戒律は疑似真理であり、偽物の善と偽物の悪を創りますので、もしそれがあの世の人格神がある任意の理由において課すのであれば、方便の善と言えます。
例えば偶像崇拝を禁止する戒律があるとすれば、偶像崇拝をしなければ善であり、偶像崇拝をすれば悪になります。
結果(物質)を押し付けてきますので物質に比喩した善、すなわち方便です。
重要なのはその人格神が、何故偶像崇拝を禁止するのかという理由と原因であり、その結果ではありません。
大抵は偶像崇拝の意味を知らず、何故その人格神が偶像崇拝を禁止するのかという理由も知らないまま戒律を守ろうとしているのです。
そして偶像崇拝をしなければ善であり、偶像崇拝をすれば悪であると認識していくのです。
その認識が偽物の善の世界と偽物の悪の世界、いわゆる天国と地獄の矛盾した世界を生むのです。
神の体を「天」に置くことを偶像崇拝と言い、神の心を「天」に置くことを神への信仰と言います。
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