戒律とは方便の善であり、神に戒律はありません。
戒律とは、そもそも悪を禁止するものであり、善を禁止するものではないのです。
神は大宇宙創造時に悪を「ひとかけら」も創造しておりませんので、神の心に悪は存在しないのです。
悪が存在しないということは、その悪を禁止する戒律もないということです。
戒律とは悪を前提にしたものであり、基本的に善悪二元論です。
善の戒めもあるにはありますが、それはその善の戒めを破れば暗に悪であると言っているのと同じですから、やはり戒律や戒めは善悪二元論なのです。
善の戒めにしろ、悪の戒律にしろ、それは正しい人格神が課す場合、好意的に見ても方便の域を出ておらず、悟りの高い者が悟りに低い者に心の外から課すものですので、その者の心の中から出ているものではありません。
戒律は心の外から来るものであり、悟りは心の内から来るものです。
生きながら、たくさんの至高の宗教的哲学を読ませていただけることに、心より感謝いたします。 ほんとに生きててよかった。。。。。
自分なりのまとめです。間違っているところがあれば、ご教示いただければ幸甚です。
戒律とは、悪や地獄の存在を永遠の実在として前提とし、外から人を脅迫し、脅し、操作し、支配する恐ろしい宗教的善意、方便の善としての悪である。神は、悪や地獄を創造しておらず、前提としておらず、戒律も必要としていない。三宝帰依、和合僧破戒、三毒をしようとしまいと、神の心と自己の心が合一していれば善、そうでなければ悪。宗教(組織)の怖さは、この方便の戒律を神の心として絶対化し、人々に押し付け、がんじがらめに縛り、本来自由で幸福あるところの人をして、正しき心の探究、自己の良心や神我の探究、成熟、本来の悟りから遠ざけ、表面的なことで自他を裁く卑小で苦悩する不幸なものとすることにある。
ありがとうございます。