真理関係

宇宙即我の文明 4

宇宙は神の心の表現体であり、大宇宙の存在を神と言います。

もちろん「神」と言う限り、過去・現在・未来の全人類を支配し、指導しているわけです。

人類を支配しているということは、神と人類は永遠に一体であることを意味します。

神と人類が分離しているならば、神が人類を支配しているとは言えません。

神と人類が分離し、分かれている関係ならば、人類はそこに勝手に存在しているだけの存在ということになります。

人間がそこに勝手に存在しているだけならば、相対的な自我と相対的な物質(神の体)は同通しますので、そこには矛盾(神の体)しか存在しない世界となり、人類は一丸となって「地」に向かって悪化していくだけです。

絶望的な世界の誕生です。

ところが神と人類は永遠に一体ですので、人類は自然界と離れて生きていくことはできません。

自然界と一体であるから生きられるわけです。

試しに自然界を離れ、宇宙空間に出ていきますと、人間は80年も生きていくことはできないのです。

自然界と人類は一体だから生きられるのです。

人間は「生きている」のではなく、自然界に「生かされている」のです。

人間が神と無関係に勝手に「生きている」というならば、そのご自慢の「選択の自由」を駆使して、自分には水を飲まないでいる選択の自由があり、食べ物を食べないでいる選択の自由があると言い、そう生きてみればいいのです。

その選択の自由では、誰も生きられないのです。

人間には、空気を吸わないでいる選択の自由があると主張し、そう実践しようとして、実践できない自分を発見するのです。

人間は水を飲まざるを得ないし、食べ物を食べざるを得ない。

空気を吸わざるを得ないし、そうしなければ生きられないのです。

もし人間には、空気を吸わないでいる選択の自由があると言い、それを実践すれば、人間は5分と生きられません。

水を飲まないでいる選択の自由があると言い、それを実践したところで、同じことであり、人は1週間と生きられません。

明らかに人間は「生きている」のではなく、自然界に「生かされている」わけです。

自然界の存在を神と言いますので、神に「生かされている」のです。

自然界の大地に種を植え、その神の体から生え、成長してくるコメや麦、果物や野菜を食べなければ、人間は生きられないのです。

神の体(自然界)から採取した原油をガソリンや重油、軽油や液化ガスに精製し、暖を取ったり、工場を稼働したり、自動車に乗ったり、飛行機を飛ばしたりしているのです。

あるいは神の体から鉄やニッケル、レアアースや銅、その他様々な鉱物を取り出し、経済活動をしています。

過去・現在・未来の人類は、全て自然界(神の体)が生かし、養っているのです。

キリスト教徒も仏教徒もその他の宗教、無宗教に関係なく、人類は全て自然界に生かされている存在です。

自然界の存在を神と言いますので、過去・現在・未来の全人類は神に生かされ、育てられ、導かれているのです。

この神の存在が「信仰の自由」のわけありません。

水も空気も人間が創ったものではありません。

自然界も人間が創ったものではないのです。

この人間の創ったものではない自然界に、どっぷりと浸かり、依存しなければ、人類は誰一人生きることはできないのです。

これが神が存在していると言う意味なのです。

人間の創ったものではない自然界に、人類は生かされているはずです。

換言すれば、神(自然界)が過去・現在・未来の人類を生かしているのです。

宇宙がなければ、銀河系もなく、銀河系がなければ、太陽系もなく、太陽系がなければ、自然界もありません。

自然界が存在しなければ、人類もまた存在できません。

食物連鎖の根本は「植物」ですが、太陽が輝いていなければ、植物は光合成ができなくなり、全て枯死します。

植物がなくなれば、草食動物も生きていくことはできず、肉食動物も生きられないのです。

植物が死滅すれば、空気もなくなりますので、人間もまた生きることはできません。

人間は「生きている」のではなく、自然界に「生かされている」のです。

大宇宙や自然界の存在を神と言いますので、神が人類を生かしているのです。

この厳正な事実は認めなければなりません。

事実、自然界と離れて人類は生きられないはずです。

人類は、自然界と一体だから生きられるのです。

神と人類は、永遠に一体だから生きることができるということです。

人間の「心」も「体」も、神の心と神の体なくして生きることはできないのです。

人間の体は、神の体(自然界)が育て、人間の心は、神の心が育てているのです。

(人は)神の口から出る一つ一つの言で生きるものである : マタイ4-4

だから人間を神の子と言うのです。

大宇宙や自然界は、人間の創ったものではないのです。

しかしてその人間の創ったものではない自然界に依存しなければ、人類は誰一人生きることはできないのです。

子供が親に依存しているようなものです。

これは今後も変わらないのです。

神と人類は永遠に一体で生きているからです。

無神論などもってのほかですが、今の人類は目の前に存在する大宇宙や自然界が神であるという事実を知らないのです。

親を知らないのです。

実際、依存しているにも拘わらず、親を知らない子供になっているのが、今の人類です。

それでも神は辛抱強く人類の心と体を育て、指導しています。

人類への愛情がなければ、とてもできることではありません。

無知とは、誠に恐ろしい世界を創るものです。

現実において実際、依存し、支配され、指導されていても、人間のほうが、その神の存在に気づかないのです。

中東の神は、「人間の創ったものを拝むな」と説き、偶像崇拝を禁止してきましたが、それは人間の創ったものの中に人類不変の「善悪の基準」もなければ、「生死の基準」もなく、「幸不幸の基準」も存在しないからです。

人間の体は、神の体(大宇宙・自然界)なくして生きることができないのは自明のことですが、実は人間の心も、神の心なくして生きることはできないのです。

例えば「真心と優しさ」は、典型的な神の心ですが、この「真心と優しさ」なくして、人の心は生きることができないのです。

地獄に堕ちたければ、この「真心と優しさ」を人生の50%以上失えば、堕ちることができます。

逆から言えば、この「真心と優しさ」を人生の50%以上実践できれば、宗教宗派に関係なく、みな天国に還っていくのです。

それは人間の心ではなく、神の心だからです。

神の心と合一して、地獄に堕ちる人はいません。

人の心は、神の心なくして生きられないのです。

心は「真心と優しさ」なくして生きることはできません。

2500年前の孔子は、弟子に生涯、実践し続けなければならない徳目とは何ですかと問われて、「それは恕である」と答えています。

「忠」とは読んで字の如く「真心」であり、「恕」とは「優しさ」です。

孔子は、2500年もの昔に人間が生涯、実践しなければならない徳目を「優しさである」と説いたのです。

「真心と優しさ」は、神の心ですので「永遠の価値」を持っており、2500年前であろうが、現代であろうが、未来であろうが、不変なのです。

文明がその形と風景をどう変えようとも、この「真心と優しさ」は不変であり、変わらないのです。

それは神の心だからです。

この「真心と優しさ」と合一して地獄に堕ちる人は一人もいません。

神の心とは、特定の宗教や宗派に属しているわけではなく、人間の「心」に属しておりますので、天上界に見事帰天したければ、この「真心と優しさ」を人生の50%以上実践すれば帰天できます。

逆から言えば、孔子が生涯実践せよと説いたこの「忠恕」、すなわち「真心と優しさ」を人生の50%以上失えば、地獄に堕ちてしまうということです。

神の心が、人間の心の生死を分け、天国と地獄を分けているのです。

人間の「心」を見ても、「体」を見ても、神の心と神の体によって生かされていることは明らかなのです。

人間は心身共に「神の心」と「神の体」、いわゆる大宇宙に生かされているのです。

大宇宙の存在を神と言いますので、人類は全て神に生かされ、育てられ、導かれているということです。

人間の社会では、ダブルスタンダードと言って、その「善悪の基準」が、利害関係でコロコロと変わるわけですが、神が人類に与えた「善悪の基準」は永遠不変であり、変わりません。

時間経過によっても変わりませんし、空間の位置変化でも変わらず、立つ立場によっても変わらないのです。

今の世界と人類の悪化の原因とは、ひとえにこの「善悪の基準」を知らないことが原因なのです。

何を基準にこれが善であり、これが悪であると決まっているのか。

この神の与えた「善悪の基準」を知らないことが、人類と世界の悪化の原因なのです。

過去・現在・未来の全人類に普遍妥当し、永遠に変わらない「善悪の基準」とは、大宇宙の存在であり、自然界の存在であり、多次元世界の存在なのです。

大宇宙や自然界の存在を神と言いますので、未熟な人類にとって永遠不変の「善悪の基準」とは、神の存在なのです。

宇宙即我が善であり、宇宙と我とが分離すれば悪なのです。

自然即我が善であり、自然と我とが分離すれば悪なのです。

多次元世界即我が善であり、多次元世界と我とが分離すれば悪なのです。

これは未来永劫変わりません。

2000年後の人類であろうが、3000年後の人類であろうが、変わらず、神人合一が善であり、神人分離が悪です。

すなわち神の心と合一すれば、人間は「善の存在」になるのであり、神の心と分離すれば、人間は「悪の存在」になるのです。

この「善悪の基準」は、人間の「生死の基準」であり、「幸不幸の基準」なのです。

神の善とは、人間の「生」であり、幸福を意味します。

神と離れた悪とは、人間の「死」であり、不幸を意味します。

未熟な人間が、果たして「善の存在」になるのか、「悪の存在」になるのかは、ひとえに神の存在に依存しているのです。

この神の存在を信ずることが、個人の自由のわけないのです。

世には往々、何故人間は神を信じなければならないのかを問う人がおりますけれども、過去・現在・未来の全人類が暮らしている大宇宙や自然界では、永遠に神の心が「天」に置かれているからです。

その神の心を「地」に置けば、当の人類自身が「地」に向かうことになるのです。

そして人類と世界は悪化を続け、良くなる可能性すらない「絶望の世界」ができるのです。

神の心が「永遠の希望」であるゆえんです。

神は大宇宙を通して、神の心を永遠に「天」に置いておられますが、未熟な人間のほうは、有限のたった80年の人生でさえ、神の心を「天」に置けないのです。

神の心を「天」に置けない者は、どこかの救世主のように、必ず神の体(利益と快楽)を「天」に置くのです。

神の体(利益)を「天」に置いた瞬間、それを永遠に「地」に置いておられる大宇宙と対立するのです。

大宇宙と人類が離れてしまうため、この大宇宙の構造と仕組みから、人類は必然的に「悪の存在」になっていくのです。

「悪の存在」になってしまっているから世界と人類は悪化を続けているのです。

宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪だからです。

現代の人類は、相対的な「利益と快楽」を「天」に置いて目的とし、これを増やすことを「善」としていいます。

それは「善」ではなく、「悪」なのです。

相対的な利益や快楽は、矛盾を意味しておりますので、神によって永遠に「地」に置かれているものです。

「天」に置くべきものを知らず、「地」に置くべきものを知らないのです。

「天」を知らず、「地」を知らず、天地を知らず、大宇宙を知らないのです。

だから「地」に置くべき利益と快楽を「天」に置き、気候変動を引き起こし、年間4万種の生物を絶滅に追い込み、人間の多くも地獄に堕ちているのです。

アインシュタイン博士の相対性理論によって、物質の相対性は常識になっているはずです。

相対的なものの正体とは「矛盾」ですので、この大宇宙では永遠に「地」に置かれているものです。

これを「天」に置いて目的にするというのは、非科学的な人類と言うことです。

物質の相対性は証明されているのであり、その相対的なものを絶対化し、目的にするならば、それは傲慢であり、非科学的な人類と言わざるを得ない。

今の人類は、神が永遠に「地」に置いておられるものを、全て「天」に置いているのです。

神の体(矛盾)を「天」に置けば、矛盾を「天」に置いているのと同じですので、無限に悪が現象化してくる事態は避けられないのです。

人類と文明は、いつでも「神への傲慢」によって滅び去っていくわけですが、「神への傲慢」とは、相対的なものを(利益)絶対化し、神が永遠に「地」と定めているものを「天」に置くことです。

今の人類も永遠に「地」と定められている相対的な利益と快楽を「天」に置くことによって、眼前の大宇宙と離れてしまっており、大宇宙と我とが分離しているのです。

宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪であるという「善悪の基準」は、永遠に変わりませんので、「神への傲慢」は、大宇宙と人類を離し、人類自身を自動的に「悪の存在」にしておりますので、「神の意向」通り、この文明は、一旦崩壊していくことになるのです。

悪だから滅ぶのです。

善が滅ぶことはないのです。

どの文明であろうが、その文明が滅びる時というのは、必ずこの「神への傲慢」によって滅びるのです。

「神への傲慢」は、大宇宙と人類を離し、自然界と人類を離し、神の存在と対立していくために、我々人類のほうが滅んでいくのです。

自然即我が善であり、自然と我との分離が悪だからです。

この神の与えた「善悪の基準」は、何千年後も変わらないのです。

善は残り、悪は滅びるのです。

神は子に良きものしか残さないのです。

大宇宙や自然界とは神そのものですので、神のほうが滅ぶことはないのです。

大宇宙と対立して滅んでいくのは、いつでも人類のほうなのです。

そして国破れて山河在りとなり、文明がゼロからスタートしていくことになるのです。

人類が生き残るには、ゼウス神の警告に従うしかありません。

方法は一つ。

光に向け、神に向け、神に向かうことだ。

それ以外に方法はない

人類が暮らす大宇宙や自然界では、永遠に神の心が「天」に置かれているのです。

その神の創られた正しき世界で、神の体(利益と快楽)を「天」に置くという罪を犯してしまったのならば、その罪を犯した本人が反省するか、責任を取るしかないのです。

誰も代わって責任を取ってくれる者はいないのです。

現代の文明は、神の体を「天」に置いたため、神の心を「天」に置いておられる大宇宙と分離し、対立してしまった文明なのです。

次世代の文明は、大宇宙と合一し、自然界と合一し、多次元世界と合一していく「宇宙即我の文明」です。

大宇宙と合一して地獄に堕ちる者はおらず、多次元世界と合一して不幸になる者もいません。

一人も地獄に堕ちることなき地上天国の建設とは、大宇宙と我との合一であり、多次元世界と我との合一なのです。

この神の心が、信じようが、信じまいが自由のわけありません。

「宇宙即我の文明」の建設が、地上天国の建設なのです。

まず眼前の大宇宙の存在が神であるという事実を知るところから地上天国が始まります。

その時、神の存在が、人類にとって「永遠の希望」になっている不変の事実を知ることになるでしょう。

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