世に絶対的なものはなく、完全なるものもないという方がいますが、真理とは神の心ですから絶対的なものです。
相対的な真理というものはありません。
真理というならば、それは必ず絶対的なものです。
GLAの故・高橋信次氏が真理を「神理」と書いた理由も、真理と書けば「真」に対する「偽」、「偽」に対する「真」があり、真理とは相対的な価値のように誤解されるがゆえに真理の絶対性を伝える意図で「神理」と記載していました。
当サイトでは、「真理」と書こうが、「神理」と書こうが、英語に訳せば、全て同じ「Truth」の訳になるため、おかしな語呂合わせはせず、普通に真理と書いています。
ただ真理とは絶対的な価値を説くものであることは事実であり、相対的な真理というものはありません。
相対的な善悪を説いて許されるのは8次元の菩薩までであり、彼らはまだ真理を人様に説くことは許されていない。
これはあの世でイエスも言っていたと思いますが、まだ自分が悟っていないことを人に教えると言うことは、人心を誤った方向に導くことになるからです。
特に天界ではこれが厳密に守られていることが明らかになりました。
この世では猫も杓子も神の御名を語り、神の心と言って大衆をたぶらかしておりますけれども、天界では一人もそういった不届き者はいませんでした。
これは幸福の科学でも1980年代の初期の霊言で明らかになっておりますが、菩薩であろうが、梵天であろうが、その質問が如来の法に関する質問になれば、「まだ私はその質問に答える資格がありません」と言って例外はありませんでした。
さすがに霊天上界だなと感心しましたけどね。
真理とは神の心ですから如来にしか説けないのです。
現代で神の御名を語って真理を説いていいのは大川さんと当サイトぐらいでしょうね。
それ以外の教祖の全員は詐欺罪を犯しているということです。
大川さんの方は、少しおかしくなっておりますが資格はある。
初期、高橋信次氏も言っておりましたが、大川さんに大宇宙の構造と仕組みを読み取り、多次元世界の構造と仕組みまで読み取れと言っていました。
菩薩や梵天を相手に宇宙の構造や仕組みを読み取れとは言いません。
彼らはまだ宇宙即我の悟りをもっていないために読み取れないからです。
特に今回の光の天使は出来が悪いからね。
それを読み取れと大川さんに言っていたということは、それを読み取る能力を持っているということであり、少なくとも如来以上の霊格をもっている方であることは間違いありません。
だから資格だけはあるわけです。
初期の霊言でそれは証明済みであり、10次元宇宙界の霊格をもっていなければ10次元宇宙界の神霊の霊言は降ろせないのです。
いや、10次元のイエスは聖書で8次元のパウロやペテロに話しかけているではないかという向きもあろうけれども、それは世間話しぐらいならできますよ。
地獄界にまで行って悪魔とも話をしているぐらいですからね。
正確に言えば10次元宇宙界の悟りの内容は、同格の者でなければ降ろせないということです。
10次元の悟りを霊格や悟りの低い者に降ろしても理解できず、それでも降ろせば誤解を生むからです。
その典型が皮肉なことに当の大川さんがそれを表現してしまっているのです。
例えば「この世とあの世を貫く幸福」を説いておりますけれども10次元宇宙界の仏陀は、天地一体の悟りの意味で降ろしているのですが、その教祖の悟りが低ければ、それを理解できず、それでも降ろせば間違った解釈をし、それを人に伝えて誤解を生んでしまうのです。
「この世とあの世を貫く幸福」を幸福の科学では、天地一体の悟りから説いておらず、正しき心から利益にすり替えて説いてしまっているのです。
すなわち「この世とあの世を貫く幸福」とは、この世的に成功者となり、富や地位名誉をもってそのままの状態で霊天上界に帰天していくという意味で「この世とあの世を貫く幸福」を説いています。
それは幸福ではなく、快楽です。
あの世の10次元にいる釈尊の悟りの内容を降ろしても、地上人間の方が霊格や悟りが低いと理解できず、間違った解釈をし、誤解して説いてしまうのです。
だから原則、10次元宇宙界の神霊は10次元の霊格をもっている者に、9次元如来界の神霊は9次元の霊格をもっている者に啓示を降ろしていきます。
そうでなければ真理を誤解させることになり、これは生命にとって最も危険な行為になるからです。
利益にすり替えて説いているということは、正義から遠く、利益に近い悟り不足が出ているということです。
その結果、成金趣味まがいの成功自慢や富の自慢に走り、利益や富を「天」に置いて天地が切られ、道を逸れていったのです。
幸福よりも快楽に近い悟り不足です。
正しき心でなければ、あの世とこの世は貫かれないために初期「正しき心の探究」を仏陀は言わせていたのです。
それを人間の方の悟りが低いためにこの仏陀の有難い教えを理解することができず、正しき心から利益へとすり替えて説くことにより、人さまを誤解させていくことになったのです。
このように10次元宇宙界の悟りを降ろしても、その方の霊格や悟りが低いとその悟りの内容が理解できず、誤解していき、それがまた人心の混乱を生むのです。
正義よりも利益に近い悟り不足が原因です。
神我よりも自我に近い悟り不足のため生き神信仰に走って自我を拝ませ、統一よりも矛盾に近い悟り不足から法が矛盾だらけとなり、その矛盾をそのまま信じさせれば、そこの信者の方も悟ることができなくなる。
神我が「天」であり、自我は相対的な性質ですから「地」で、永遠に天地一体です。
神我から遠く、自我に近い悟り不足がありますと、この「地」である自我を「天」に置き、生き神信仰をするようになるのです。
生き神信仰とは、その教祖の上に崇拝すべき存在はないという信念の自己表明であり、堂々と自分は無神論者であると自己表明してしまっているのです。
そうやって自惚れれば、自惚れるほど低い世界に置かれることになる。
おのれを高こうする者は低うせられ、低うする者は高こうせられる。
おのれを高こうする者は低い世界に置かれ、おのれを低うする者は高い世界に置かれる。
「地」である自我を「天」に置くということは、「地」に向かっているということであり、過剰に向かえばそこは地獄となる。
これが30年間一貫して幸福の科学がおかしくなっていった原因です。
一貫してみずから「地」に向かっているのです。
「地」と「天」をすり替え、間違えています。
ある意味、今の幸福の科学は現代世界の縮図でしょう。
世界も「地」を「天」とすり替え、人類一丸となって「地」に向かっています。
ただ「地」である自我を「天」に置きますと、自我は相対的な性質しかありませんので、同じく相対的な物質と同通し、悪魔のように神の体(物質)の支配を受けることになります。
絶対的なものは、絶対的なものと通じ、相対的なものは、相対的なものと通じる。
我々人類は、永遠に大宇宙と一体で生きておりますので、誰であろうが自我を強めれば、即座に神の体の方面の支配を受け、神我を強めれば、即座に神の心の方面の支配を受けます。
そして神の体に支配された自我は、物質の属性をもった思想と行動しか取れなくなる。
物質が意味する属性とは相対性であり、この相対的なものを「天」に置いて拝むようになる。
富を「天」に置いた宗教ビジネスに走ったり、御利益祈願という御利益を拝ませるようになる。
初期の高橋信次氏もあの世で言っていたはずです。
現世利益を売りものにする教祖は堕地獄だ、と。
とくに浄霊中心の宗教、あるいは祈り中心の宗教、あるいは、まあ、とくにね、地上のみなさん、現世利益を売りものにする宗教、これらの教祖は、ほとんど地獄に行っているものと思ってまちがいありません。
現世利益を売っとる者です。
こうすれば病気が治るとかね、こうすれば、すべからく不幸から脱せるとか、こうすれば、大金がはいってくるとかね。
こんなことを言っているのは、ほとんど地獄です。
まちがいありません。
ですから、地上の宗教の正邪をわけるときに、現世利益を中心に説いておるかどうかね、これを、とくに気をつけねばいかん。
現世利益を中心に説いている宗教は、ほとんど、だいたい、警戒してまちがいありません。
そうじゃなくてね、あえて、そんなに、人がやらないような、心の教えを説いておるかどうかね、この心の教えを説いておるのが、ほんものなんですよ。
また物質に支配された自我は、この相対的比較観から自他を比較し、優劣と上下の両極端、苦楽と左右の両極端に偏り、中道を外れていく。
生命が主、物質は従ですから、自我を強めた教祖はこの「従性」に支配されておりますから、この従的なるものに支配され、地位名誉、有名人著名人、学歴職歴主義に陥り、心をなくしていく。
また生命は質であり、物質は量を意味しておりますので、自我を「天」に置いた教祖は、この「量性」に支配されておりますから、やたら量に拘り、やたら量を誇る思想と行動を取ります。
また自我を強めた教祖、あるいは自我に近い悟りの低い者たちは、必ず神の体に支配されておりますので、この物質の属性である「一時性」に支配されています。
すると一時的なもの、時のアイドルだの俳優や女優だの、映画や大河ドラマだの、このどうでもいい一時的なものにやたらと拘り、俳優や女優の名前なんかもよく知っており、真理よりも、やたら詳しくなる。
そしてみずからも芸能プロダクションを作り、一時的なものを一生懸命作ろうとする思想と行動を取るようになります。
実相不変、現象無常ですから、自我を「天」に置いて慢心した教祖は、物質も同じく「天」に置かれておりますから、この無常性に支配されています。
すると法も現象無常でコロコロと変わり、霊格もコロコロと変わり、過去世もコロコロと変わるお天気さんになる。
GLAでは、猫の目のようにコロコロと気分の変わる人を「あの人はお天気だ」と言っていました。
現象無常ですから、先で言ったことと後で言ったことが違ってくるわけですから、この物質の無常性から法の「矛盾」があらわれます。
そしてその矛盾をそのまま信じさせれば、そこの信者の人も悟れなくなる。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
この通り生きなさいと神は自然界と宇宙を通して人類に生き方を教えているのですが、この通り生きられず、自我のままに生きて神の体に支配され、「地」である物質を「天」に置き、眼前の大宇宙から離れていく。
神から離れれば全ての存在は悪になるのです。
また物質の相対性は、主観と客観を相対的に分離します。
神の心を「天」に置かず、神の体を「天」に置いている者達は、この神の体(物質)の支配を受けておりますので、主観と客観を分けます。
宇宙は神の心の表現体であり、神の聖地です。
神の心(主観)がそのまま大宇宙と自然界(客観)に表現されており、永遠に主客の分離はないのです。
神は永遠の正直者です。
信仰なき自我は物質に支配されておりますので、これをその相対性から分けるのです。
すると言うこと(主観)と行うこと(客観)、想念と行為の不一致が露骨に出てくる。
神は永遠に主客を分けるなと主客合一の法則を通して、我々人類にその生き方を教えてくれているのですが、生命よりも物質に近い未熟者はこれを分ける。
そして何か欲しいものだから本音と建て前を分ける薄気味悪い人間になっていく。
ノルマを課すなど「奪う愛」以外の何物でもないが、口では「与える愛」となり、言うことと行うことが見事に分離してくる。
全ては他人のせいだと思っている(主観)くせに、口では全ては自分の責任なんですよ(客観)と言うことができる。
主客合一の悟りは、如来の悟りであり、神の永遠に変わらない法則の一つです。
如来は主客合一の法則のままに生きられるが、そうでない者は生きられず、模範にすることしかできない。
自我を「天」に置けば、この物質の属性を身につけ、主客が分離してくる。
主客合一が善。
主客分離が悪。
これも生命から遠く、物質に近い悟り不足です。
このノルマを課す「奪う愛」も結果主義(物質)であり、数字と結果を目的としており、人さまを悪魔呼ばわりするのもこの結果主義から来ている。
物質宇宙は神の表現結果であり、物質の属性には結果主義がある。
ノルマを課された方は、主に4種類の人間としてあらわれる。
一番目は、自己が裕福なために課されたノルマを自腹で払うことができる人。
二番目は、そのノルマをこなさなければ首になりますので無理をしてまでノルマをこなそうとする人。
本当は同じ信仰をもつ仲間を幸福にしたいのだけれども、ノルマをこなさなければ首になり、妻や子供を持つ者は露頭に迷うことになりますから、何としてもノルマをこなさなければならない。
元は愛情深い温和な正直者でも、これによって同じ信者から収奪していくというエゴイズムの傾向を心に身につけていく。
正直者がエゴイストになっていくのだ。
こうして善人が悪人になっていく。
与えようとして奪うことになるのは、ノルマを課すこと自体が「奪う愛」だからです。
だからその通りに収奪していく傾向になる。
三番目は、裕福でもないために自腹でノルマをこなすこともできず、収奪することもまた難しい時、今度は嘘の数字を上げてノルマをこなしたように見せかけようとする者が出てくる。
こうして正直者が嘘つきになっていく。
善人が悪人になっていくのだ。
四番目は、元々が善人ではあるが、裕福ではないために自腹でノルマを支払うこともできず、善人のために人から収奪することもできず、善人のために嘘の数字を捏造することもできない。
それでも仏陀との約束を守ろうとしてノルマを必死でこなそうとするが、こなせない時、その仏陀との約束を守れなかったことを悔いて、その善人は自殺する。
こうしてたった一人の慢心によって善人が悪人と化し、心が壊れていく。
全てはたった一人の教祖の慢心であり、自我を「天」に置いたために物質に支配され、この物質の属性である結果主義の数字主義に陥り、ノルマを課す奪う愛によって善人の心を壊していく。
大宇宙の絶対的権威とは、生命と物質の権威のことであるが、このイエスや釈尊すら支配しているから言っている。
過去・現在・未来の全人類を一人残らず、この神の心と神の体、生命と物質が正当な善悪で支配しているから絶対的な存在だと言っている。
つまり宇宙が神だということだ。
今回の救世運動の本質は、「神約民主論」国家の実現を通してこの大宇宙の絶対的権威を確立することです。
すなわち真の神の絶対的権威です。
これを実現すれば、今回の救世運動は一応終わりということです。
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