真理関係

真理の土台 8

宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎

自然は完全である : エマソン

理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である : ヘーゲル

近代において過去、神の思想を悟られていた方々は、宇宙や自然界が神そのものである事実は悟られていたわけです。

神は完全ですからエマソンは自然を完全であると言い、ヘーゲルは神の心は宇宙や自然界に現実化しており、宇宙や自然界と言う現実には神の心があらわれていると残しています。

宇宙の存在そのものが神であるという事実を知っていれば、無神論はないわけです。

ところが現実は無神論の時代になっておりますので、宇宙の存在が神であるという基本的な事実を知らないという結論になります。

「救世の法」と従来の宗教的真理とを画然と分ける悟りとは、宇宙即我の悟りです。

従来の宗教的真理やその教祖は、宇宙即我の悟りを持っておりませんので、宇宙の存在が神であると説くことができないのです。

「救世の法」は、宇宙即我の悟りが基本ですので、宇宙という本当の神の存在とその心を説くことができるのです。

古い宗教は、たとえ世界的宗教であっても、数千年前に創られておりますので、本当の神の存在が説けなかった時代なのです。

例えば2000年前のイエスの時代では、雲の上に神さまがいらっしゃると本気で信じられていた時代なのです。

復活後にイエスが昇天していったのは、神さまは雲の上にいると信じられていたからです。

新約聖書の前は、その雲の上にいらっしゃる神さまに会いにいこうとしてバベルの塔を創っていたような時代なのです。

この時代で本当の神の存在やその心、あるいはあの世の世界を多次元世界として説くことはできなかったのです。

説いても分からないのです。

こういった古い時代では、神近き人格神が天地創造の神を名乗って人間を導くことが許されていたのです。

現代の学問や科学が発達し、教育も普及している時代では、本当の神の存在とその心が説ける稀有な時代ですので、昔のような人格神への信仰は説けないのです。

これが「時代の要請」です。

それを幸福の科学は、再び名称のある人格神への信仰を説いてしまい、前近代的な宗教に逆戻りしてしまったのです。

従来の宗教と同じようなものであってはならないと言っていたのは本人なのですが、同じようなものにしてしまったのです。

あれでは「救世の法」にならないのです。

全人類の幸福実現の法も一人残らずの全人類救済法則も世界そのものを救う「救世の法」も知らなかったはずなのです。

知っていれば、従来の宗教とは根源から異なるものになるのです。

そうならなかったと言うことは、知らなかったと判断するしかありません。

人類に普遍妥当する本当の神の心が地球上で説かれ始めたのは、恐らくドイツのヘーゲルからであり、まだ250年ほどの歴史しかありません。

その後、エマソン、西田幾多郎、高橋信次と続きますが、徐々に神の真の姿が浮かび上がってきたのです。

従来の宗教では大宇宙の存在を神とした「法の編纂」はできませんが、「救世の法」ではできるのです。

「救世の法」とは、宇宙や自然界に表現されている神の心を直接読み取って編纂されるものです。

従来の宗教的真理では、神が人類を救うと説きましても、宇宙が人類と世界を救うとは思っていないのです。

宇宙が神である事実を知らないからです。

神が人類を救うとは、大宇宙や自然界、並びに多次元世界が人類を救うという意味なのです。

この世(大宇宙)とあの世(多次元世界)が、人類を救うということです。

宇宙は神の表現体であり、神の体である : 高橋信次

高橋信次氏も大宇宙が神であるとはっきり言っているはずです。

だからGLAの御本尊は「大宇宙、大神霊、仏」だったのです。

GLAではエル・ランティ信仰など説いていないのです。

宇宙が神ですから、宇宙が人類と世界を救うのです。

宇宙の存在そのものが、過去・現在・未来の全人類の善悪の基準だからです。

宇宙即我が善であり、宇宙と我とが離れれば悪なのです。

善悪の基準とは、人類の生死の基準であり、幸不幸の基準です。

従って『神約民主論』国家の実現を通して眼前の大宇宙の絶対的権威を確立すれば、今回の救世運動は終了です。

大宇宙が人類の心の物指しとなった時、人類の生死の「生」、いわゆる人類を生かし、救済することになるのであり、幸不幸の「幸福」を実現していくことになるのです。

これが永遠不変の基準だからです。

この永遠不変の基準を知らない者は、人類を救済することも、幸福にすることもできないのです。

歴史のいつの時代的地点を取っても、常に神の心が人類と世界を救うとはこの意味です。

宇宙や自然界には、神の心が表現されており、道端に咲く花一輪までもが神の心によって統一されています。

人間の創る文明は、神の造られた世界と比べましても、ここまで正しさによって統一されていないのです。

「神が創造した世界」と「人間が創造した文明」との比較論から人間は如何に自分達が未熟な存在であるのかを知ることになります。

ヘーゲルが残しておりますように、宇宙や自然界には神の心が現実化しておりますので、これを正確に読み取っていかなければならないのです。

あの世の高橋信次氏が、幸福の科学で最初に言っていたのもこれなのです。

今、大川隆法らにやらせようとしているのは「全体の法」の編纂である。

個の法は、私でもう8割尽きています。

大川隆法らにやらせようとしているのは、私が説けなかった個の法の残り2割と「全体の法」の編纂である。

「全体の法」とは、大宇宙の構造と仕組みを解き明かし、多次元世界の構造と仕組みを解き明かした法である、と。

大宇宙と多次元世界の存在そのものに完全なる神の心が表現されているからです。

ここ以外に神の心は表現されておりませんので、この宇宙や多次元世界に表現されている神の心を正確に読み取っていかなければならず、これを読み取った法を「救世の法」と言うのです。

この世であれ、あの世であれ、宇宙や多次元世界に表現されている神の心を完全に読み取れる人間や神霊は今後もいないのです。

幸福の科学では「正しき心の探究」を説いておりましたが、今後の数千年はこの大宇宙と多次元世界を探究していかなければならないのです。

「正しき心の探究」とは、大宇宙の探究であり、多次元世界の探究なのです。

全ての善の源とは神の心であり、全ての悪の源とは神の体です。

全ての悪の源である神の体は、全ての善の源である神の心の表現体であり、大宇宙とは神の一大倫理表現です。

この倫理を真理と言い、神の心と言うのです。

神の心と神の体を探究するとは、全ての善と全ての悪を探究するということです。

神の心と神の体で構成されている大宇宙を探究することが、「正しき心の探究」であり、真理の探究と言うのです。

大宇宙を知ることを神の心を知ると言います。

神は完全ですので、もちろん完全なる神の心を読み取れる人は今後もいないのです。

数千年や数万年、探究したところで完全なる神の心を解明していくことはできません。

ただ既存の宗教では、大宇宙の存在が神であることも知らず、この大宇宙や自然界に完全なる神の心が表現されていることも知ることはできないのです。

ヘーゲルやエマソン、西田幾多郎や高橋信次ら一部の人間は、明確にこれを悟っておりましたが、既存の宗教家は知らないのです。

神の心の「出どころ」を知らないわけです。

釈尊の説かれた「正しき心の探究」とは、すなわち人類に「歴史における永遠の目的」を与えたということです。

聖書を暗記したり、仏典を暗記するのではなく、目の前の大宇宙と自然界に神の心は表現されておりますので、ここに表現されている「正しき心」を歴史を通して探究していかなければならないのです。

今まで傑出した方々が出てこられて色々と探究はしてきているのですが、誰も完全には読み取れないために神の一端しか明らかにはなっていないのです。

これをエマソンは、人間を通して出てくる善は、全て神の近似値に過ぎないと残されているのです。

我々の知っているものは、知らないものに比べれば、一つの点に過ぎない : エマソン

「正しき心の探究」とは、宇宙の探究であり、多次元世界の探究です。

既存の宗教では聖書を暗記したり、仏典を学んだり、他の聖典を拝んだりしておりますので、神の心の「出どころ」を知ることはできないのです。

古い仏典や聖典を学ぶことが「歴史の目的」ではないのです。

ヘーゲルも残しておりますが、神の心とは歴史の究極目的であり、完全なる正しさなのです。

これは宇宙や多次元世界にしか表現されていないのです。

完全なる神の心は、人間の手による聖典に書かれているのではなく、神の手による宇宙や多次元世界に書かれているのです。

高橋信次氏が最初に言っていた大宇宙や多次元世界の構造と仕組みを解明せよというのは、今後の人類は歴史を通してこの大宇宙と多次元世界を探究し、解明せよと言っていたのです。

これが今後の人類が向かうべき「歴史の究極目的」だからです。

今は多くが個人の目的もなく、人類の目的もなく生きています。

神の心は「永遠の目的」として存在しています。

人間の欲する答えは、常に目の前にあります。

個人の心の中心に神の心があるということは、個人には「永遠の目的」があり、人類にも「永遠の目的」があることを意味します。

個人の「永遠の目的」と人類全体の「永遠の目的」とは、神の心で完全に一致しています。

神への信仰の覚醒とは、個人の「永遠の目的」と人類全体の「永遠の目的」に覚醒するということです。

逆から言えば、信仰に覚醒しないとは、個人の「永遠の目的」と人類全体の「永遠の目的」に覚醒しないということです。

目覚まし時計が鳴っていてもおきない人間であり、毒リンゴを食べて眠り続ける白雪姫のようなものです。

石仏となって固まり、二度と動けなくなったどこかの霊系統みたいです。

諸神霊が神への信仰を説くのは、個人の「永遠の目的」と人類全体の「永遠の目的」に覚醒させるためです。

単に訳の分からないものを信じ込めと言っているのではないのです。

ところが既存の宗教では、聖書や法華経、あるいは他の聖典に完全な神の心が表現されていると勘違いしており、訓詁学のようなことばかりしているのです。

諸神霊は、むしろそういったものは捨てなさいと言っていたはずです。

善川 : これからの布教上の参考となる研究書、たとえば阿含経、華厳経、法華経などという仏典諸経の研修を行う必要はないでしょうか。

恵果 : その必要はありません。

仏教の各経典といったところで、今語っているようなことしか書いてないのです。

今後もうそんなことする必要ありません。

そんなものは捨てなさい。

今後あなたのすることは、古いことを掘り起こすことではなくて、未来のこと、後世の人びとへ残すものを書くのですから、そんなものであってはいけません。

ソース : 空海の霊言 第4章 恵果阿闍梨の霊訓

モーゼも高橋信次氏が悟る前に本名は明かさず、「ワン・ツー・スリー」と名乗っていたのです。

もしモーゼという本名を名乗れば、高橋信次氏が聖書を読み漁り、宗教的な既成概念を身につけ、偏った思想を持ってしまい、悟れなくなることを恐れたからです。

正義とは、神の正しさであって、人間の正しさではないのです。

神の正しさは、自然界と大宇宙に表現されておりますので、多様な真理は全て神の心に帰一すると言ってもいいし、大宇宙や多次元世界に帰一すると言ってもいい。

ここが神の心の「出どころ」なのです。

神の心とは、宇宙や多次元世界に表現されており、それは必ず実現されなければならない「必然の価値」ですから、ヘーゲルも「現実性という属性は、同時に必然的であるものにだけあてはまる」と残しているのです。

宇宙や自然界という現実には、必然的な価値が表現されていると言うことです。

これは心で直覚し得るものであり、これを心で直覚した時、人は神人合一の境地に至り、人類全体の歴史は神の心に向かっている不変の事実を知る事になります。

個人に目的がないのは、神の心がないからであり、人類全体に目的がないのも、神の心がないからです。

神の心とは、個人の目的であり、同時に人類全体の目的なのです。

神の心とは「永遠」ですので、神とは人間にとって「永遠の目的」です。

神への信仰を失うとは「永遠の目的」を失うことなのです。

この神への信仰が個人の自由のわけないのです。

「永遠の目的」を持とうが、持つまいが、個人の自由ではありません。

一人一人の心の中心に神の心があるということは、「永遠」があるということであり、「永遠」があるということは「永遠の目的」もあるということです。

人間の心に「永遠」があるということは、人間の心は死ねないということであり、死後の世界は存在するということです。

神の存在を否定しますと人類から平等が失われますので、神の存在は認めざるを得ません。

神の存在を認めざるを得なくなれば、神は「永遠」ですので、人間の死後の生も認めざるを得なくなります。

あの世の存在を否定しますと、心は死後「無」になりますので、その心の中に存在する神の心も「無」となり、人類から平等が失われます。

平等を認めますならば、と言いますか人類は認めざるを得ないわけであるが、神の存在とあの世の存在は認めざるを得ないということです。

テニスンが残しておりますように「死とは笑うべき不可能事」です。

ヘーゲルの「理性の狡知」にもありますように、人類がそれを認めようが、認めまいが、否応なく人類は一丸となって、歴史を通してこの神の心に向かっているのです。

「歴史の究極目的」としての神の存在も真理の土台と言えば、土台です。

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