真理関係

宗教 Ⅰ

宗教とは読んで字の如く、宇宙が示す教えです。

宇宙が示す教えとは、神が示している教えです。

宇宙や自然界は人間の作ったものではなく、神が造ったものですから人知を超えており、ここに神の心は表現されています。

宇宙(客観)は神の心(主観)の表現であり、神の神殿です。(主客合一)

すなわち眼前の大宇宙のことを神というのです。

そして人間を神の子と呼ぶのは、この大宇宙の子であり、神に永遠に養われているからです。

人間の肉体は誰であろうが、大宇宙と自然界に養われており、人間の心は誰であろうが、神の心に養われています。

人間の体は、神の体に養われ、人間の心は、神の心に養われている。

大宇宙(神)と人類は永遠に一体で生きており、神の存在と離れて生きられる存在はこの大宇宙には存在しません。

悪魔と言われる存在ですら、神と離れて生きることはできませんから、地獄界は神の神的母体である多次元世界の5次元幽界下段界に存在している。

地獄界とて神の体と離れて生きることはできないのです。

悪魔とて神の神的母体がなければ、思うことも行うこともできない。

この世では大宇宙という神の体の中で、あの世では多次元世界という神の体の中でみな修行しています。

神の教えは、この世では宇宙や自然界にのみ表現されており、この宇宙や自然界に示されている神の思想を読み取ったものを真理と言い、神の心と言います。

宗教とは神の教えを説くものであり、人間の教えを説くものではない。

従って神の心とは、常に潜在意識(彼岸)から流れ、神我から下り、実相から啓示されます。

神の教えは決して自我からは来ず、自我から出ている教義は「邪」であり、良くても自我に比喩した方便の善に過ぎず、有限の善です。

神の無限の法は、常に神の心から下り、神我から下り、実相から下り、潜在意識から来ます。

表面意識が悪であり、潜在意識が善である。

これを悟ったならば、悟りの境地に入ったと見て良い : 高橋信次

だから全ての多様な善は、この神の心に帰一するのです。

善が自我に帰一することはありません。

自我は相対性と矛盾を意味しているために、真理が矛盾に帰一することはないということです。

宇宙や自然界を通して神ご自身が示している神の思想を読み取れる者を、仏教的には如来と言いますが、実際これを読み取れた者は、近代のここ200年を見ましても片手で数えられるほどの人間しか存在しません。

西洋ならばヘーゲルやゲーテ、あるいはラルフ・ウォルドー・エマソン、この3名ほどしかいないのです。

たとえ如来の霊格をもっていたにしろ、神の思想をこの世で読み取れるかどうかは別の話です。

それほど神の心をこの世で悟ることは難しいのです。

日本ならば西田幾多郎や高橋信次が神の思想を読み取っておりましたけれども、はっきり言って2名か3名ほどしかいないのです。

実際、神の思想を悟って説いたと言える人は、ここ200年でも世界中で6名~7名ほどしかいません。

日本には20万前後の宗教団体があったと思いますが、20万人の教祖がいるということですが、神の名を語るならば、ほぼ全ての教祖が詐欺罪を犯していると言っても良さそうです。

神の心と言いながら、実際神の心を何も悟っておらず、神の心でも何でもないものを神の心だと言って信じさせているからです。

神の教えとは、宇宙と自然界が示している神の教えですから、神の心というならばそれは必ず大宇宙や自然界の構造と仕組みから読み取って真理を説いているか、あるいは自己の潜在意識から般若の智慧を引いて説いているか、いずれかです。

実際はその双方を駆使して神の心は説かれるものです。

そのいずれかでもない思想は、神の思想ではなく、人間の頭脳で勝手に考えた人間の思想であって神の思想ではありません。

神の思想を読み取っている者は、例えばヘーゲルのように「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と残し、神の心とは大宇宙や自然界に現実化している実に現実的なものであり、大宇宙や自然界という現実的なものには、また神の心があらわれていると明確に悟っています。

だから人類が善ならば、善の世界が現実化し、人類が悪ならば、腐敗の世界が現実化するのです。

神の心とは、実に現実的なものです。

エマソンも同じであり、神の思想を悟りたる者は、自然は完全であり、神の思想は自然界に象徴されているのだという象徴主義を説きました。

高橋信次氏ならば、自然界は法のあらわれである。

人はこの法をもって思いと行いを正せよと残し、神の心は自然界にあらわれている事実を明確に悟っています。

神の心は、目の前にある大宇宙において現実化されており、その神の思想は自然界に象徴され、あらわれているのです。

誰も完全には読み取れませんけれども、少なくとも神の心と言うならば、必ずこの大宇宙と自然界から読み取っているのです。

神の心の淵源は、今後もそうですけれども大宇宙、すなわち神の存在に在るのです。

だから万法は永遠に神の心に帰一します。

仏典や聖書、あるいは法華経や聖典に神の心が帰一するのではないのです。

多様な真理は全て大宇宙に帰一し、精神の本質である神の心に帰一しています。

悟りが「天」であり、悟れば、その悟った内容を書物にあらわします。

悟りが「天」であり、書物が「地」で、永遠に天地一体です。

仏典を書いた者の「心」と聖書を書いた者の「心」、そして法華経を書いた者の「心」とコーランを書いた者の「心」は、その本質を見性すれば、一つの神の心に行き着くのであり、ここに万法は帰一するのです。

神の心は聖典に帰一するのではないのです。

仏典を書いた者の「心」と聖書を書いた者の「心」は、これだけならば矛盾します。

法華経を書いた者の「心」とコーランを書いた者の「心」は、これだけならばその個性ゆえに矛盾するのです。

ただその絶対的な矛盾は「心」の根源的本質を見れば、みな一つの神の心が宿っておりますので、その絶対矛盾は永遠に自己同一化されています。(絶対矛盾的自己同一)

神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎

神の心というのは、書物や聖典から引いてくるものではなく、大宇宙と自然界から引いてくるものです。

法華経や聖書が一言一句神の言葉なのではなく、大宇宙と自然界に象徴されている神の思想こそが一言一句、永遠に神の言葉なのです。

道端に咲く花一輪にも神の栄光はあらわれています。

一言一句、神の心が象徴されているからです。

だからエマソンも自然は完全だと言ったのです。

存在するもののその悉くに神の心があらわれているからです。

宇宙は神の心の表現であり、神の聖地です。

だから人類の中で自然界を嫌う者は一人もいないのです。

人間の作った文明を嫌う者はいるかもしれません。

しかして神の造った自然界を嫌う者は人類の中では一人もいないのです。

自然界を嫌悪する者は、かつて一人もいなかったし、今もいないし、今後も永遠にいません。

それは神そのものであり、そこには悉く神の心があらわれているからです。

人類の中で神を嫌悪する者は一人もいないということです。

自然界とは生命の見事な自己解明である : エマソン

自然界と宇宙には、人間生命の本質、すなわち神の心がよく表現されており、神の心が見事に解明されています。

ただ残念ながら大宇宙に表現されているその神の思想を読み取れる者と悟りが未熟なために読み取れない者とがいるだけです。

本来はみなこの神の心に永遠のタイムを通して向かっています。

神への信仰は本来強制的な義務なのですが、これを信仰の自由という選択の自由に落としてしまった点がこの文明の悲劇と言っていいでしょう。

それは神への信仰の重要性が理解できていないことを意味しているからです。

これはゼウス神の下では修正されるでしょう。

真っ当な宗教は宇宙のゴッドを拝ませますが、カルトは教祖を拝ませます。

真っ当な宗教は人間精神の本質を拝ませますが、カルトは名前のある方便の神を拝ませます。

真っ当な宗教は神我と良心を拝ませますが、カルトは教祖の自我を拝ませます。

真っ当な宗教は神の心そのものを拝ませますが、カルトは人間を拝ませます。

真っ当な宗教は宇宙がそうであるように「心」で物質を支配しますが、カルトは物質や金で「心」を支配しようとします。

カルトとは、神への信仰がないのに信仰を語る宗教ですから必ず教祖の独裁と自己都合になるため、自我を拝ませ、名称のある神を拝ませ、人間を拝ませるのです。

これはカルト宗教の普遍的な特徴です。

神道カルトと呼ばれるのもこの名称のある神を「天」に置いて無限に拝ませているからであり、「心」ではなく、「金」で常に「心」を支配せんとするからです。

神はその「心」で物質を支配しているのですが、カルトは逆に物質や金で「心」を支配しようとするのです。

だから神道カルトと言われるのです。

また名前というのは、他と区別するために便宜上つけられる名称であり、神は自他一体の意識活動ですので、他と区別する名前がないのです。

神は自他一体の大生命であり、他と区別するような名前はありません。

ただそれでは実在を説明できなくなるために人間精神の本質を「神」という名称で地球では呼んでいるだけです。

そしてこの人間精神の本質である神の心(主観)が、大宇宙(客観)を表現しました。

統一する者(統一)と統一せられる者(矛盾)とは一つであり、切ったら実在とはならず、自我となる。

統一即矛盾であり、双方は一実在の両方面です。

思惟する者(主観)と思惟せられる者(客観)とは一つであり、双方は一実在の両方面です。

真理(統一)と現象利益(矛盾)は一つであり、双方切ることはできず、真理即現象利益であり、双方共に一実在の両方面です。

これが人類に許されている唯一の神の繁栄法則なのです。

実在論を正確に読み取らなければ、神の繁栄はありません。

神への信仰とは、その必然的な意味を十分理解した人類によって今後の文明の基本に置かれるであろうが、あくまで一時的な混乱は避けられないかもしれませんが、未来においては神とゼウス神からの啓示による神の法によって人類は今後空前の繁栄を迎えることになる。

この繁栄は、実に神の心がもたらす繁栄です。

神への信仰が自由であるとか神を信じないとか全く愚かとしか言いようがない。

何も知らない連中だというのが良く分かる。

何も知らない連中が、世界を良化できるはずもなく、それは目の前にあらわれており、既に証明されています。

「天」に向かえば繁栄し、「地」に向かえば衰退する。

神道のように「天」に戦争を売ってきても衰退し、「地」に向かうことによって更に衰退が加速する。

救いようがねぇな、おい。

神の心に向かえば繁栄し、神の体に向かえば衰退するということだ。

神の心に向かえば善となり、神の体に向かえば悪となる。

善は繁栄し、悪は衰退する。

神がその心を永遠に「天」に置いているということは、人類は繁栄していけ、善となれ、進化せよと永遠に教えている。

にも拘らず、人類は神が永遠に「地」と定めているものに向かい、みずから「地」を目指し、「地」の獄につながれて腐敗し、最後は崩壊していく運命を選んでいる。

これも救いようがねぇな、おい。

神の体は「絶望」であり、神の心が「永遠の希望」である不変の事実を知った方がいい。

少しはお利巧さんの人類になり、赤ペン先生からバッテンをつけられなくなる。

この題はまだ続きます。

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