宗教において教祖の「慢心」は致命的です。
「慢心」、あるいは「傲慢」とも言いますが、「慢心」とは相対的なものを絶対化することです。
利益という相対的なもの、国益という相対的なもの、自我という相対的なものを絶対化すること、これを神への慢心、あるいは神への傲慢と言います。
経済的には「利益」という相対的なものを絶対化しており、政治的には「国益」という相対的なものを絶対化しておりますが、これが宗教的には自我という相対的なものを絶対化する生き神信仰を、神への傲慢と言います。
全世界的規模で神への傲慢に耽っておりますので、この世界は一旦は崩壊する可能性が極めて高い。
かつての文明もすべてこの神への傲慢によって滅び去ってきたからです。
これを神の意図通り、全世界的規模で戻さなければならなかった事業が、救世事業であったわけですが、幸福の科学があれではどうしようもない。
自我は知識・思考・概念・認識・情操、すべて相対的です。
過去・現在・未来を問わず、すべての地上人間はそう造られているのです。
この相対的な自我を絶対化すれば、それが生き神信仰となり、神への慢心となります。
先生と呼ばれたら、すぐ先生になってござる。
救世主と呼ばれたら、すぐ救世主になってござる。
ほとほと困ったもんであるぞ、と。
慢心した教祖は、自我が絶対化されておりますので、神の心の方面ではなく、神の体(物質・利益)の方面の支配を受けます。
自我の相対性と物質の相対性がリンクするわけです。
同通していくのです。
すると神の体、いわゆる物質の属性を諸々に生命にプリンティングし、物質の属性に基づいた思想と行動を取ります。
物質の属性とは「利益」であり、生命が信仰と悟りによって進化・向上した時、これを原因として結果あらわれる現象を「利益」と言いますから、慢心した教祖は、物質の支配を受けておりますので、この「利益」を最上位に置いた宗教ビジネスを始めます。
また地上において物質とは、要は人間の弱みを意味する「弱性」の属性を有しておりますので、自我が絶対化されている慢心した教祖は、この物質の属性の通り、人の弱みに付け込むという思想と行動を取ります。
アメリカ人に多い弱い者いじめもこの性質からきています。
要は傲慢だということです。
また物質の属性には、結果主義があり、結果(物質)を目的とするノルマや魔認定といった思想と行動を取ります。
宗教ではよくありますが、人を悪魔呼ばわりしたり、手かざしで除霊ばかりしたり、結果として発現する超能力を目的としたり、これらすべて神の体を拝んでいる「偶像崇拝」であり、結果主義です。
結果ですから原因があるわけです。
事実、結果として悪霊に憑依されている人はおりますので、その結果そのままを見て魔認定をしたりします。
憑依は結果であり、原因ではありません。
原因は心が神の法を知らず、悟らず、反省もなく、ダラダラと悪を生命から出している、これが憑依の原因ですから、生命から善を出していれば、悪霊の憑依は受けません。
生命から正義と善、神の心をきっちりと常時出して、生命が発光していれば、悪霊や悪魔、あるいは化け猫であろうが、地獄狐であろうが、アナコンダの大蛇であろうが、その者に憑依することはできません。
その生命を神の善に導くことを宗教的指導と言います。
にも拘らず、慢心した教祖は、自我が絶対化されており、神の体の方面の支配を受けておりますから、この物質の属性のまま憑依の結果を目的として魔認定や悪魔呼ばわりをするようになる。
あるいは憑依されている人に対して手かざしで悪霊を取ろうとしたり、その悪霊を取る超能力を身につけようとします。
これらすべて物質を拝んでいる「偶像崇拝」に相当します。
生命が神の善についておらず、悟っておらず、反省もしていない者の悪霊を取っても意味はないし、その悪霊をぶっ飛ばす超能力を得ても意味はない。
悪霊を呼び込むには、呼び込むだけの本人の心の汚れが、みずから悪霊を呼び込んでいるわけですから、悪霊を取るには、悟るか反省する以外には取れません。
悟りも反省も自力です。
誰も代わってしてくれないのです。
悟りもなく、反省もない者の悪霊を取っている愚か者がおりますが、イエスでも除霊などはできはしない。
聖書で記載されている除霊は、あくまで一時的に神の光で悪霊を払っているだけであり、食べ物にたかっているハエを一時的に手で払っているに過ぎず、心の匂いが訂正されていない限り、またハエ(悪霊)はいくらでも寄ってくるのです。
心が善によって根本から訂正され、みずから発光しなければ、イエスでも除霊などはできるものではない。
みずからの心を発光させるには、神の心を悟るか神の心に照らして反省するか、どちらかを実践するしかない。
悟りと反省は自力であり、超能力や他力、あるいは手かざしで悪霊などは取れるものではない。
しかして慢心した教祖は、神の体の支配を受けておりますので、憑依されている者相手に除霊したり、悪魔呼ばわりしたり、あるいは除霊と称して金銭を要求したりします。
これはすべて外道であり、神の心を悟るか、あるいは神の心に照らして反省するか、このどちらかを地道に実践していく過程で生命は発光し、憑いている悪霊は憑いていられなくなり、バリっとはがれたり、あるいは以後その者には憑依できなくなる。
神の心によってしか除霊はできないのです。
超能力や手かざしで除霊はできません。
手かざしや超能力宗教が間違っている根拠も、この大宇宙(神の存在)。
神の心を悟れば、これを原因として結果、場合によっては超能力が発現することもある。
悟りが「天」であり、超能力は「地」で天地一体ですが、超能力宗教は、この「地」である超能力を「天」に置いているがゆえに、大宇宙、すなわち神御自身の目から見て悪だと言っている。
霊能力信仰など大間違い。
手かざしも同じ。
神の心を悟れば、あるいは神の心に照らして反省すれば、これを原因として結果、悪霊が剝がれます。
悟りが「天」であり、除霊は「地」で天地一体であり、手かざし宗教は、この除霊という「地」を「天」に置いているがゆえに大宇宙、すなわち神御自身の目から見て間違っていると言える。
また慢心した教祖は、自我が絶対化されておりますので、神の心ではなく、神の体の方面の支配を受けています。
物質の属性には「利益」の他に「快楽」がありますので、自我それ自身はそれだけならば、必ず「快楽」を求めます。
地位の快楽、名誉の快楽、偉いの快楽、富の快楽、国益の快楽、女の快楽、尊敬の快楽等々、すなわち逆から言えば、不快を徹底的に避ける思想と行動で出るのです。
自我が絶対化されている慢心した教祖は、快楽を求め、不快を避けますので、責任を負わされることは、自分にとって不快なこととなる。
するとここに責任逃れという行動ででます。
私は神聖法王だ、サリンは弟子が勝手に蒔いたのだ、私は最終解脱者だ、と悟ってもいないのに偉そうにのたまうことになる。
カルトが責任逃れをするのは、自我が絶対化され、自我は快楽を求める性質を有しているがゆえに、不快を避けようとしてそうなる。
逆から言えば、快楽を求めるためにイエスマンばかり置く行動でも出ます。
相手が思い通りに動くと楽しいですからね。
逆らう奴は不快ですから。
「・・総裁先生はすばらしい、総裁先生はすばらしい」・・・もう、イエスマンばっかり。
これですね。
こうなれば救世の団体としては終わりです。
幸福の科学は、1991年の3月に御本尊を教祖の写真にしてしまいました。
自我が絶対化されてしまったのです。
宇宙と分かれてしまった。
仏陀意識の意図としては、御本尊とは「正しき心」以外にはないはずですが、これを教祖にしてしまい、生き神信仰になってしまったのです。
だからよく見てみればいい。
1991年1月の「ノストラダムス戦慄の啓示」以後、諸神霊は一切一霊も出ていないはずです。
物質宇宙は神の表現体であり、神の体です。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で天地一体。
神我が「天」であり、自我が「地」で天地一体。
正義が「天」であり、利益は「地」で天地一体。
大宇宙の構造と仕組みは、永遠にこうです。
1万年後も100万年後も変わりません。
神の心が「天」であり、国益は「地」で天地一体です。
もっと正確に言えば、宇宙が終わるまでこの天地一体の構造と仕組みは変わりません。
永遠にこうだということです。
大宇宙の存在は、神の存在そのものですから、我々神の子の心の物差しは、永遠に眼前の大宇宙だということです。
神我が「天」であり、自我は「地」であるにも関わらず、その自我を「天」に置いて大宇宙と分離してしまった。
大宇宙の構造と仕組みは、神我が「天」であり、自我は「地」です。
これを教祖が逆にしてしまったのです。
自我を「天」に置き、神我を「地」に置き、利益を「天」に置き、真理を「地」に置いた。
これが間違っているという根拠も、目の前にある大宇宙(神の存在)。
神我が「天」であり、自我は相対的な性質を有しているために「地」なのですが、この構造と仕組みと合致しなくなり、眼前の大宇宙と分かれてしまったのです。
神我を「天」に置き、自我を「地」に置く。
正義を「天」に置き、国益を「地」に置く。
神の心を「天」に置き、利益を「地」に置く。
この通り生涯、生きられれば、これを宇宙即我と言う。
大宇宙は永遠にこうなのですが、人間の方が未熟なためにこの通り生きられず、宇宙、すなわち神御自身と分かれてしまうのです。
つまり物質を「天」に置き、生命を「地」に置いてしまう。
利益を「天」に置き、真理を「地」に置いてしまう。
国益を「天」に置き、正義を「地」に置いてしまうのです。
そして目の前にある大宇宙の構造と仕組みと分離してきます。
すると霊天上界の諸神霊は、大宇宙の心の通りにしか動けませんので、大宇宙と分かれた教祖を霊的に指導できなくなるのです。
すなわち大宇宙(神)と分かれた瞬間、次にあの世の「天」とこの世の「地」が分かれてくる。
だから諸神霊の霊言を出せなくなった。
利益を最上位に置いたためにあの世とこの世が貫かなくなってしまった。
利益はそれを目的としますと、あの世の「天」とこの世の「地」を切るのです。
地上人間が半数以上も地獄界に堕ちている原因と理由も、この天地分離です。
そして天地分離の原因は、利益と国益、自我と快楽と言った相対的な「地」を絶対化して「天」に置いた、その生き方に問題がある。
眼前の大宇宙を見て下さい。
利益と国益、自我と快楽は永遠に「地」なのです。
生命が「天」であり、物質は永遠に「地」なのです。
これを逆にするのは、真理への無知と不信仰、並びに悟りと反省の欠如ですが、そうなる根源的な理由は、要は未熟だということです。
大如来と言われる偉大な方でも、利益を最上位に置けば、大宇宙と切られ、天地が切られ、神々から啓示を受けられなくなるのです。
いわんや一般はということです。
天地が切られるとは、霊天上界と切られている生命状況ですから、そのまま死ねば、天上界には帰天できないわけです。
事実、それが理由で帰天できないために、人類の半数以上もの人達が地獄に現代では堕ちている。
ならば人類救済とは何ぞや?
分かると思う。
あの世の「天」とこの世の「地」を一体化させる天地一体の悟りを各個人が得る以外にはないのです。
そして自己の生命が「天」と一体化するには、仏教の自力以外にはありません。
すなわち神の心を自力で悟るか、あるいはその神の心に照らして反省するか、この自力の道以外にはありません。
他力で天地一体の悟りは得られず、救済もない。
他力で悪魔は救えず、他力で悟りは得られない。
人任せで自己の悟りが上がるわけありません。
自分の悟りは自分で磨くしかなく、自分の罪は自分で反省するしかない。
真理は自力です。
そして仮に人類すべてがこの自力を実践できれば、天地が一体となり、ただの一人も地獄に堕ちることはない。
その天地を一体化させる心を、いわゆる神の心というのです。
これが過去・現在・未来を通して変わらない永遠の真理ということです。
1000年後、あるいは2000年後、現代の世界のように世界的規模で腐敗し、その世界を何とか救わんとし、仏国土を造らんとするならば、その時に出てくる永遠の真理も、この天地一体の悟りです。
これを理解したその時、人類は神の心がいかに大切な存在であり、重要な心か理解することになる。
神の心なくして我々人類の幸福も救済もないのです。
今回は、この神の心の現時点で考え得る限りの最高度の編纂です。
これを実は大川さんと私がもっているということです。
大川さんの方は、何か変なことになってますけどね。
それにしてもこの題は、中々終わりません。
早く終わらせて次に進みたいのですけどね。
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