天地の方位」は「絶対」であり、人類のうち誰一人抗うことはできません。

人類が一丸となって「利益と快楽」を拝み、これを増やすことによって「幸福」になろうとする、その「人間の意向」が世界に現実化することはなく、「それは間違っている」という「神の意向」のほうが優先的に現実化してくるため、人類と世界は「地」に向かって悪化を続けるのです。

我々の暮らすこの世界は、神の創られた正しき世界ですので、「人間の意向」が現実化してくることはなく、常にこの世界を創られた「神の意向」のほうが現実化してくるのです。

宇宙や自然界は、神の創った世界であり、人間の創った世界ではありませんので、この世界に「人間の意向」が現実化してくることはありません。

「神の意向」のほうが優先的に現実化してくるのは、この世界は神の創られた世界だからです。

「人間の意向」を現実化しようとすれば、するほど、「神の意向」のほうが現実化してくるため、人類と世界は悪化を続けるのです。

あくまで「自己の意向」を優先的に現実化しようとした「大救世主」は、この「神の意向」によって死ぬまで悪化を続けたのです。

「神の意向」は「絶対」なのです。

人間が「天」を「地」にしたり、「地」を「天」にすることはできないのです。

「天地の方位」は「絶対」であり、たとえ人類が一丸となろうが、抗うことはできません。

人類が一丸となってGDPを増加させて「幸福」になろうとする、その「人間の意向」が世界に現実化してくることはなく、「それは間違っている」と言う「神の意向」のほうが優先的に現実化してくるため、今の人類と世界は、神への信仰に覚醒しない限り、今後も悪化を続けていくのです。

神の定めた「天地の方位」は「絶対」だからです。

誰も抗うことはできないのです。

この点、人間ではどうしようもありません。

我々の暮らす世界は、「こりゃ、もう神さまには叶わん」と言う世界なのです。

神の創られた世界では、幸福が「天」であり、快楽が「地」で、永遠に天地一体です。

真理(神の心)が「天」であり、現象利益(神の体)が「地」で、永遠に天地一体です。

過去・現在・未来を通して、この世界の構造と仕組みを変えることのできる人間は存在しないのです。

誰も変えることができないのです。

それを「人間の意向」を現実化しようとして、神が永遠に「地」と定めている「神の体」(利益と快楽)を「天」に置いているため、今後も「神の意向」によって人類と世界は悪化を続けていくことになるのです。

この「悪化」を食い止めるには、「神の体」を「天」に置いた世界を「悔い改め(メタノイア)」、宇宙や自然界と同様、「神の心」を「天」に置くしかありません。

悔い改めよ、神の国は近づけり : マタイ3-2

大宇宙や自然界では、永遠に「神の心」が「天」に置かれておりますので、人類のほうが信仰に覚醒し、「神の心」を「天」に置くようになりましたら、その時「大宇宙」と「文明」が融合し、「自然界」と「文明」が合一する「宇宙即我の文明」が建設されるのです。

「宇宙即我の文明」となれば、その人類と合一している「大宇宙」が全人類を良化し、繁栄に導いて下さるでしょう。

世を救う「救世」とは、人間が行うものではなく、神ご自身が行うものなのです。

従って「真の救世主」とは、人間ではなく、「大宇宙の存在」であり、「自然界の存在」であり、「多次元世界の存在」、すなわち神の創られた世界のことを言うのです。

人間の救世主は、好意的に見ても、結果に比喩した救世主であり、「方便の救世主」です。

世を救う「真の救世主」とは、眼前の「大宇宙の存在」です。

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