仏教には2600年、キリスト教には2000年、溜まりに溜まった埃とチリに塗れています。
この長きに渡ってつけられてきた埃とチリは、如何ともし難く、八万四千の法門すべての埃とチリを払うことは個人では不可能でしょう。
1976年までの高橋信次氏時代のGLAでも、仏教の埃とチリを払い、次にキリスト教の埃とチリを払おうとしたところでご逝去されています。
それも仏教の埃とチリを払ったというより、その埃とチリによって見えなくなっていた釈迦仏教の本質を掘り起こし、GLAの時は釈迦仏教の再現をしたと言っていいでしょう。
埃とチリに埋もれていた2600年前の釈迦仏教の本質を再現したわけです。
そして釈迦の反省法を「宇宙即我」の悟りから発展、完成させています。
高橋信次氏時代のGLAの教えは、釈迦の反省法を発展させつつ、同時に見事に反省法を完成させた点にその真骨頂があると言えるでしょう。
そのGLAも高橋信次氏死後は、その仏教経典の字面から「あのデタラメの高橋仏教が」などと仏教の埃とチリから言われる始末です。
埃とチリのくせに。
結局、高橋信次氏の法は死後、仏教の埃とチリによって再び埋もれてしまったのです。
2600年間溜まりに溜まった埃とチリは、如何ともし難く、これはもうどうしようもないです。
埃とチリを信じ込んでいるのですからどうしようもありません。
だから釈迦の真意と核の部分だけを再現したのでしょうが、高橋氏の死後は法の化石化を招き、その反省法も埃とチリの中に再度埋もれ、現在に至っています。
お弟子さんの方も、彼の悟りを誰一人理解していない。
まさにご愁傷さまでした。
お寂しゅうございましょう。
キリスト教も同じであり、2000年間溜まりに溜まった埃とチリは、特にキリスト教は信仰を強調しますので、その信じ込み方は尋常ではありません。
これは本人もあの世で言っていたと思いますが、「私は処女から生まれたわけではなく、正常な夫婦の営みから生まれました」、「私は神の一人子ではありません。すべてが神の心を宿した神の子です」、「私は一点の罪もなく死んだわけではありません」と本人がいくらあの世からキリスト教の教義についている埃とチリを払っても、それを信ずるクリスチャンがどれだけいるでしょう。
埃とチリを信じ込んでいるわけであり、どうしようもないわけです。
イエス本人が、いくら否定してもこの世のクリスチャンには通用しないわけです。
もう、信じ込んでいるのです。
これが2000年、あるいは2600年の重みなのです。
信仰によってあの世の「天」とこの世の「地」を分けているのです。
信仰とはあの世の「天」とこの世の「地」を同通させる唯一の心的行為ですが、既存の古い宗教では、むしろ信仰を通して天地を分けているのです。
だからあの世とこの世を貫く信仰を説かなければならず、それが本来の神への信仰だったのです。
従って盲信と狂信とは、あの世の「天」とこの世の「地」が貫かず、天地が切れている信仰を言います。
特に現代では地獄界の方に信仰の針が向いている宗教の方が多いでしょう。
正当な神への信仰とは、あの世の「天」とこの世の「地」が貫かれている信仰を指します。
信仰の針が、正しき心に向き、真の神の心に突き刺さっている信仰です。
天地が貫かれている天地一体の信仰を神への信仰と言い、天地が分離している信仰を盲信、あるいは狂信と言ってもいいでしょう。
既存の宗教は大抵、神の御名を語って自己の盲信と狂信を正当化しているのです。
だからそういった信仰は、必ず「天」と通じていませんから、善霊とも通じておらず、通じていないから啓示もインスピレーションも受ける取ることはできません。
信仰には、必ず悟りが伴います。
悟りを伴わない信仰を盲信、あるいは狂信と言ってもいいでしょう。
とにかく神を信じればいいというものではない。
盲信と狂信は、神に最も近いように見えながら、神から最も遠い行為です。
この民は口先で私を敬うが、その心は遠く、私から離れている。マタイ15-8
これが盲信と狂信です。
ヘーゲルという哲学者も述べていますが、今日我々が神から要請されているのは、単に神を信ずるというのではなく、具体的に神の心を認識することを命じられている。
この点はゼウス神もあの世で言っていたと思いますが、「信ずるなどでは生ぬるい」、と。
子が親を信ずる、それだけで親が満足すると思うか。
われは承服せぬ、と。
その親の心を知らなければならない。
信ずるなどでは生ぬるい、と。
神の心を思想として、あるいは普遍的な価値として知らずに信仰すれば、それが盲信、あるいは狂信となる。
信仰の極点には、妄信や狂信に似た境地もありますが、それは単なる盲信や狂信ではない。
神の心を探求しても、探求しても奥があり、神の心を知っても、知っても、無限であり、悟っても、悟っても、完全な真理が分からない。
まさにヤコブ・ベーメが言ったように、神の心というのは「無底」であり、底がない。
ゆえに信仰の極点にいけばこうなる。
我は、神を知らず、我ただ神を愛す、またはこれを信ずという者は、最も能く神を知りおる者である。: 西田幾多郎
神の心の探求の果てにはこの境地がある。
これは単なる盲信や狂信とは違います。
例え「天」と同通しても、その完全な神の心は、高々80年の肉体人生ぐらいで悟れるものではない。
特に埃とチリに塗れた宗教的教義とその世界において、神の心を悟ることは至難の業と言ってもいいでしょう。
キリスト教では、イエスが「人類の罪を背負って死んだ」と信じ込んでいる方もいますが、これも2000年の過程でついた埃とチリの一つです。
これはユダヤ教の按手礼という迷信から派生した教義であり、当時羊やヤギの背中に人が手を置きますと、その人の罪が家畜に乗り移ると信じられていました。
羊の背中に人が手を乗せたぐらいで、その人の罪が家畜に乗り移るわけないのですが、その後その家畜を殺しますと、その人の罪が完全になくなったことになっていたわけです。
ユダヤ教の、単なる迷信です
するとほら、罪がなくなった、ほら、すっきりしたって、ひとっ風呂浴びてるんじゃないんですから。
この家畜をイエスにすり替えた教義なのです。
人類がイエスの背中に手を置きますと、人類の罪がイエスに乗り移り、その後イエスを十字架でぶっ殺すわけです。
すると人類のみなさんは、ほら、これで罪がなくなった、ほら、すっきりした、ほら、無罪になった、と言っているわけです。
だから迷信なのです。
十字架にかかるというのは、誠にお気の毒なことだとは思いますが、イエスが十字架で流した血液の量と他人の罪には何の関連もありません。
イエスが十字架上で、何リットル血を流そうが、他人が犯した罪とは何の関連もないのです。
大体、自分が犯した罪ぐらい自分で反省しなさいよ。
ところがクリスチャンの中には「イエス様が、我々の罪のために死んでくれた。
我々の罪を背負って死んでくれた。」と涙を流して有り難がる人がいるのです。
だから世界最大の血液信仰と言われている。
しかし偽りというのは、どこか悲しい矛盾があるものです。
エホバの証人という背後で悪魔がコントロールしている宗教がありますが、輸血拒否をするのは、このクリスチャンの誤った血液信仰をおちょくっているのです。
イエスが十字架で流した血液を信じているからです。
イエスの流した血と人の犯した罪には何の関連もありませんが、輸血拒否をさせることでキリスト教信仰をバカにしているわけです。
お前らの信仰など、所詮そんなものだ、とサタンがおちょくっているわけです。
このサタンは、盲信しているキリスト教徒とは違い、そのキリスト教信仰の本質をよく知っています。
だから輸血拒否などというわけのわからんことをしている。
輸血して助かる命ならば、助けなければならない。
当たり前のことですが、宗教的教義というのは、そんな当たり前の良識すら分からなくさせる恐ろしい側面があります。
神道系は、この2000年前のイエスの十字架を「そりゃ、ない」と言っています。
2000年前、イエスが人類の罪を背負って、十字架にかかり、人類はイエスのおかげで無罪になったのであろう。
ほら、人類はすっきりした。
ほら、人類は無罪になった。
なのに2000年経った今では、やはり最後の審判で俺たち人類は裁かれ、火と硫黄の中に投げ込まれるのか、と。
神さまは、何を不自然に俺たちに怒っているんだ、と。
「そりゃ、ない」と。
では何で十字架にかかったのだ。
結局、俺たち人類は裁かれるんじゃないか。
最後の審判で結局は裁かれるのならば、イエスが十字架にかかろうが、かかるまいが、どっちにしろ俺たちは、最終的には、みな裁かれ、火と硫黄の中に投げ込まれるんじゃないか、と。
何のために十字架にかかったのだ。
十字架にかからなくても、どうせ俺たちは全員、最後裁かれるんでしょうが。
何のために十字架にかかったんだよ。
イエスが十字架にかかろうが、かかるまいが、どうせ人類は最後、ぶっ殺されるんだろうが、と。
「それは、ないだろう」、と不満を言っていました。
こういった矛盾というのは、埃とチリの特徴なのです。
まずイエスであろうが、誰であろうが、人さまの罪を背負える者は一人もいないという事実を知ることです。
もし背負ったというならば、まず地獄界はありません。
地獄霊30億の罪をイエスが背負えばいいからです。
地獄界は一発解消です。
人さまの罪を背負える者が一人でもいるならば、地獄界は存在していないと言っているのです。
悪魔の罪もイエスが背負ってやればいい。
悪魔すら存在していないはずです。
人さまの罪を背負えるんならね。
ハイスピリットが地獄霊で苦労することもないでしょう。
にも拘わらず地獄界が存在しているのならば、それはイエスに人の罪を背負う能力はないということなのです。
地獄霊は、生前の自分の罪を自分で背負っているから今、地獄にいるのです。
イエスが背負っているわけでも、背負えるわけでもありません。
従って地獄霊は、生前の自分の罪を自分で反省するまで地獄界から出ることはできない。
また人類の中で一人でも他人の罪を背負える者がいるとすれば、まず神を信ずる必要はありません。
真理を探究する必要もなければ、正義を実現する必要もありません。
神の心を悟る必要もなければ、理解する必要もない。
その罪は、イエスが背負ってくれるそうですから、正義や真理を実現する必要性はなく、神を信ずる必要性もなくなる。
何もする必要がないわけです。
埃とチリには、こういった悲しい矛盾があります。
会ったことも、見たこともないアダムとイブの罪を引っ張り出してきて、彼らが原罪を犯したから、自分には罪があるんだ、罪があるんだ、と罪の子の思想を信じる盲信と変わらない。
それはアダムとイブは、確かに罪を犯したのかもしれませんが、アダムとイブの罪とあんたの罪には何の関連もないと言っているのです。
自分の悟りは、自分で磨くしかなく、自分の罪は、自分で反省するしかない。
大体、自己が犯した罪を、イエスや他人さまに背負わせようとしなさんなと言っている。
そんな冤罪。
自己の罪を人さまに背負わせようとするなんて冤罪以外の何ものでもありません。
自己の罪を人さまに背負わせて罪悪感はないのでしょうか。
覚せい剤を打って、自己の良心に麻酔をかけ、眠らせることをおやめなさいと言っているのです。
信仰とは良心の覚醒であって、良心の麻痺ではないのです。
逆です。
そのような行為は、いずれ自己の心に対して自分が真面目に向き合うという真摯な態度を失わせるものです。
なのに「イエスさまが、我々の罪のために死んでくれた」なんて変なこと言いながら泣いてんの。
当時、イエスの指導霊をしていた高橋信次氏も生前言っていたけれども、イエスは我々の罪のために死んだのではなく、そのイエスの肉体は悪魔に滅ぼされたのです。
生命の方は最高霊域に昇天しましたけれども、肉体という物質の方面は悪魔にやられたというのが実際の事実です。
悪魔は無茶苦茶しますからね。
イエスは何をしても絶対殴らない、絶対裁かない、絶対許し、絶対愛すると初めから分かっているわけですから、無茶苦茶します。
無茶苦茶してもイエスは殴れず、殺せず、裁かないわけですから、いくらでも悪魔は無茶苦茶できるのです。
それでも現実は悪魔との闘いというのは厳しく、結局はイエスでもパリサイ派やサドカイ派の律法学者を裁いています。
しかして最後は結局、肉体の方面は悪魔に滅ぼされています。
高橋信次氏が生前言っていたのは、「確かにイエスの肉体は悪魔に滅ぼされたけれども、その愛の精神は悪魔に勝利し、世界中に広がった」、と言っていました。
キリスト教では、「処女から生まれた」、「イエスは神の一人子」、「イエスは一点の罪もなく死んだ」、「聖書は一言一句神の言葉」、「イエスは人類の罪を背負って死んだ」、「人はただイエスを通してのみ救われる」等々、2000年間つけられている埃とチリは如何ともし難く、キリスト教世界の中では、もはや修正はできないだろうと思う。
イエスを通してのみ救われるのではなく、自己の生命の本質にある神の心を通してのみ救われるのです。
一人一人は無宗教でもいいけれども、自己の良心を通してのみ救われます。
この神を通してのみ救われるという永遠に変わらない法に関して、この神の部分をイエスにすり替えたのです。
すると一人一人がその内なる良心から離れていきます。
自己の良心の顔色を伺うのではなく、外のイエスの顔色を伺うようになり、自己の良心と分離していきます。
これが最も危険だと言っている。
本人の良心から本人自身を切り離すことほど危険な教えはないのです。
古い宗教には良いところもあるけれども、2000年、あるいは2600年も経過しますと、色々な人が色々な埃とチリをつけており、その期間の長さゆえにこれはどうしようもない部分だと思う。
仏教も同じであり、他の古い宗教もすべて同じです。
新たな神の法を説いていかなければならないというのは、よく分かります。
過去の宗教というのは、これは教義面から見ても、また修正可能かどうかの見地から見ても、もう放っておくしかないでしょうね。
キリスト教の世界でも、仏教の世界でも、時間が経ち過ぎていて、もう修正はできないだろうと思う。
しかも信じ込んでますからね。
如何に神の法と言えども、まず理性的に検証しなければならない。
何もかも鵜呑みにしてはいけない。
如何に最高霊域の神霊の言葉でも、鵜呑みにしてはいけない。
必ず良心と理性のフィルターを通さなければならない。
それは神霊の言葉ではなく、途中から悪魔の言葉にすり替わってしまった場合、鵜呑みにしておりますと、悪魔の言葉をそのまま真に受けてしまう危険な行為につながるからです。
自己の理性と良心のフィルターだけは失ってはいけない。
古い宗教というのは、結論から言えば、その埃とチリから見て、まずその教義を正当な真理に戻すほどの悟りを持っている人は見当たらず、また高度な悟りを有していても、それを修正できるかどうかは、別の話になる。
概して既存宗教は、取りあえず放っておくしかないというのが結論です。
全く根源から新たな真の神法を説いていかなければ、どうにもならなくなっているのでしょう。
またそのためにお釈迦さまと私が出ているわけですね。
釈尊の方は、何かおかしくなっており、光の天使も高級霊の割りには、ちょっとね。
今回の光の天使ですが、ちょっとお前ら、修行足らねぇんじゃねぇの?
そんな感想をもってます。
良いお年を。
輸血拒否は医学的には正しい行為です。
代用血液(海水等)を用いるのが最も安全な治療行為です。
赤十字の献血活動のほうが悪魔教に近いのでは。
血液の闇ーーー内海聡
https://ameblo.jp/kissy-seed/entry-11903333638.html
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