宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎
すなわち目の前に存在する大宇宙が神であるということです。
宇宙は神の表現体であり、神の体である : 高橋信次
大宇宙が神の体である限り、神の心も存在するわけです。
神の心は一人一人の心のど真ん中に存在し、人類各人はみなこの神の心とつながっています。
人間生命の根源的本質(主観)が、目の前の大宇宙(客観)を表現したということです。
だから主観と客観は永遠に合一している。
神と人類を切ることは永遠にできません。
人類は理解できていないようですが、人類と神は永遠に一体で生きているのです。
過去・現在・未来の全人類は、永遠に大宇宙と一体で生きているということです。
神は常に人類と共に生きているが、人間の方は神と共に生きていません。
これを「人類の無知」と言います。
自我はその知識・思考・概念・認識・情操、全て他の人間とは異なっており、相対的な性質を有しています。
神の体、いわゆる物質についてアインシュタイン博士は物質はイコール時空であり、時間と空間は相対的な性質をもっている事実を相対性理論で明らかにされました。
この神の体の相対性と人間自我の相対性は、大宇宙と人類は永遠に一体で生きておりますので、必ずリンクするのです。
嘘だと思うならば、自己のただ中で自分の自我を強化してみればいい。
すると人間自我は、自我の相対性と物質の相対性が同通し、必ず神の体(物質)の方面の支配を受けます。
神の体の方面の支配を受けるのは、大宇宙と人類は永遠に一体で生きているからです。
人類の誰であろうが、自己の自我を強化しますと神の体の方面の支配を受けます。
そして物質の属性を有した思想と行動しか取れなくなるのです。
神の心が「主」であり、神の体は「従」ですから、神への信仰なき自我は必ず神の体の方面の支配を受けておりますので、この物質の属性である「従性」に支配されます。
すると従的なものである地位や名誉、金銭の多寡や学歴、職歴や女性にやたら執着し、そういった思想と行動を取るようになります。
また物質の属性には「相対性」がありますので、神への信仰なき自我は物質の支配を受けて、この相対的比較観の中で生きるようになり、常に自己と他者を比較し、勝敗や優劣、上下や苦楽の両極端の中で右往左往していくことになります。
最近なら霊格の高低や有名な過去世と無名の過去世の相対的比較観の中で苦楽を作っていくのです。
また物質の属性には「矛盾」がありますので、自我を強化した信仰なき自我は物質に支配されておりますので、この物質を「天」に置いた現代文明のような「矛盾」から発した文明を作り上げ、放っておけば勝手に腐って滅んでいきます。
物質の属性である「矛盾」に支配されている人間は、その想念と行為の「矛盾」でもあらわれます。
それはその人間が自己の良心と神我を強化することなく、自我を強化したために自我の相対性と物質の相対性が同通し、物質に支配され、物質の属性である「矛盾」に支配されたからです。
宗教家でも「俺は偉い」なんて自惚れておりますと、この物質の属性に支配され、「矛盾」した言動を取るようになるのです。
そして思うことと行うこと、想念と行為の不一致と矛盾があらわれます。
これは神の心ではなく、神の体に支配されている証明です。
それはそこの教祖が自己都合で法を説いているからそうなる。
だから自我の相対性と神の体の相対性が同通し、物質に支配され、物質の属性である「矛盾」に支配された。
その結果、想念と行為の矛盾が看過できないレベルであらわれてくる。
これも大宇宙が善人であれ、悪人であれ、全てを支配している証明です。
生き神信仰などという愚かな信仰に耽っているような教祖は、みなこの物質の属性に支配されており、物質の奴隷として生きています。
地獄に堕ちたければ生き神信仰をすればいい。
100%の確率で地獄に行けます。
万教は神の心に帰一しているのであって、そこの教祖の相対的な自我に帰一しているのではありません。
もう、人類は神の心を誤解してはならないのです。
神とは大宇宙の創造主であり、その神の心と神の体、この精神と物質で過去・現在・未来の全人類を永遠に支配している存在のことを言います。
西田哲学では、神の心と神の体の一体的関係を本体と現象の関係であると残されています。
神とは一部のクリスチャンが主張するような芸術家とその作品の如き関係ではなく、西田哲学にありますように本体(神の心)と現象(神の体)の関係です。
宇宙が神だからです。
宇宙の外に独立せる神とは架空の神であって妄想の神に過ぎません。
そして本物の神という限り、それは全てを永遠に幸福で支配しているのです。
イエスであろうが、アラーであろうが、釈尊であろうが、諸神霊の誰であろうが、宇宙人であろうが、何であろうが、全宇宙に住み、修行している限り、全ての神の子達を幸福で支配しています。
そこの教祖が目の前に存在する大宇宙を創造した存在でなければ、その教祖は神ではないのです。
宇宙は神の体であり、宇宙の存在が神の存在ですから、神が人間のような肉体をもつことなどあり得ないことなのです。
人間としての肉体をもっている限り、それは修行者であり、それだけで既に神ではないということです。
如来であろうが、大如来であろうが、そういうことです。
良くて人間と神との中間者であるハイスピリットか人格神というまでです。
神ではありません。
それは今後、人類が信ずるべき信仰の対象としての神ではないのです。
唯円か誰かがあの世で述べていたと思いますが今後、神への信仰とはこの大宇宙の神秘と叡智に向かいます。
大宇宙の神秘と叡智を信ずることを神への信仰というのです。
大宇宙が神ですから、過去・現在・未来の全人類を支配しているのみならず、全宇宙に住する全ての神の子達を永遠に幸福で支配しているのです。
人類は、永遠に神と一体で生きておりますから、相対的な自我を強めれば、同じく相対的な神の体(物質)の方面に支配されますが、自己の神我か良心を強めれば、同じく神の心の方面に支配され、神の心の属性のままに生きるようになり、神への信仰によって全世界を良化していく人類になります。
神への信仰の覚醒とは、基本的にはこういった意味をもっています。
神の心を「天」に置くことを神への信仰と言い、神の体を「天」に置くことを偶像崇拝と言います。
現代は偶像崇拝の文明です。
実に傲慢な文明です。
ここまで傲慢になった人類というのは、歴史の中でも珍しいのではないか。
神への傲慢とは、相対的なものを絶対化し、神が永遠に「地」と定めているものを「天」に置くことです。
神の体を「天」に置けば、人類は神の体に支配され、神の心を「天」に置けば、人類は神の心に支配される。
何故、支配されるのか?
大宇宙と人類は永遠に一体であり、神と人類は永遠に一体で生きているからです。
神の方は永遠に人類と一体で生きておりますが、人類の方は神と一体で生きていません。
だから自己の自我ばかり強化して、神の心から遠い、神の体の方面にばかり支配され、神の心から遠い世界を作って、その汚物の世界で生きている。
ではどうして人類は神の心から遠い世界を作ってしまったのか?
神への信仰を失ったからです。
ただそれだけの話です。
何故、全ての諸神霊が人類に対して神への信仰を説き、その信仰への覚醒を促すのか。
人類のみなさんは良く分かっておられないようです。
世界は人類が神への信仰を失ったがゆえに腐ったのです。
見たところ今後も腐り続けるでしょう。
如何なる人間であろうともその相対的な自我を強めれば、同じく相対的な神の体(物質)の方面に支配され、自己の良心と神我を強めれば、同じく神の心の方面に支配されます。
神の心と神の体、この大宇宙と人類は永遠に一体だからです。
人間如きが切り離せるような存在ではないのです。
だから神に支配されるのです。
と言いますか永遠にそうなっています。
神の体に支配された自我は、物質の属性のままに生き、神の心に支配された神我は、神の心の属性のままに生きることになる。
神の心の属性とは、言うまでもなく正義であり、愛であり、慈悲であり、叡智であり、真善美であり、真心であり、優しさです。
神の体に支配されている者とは、今の腐った人類と世界を見れば分かります。
神への信仰を失った人類は、必ず相対的な自我のままに生きているのです。
だから必ず神の体(物質)に支配されています。
相対的な富を「天」に置いた資本主義に新自由主義、唯物論で物質を「天」に置いた共産主義、人民共通の利益と称して相対的な利益を「天」に置き、神から遠い者達を神の神殿において主権者と称して「天」に置いている民主主義、全て神の体を「天」に置く偶像崇拝を犯し、神への傲慢に耽っている。
神の体を「天」に置くとは、物質を「天」に置いているということであり、「矛盾」を「天」に置き、「矛盾」から発している文明であり、世界であるということです。
これだけ神の心と真逆の世界と文明を作っていれば、腐敗するのは当たり前です。
諸神霊は現代では、60%もの神の子達が地獄に堕ちていると述べておりましたが、至極当然の話であって腐るべくして腐っている。
では人類と世界は何故、神の体を「天」に置いてしまったのか。
神への信仰を失ったからです。
未開の土人でもできる神への信仰を失ったがゆえに、たったそれだけのことで、まさに自動的に全世界は腐敗していったのです。
ヘーゲルではありませんが、実に神の心とは現実的なものです。
現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的です。
神の心の通りにしませんと現実の世界は必ず腐り、人間の精神もまた多くが地獄に引きずり込まれてしまう。
つくづくこの世界は神の造られた世界なのだなと得心がいきます。
神の心を可能な限り解明し、その正確な神の御心の通りに文明と世界を築かなければ、世界と人類は必ず腐るように造られているのです。
世界の構造と仕組みがそうなっているのです。
そして神の心と神の体の属性の決定的相違とは、潜在意識(あの世)に持って帰ることができるのか、あるいはできないのかという点です。
富はあの世(潜在意識)に持って帰ることはできませんが、正義はあの世(潜在意識)に持って帰ることができます。
国益はあの世(潜在意識)に持って帰ることはできませんが、愛はあの世(潜在意識)に持って帰ることができます。
土地や財産はあの世(潜在意識)に持って帰ることはできませんが、慈悲はあの世(潜在意識)に持って帰ることができます。
自己の肉体はあの世(潜在意識)に持って帰ることはできませんが、自己の心はあの世(潜在意識)に持って帰ることができます。
地位や名誉はあの世(潜在意識)に持って帰ることはできませんが、神の属性の全てである真善美はそのままあの世にもって帰ることができます。
あの世(潜在意識)とは、「永遠」の世界です。
正義や愛、真心や優しさが、そのままあの世(潜在意識)に持って帰ることができるという事実は、それは「永遠の価値」を持っていることを意味しています。
永遠になくならない価値であるということです。
そしてこの「永遠」のみが全世界を浄化することができるということです。
多くがなくなる価値のために生きておりますので、いずれその生き方通りなくなっていくでしょう。
それは存在としても、また人の記憶からもなくなっていくでしょう。
それはその者が「なくなる価値」、あの世にもって帰ることができないもののために生きたからです。
人間の肉体も、みないずれ「死」を迎え、「なくなっていく」存在です。
しかしてその「なくなっていく」存在である肉体の生存のために水と食料が必要となり、そのために富を「天」に置いています。
「なくなっていく」肉体を保存維持するのは、正義ではなく、愛でもありません。
水と食料だからです。
人間とは、果たして心なのか、肉体なのか。
この人間の定義も必要ですが、それは人間がその思想によって定義するのではなく、目の前の大宇宙が永遠に人間を「霊」であり、「心」であり、「人格性」であり、「精神」であると定義づけています。
人間が人間とは何かを定義することはできません。
人間存在を永遠に定義できるのは大宇宙、すなわち神のみである。
神は大宇宙を主客合一の法則に基づいて創造することを通して人間を「霊」であると永遠に定義づけています。
人間を肉体と定義し、そう思い込んだ時、人は「永遠の価値」を失い、その永遠の生命までも失う。
人間を肉体と見た時、その肉体を保存維持するのは「永遠の価値」である真善美ではない。
水と食料です。
人間を精神と見た時、その精神を保存維持するのは水や食料ではない。
神の真善美である「永遠の価値」です。
あの世に持って帰ることのできる「永遠の価値」が、我々の精神を保存維持している。
つまり我々人類の心もまた「永遠」であるということだ。
そしてそれを立証している世界こそが、あの世(潜在意識)、いわゆる多次元世界ということです。
あの世(潜在意識)とは、永遠の世界です。
現代の人類の間違いは、人間を肉体という物質で見ている点です。
元々が「永遠の生命」をもつ人間が、永遠なるものではないものに価値を置き、なくなるものを「天」に置いているがゆえに本来、「なくならない生命」の多くが地獄に堕ちてなくなっている。
永遠なる心をもつ人間が、永遠でもなく、あの世にも持って帰れない、いつか必ずなくなるものによって生きんとしている点が現代人の最大の間違いと言っていいでしょう。
永遠なる心は、永遠なる価値によって生き、有限なる肉体は、有限なるものによって生きる。
人の心は、神の心によって生き、人の体は、神の体によって生きる。
ここでも大宇宙と人間は一体で生きている関係が出ています。
永遠なる心は、永遠なる価値によってしか生きることはできない。
人の心は神の言葉の一つ一つによってしか生きることはできない。
何故、神の心によってしか人の心は生きられないのか。
それは人間自身、神の子自身が永遠の心をもっているからであり、永遠の心をもつ我々人間は、永遠の価値である神の心によってしか生きることはできないからです。
そして我々を生かすその「永遠の価値」こそが、唯一全世界を浄化することができる。
人間を神と共に生きる「永遠の存在」として見ることができた時、人類と世界の浄化が始まるでしょう。
全世界を救うのは「永遠」です。
「永遠」とは神の別名であるから、最終最後に地球を救うことができるのは、この神であるということです。
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