カルトとは、神への信仰がないのに信仰を語る宗教です。
これがカルト宗教の定義です。
神への信仰がないとは、そのカルト宗教の教祖は、必ず自己都合でやっているということです。
そして自己都合の善悪を神の心と言えば、あの世であれ、この世であれ、この宇宙では必ず神の体(物質)の方面の支配を受けます。
そして物質の属性を有した思想と行動を取るようになる。
神我を強めれば、必ず神の心(精神)の支配を受けます。
自我を強めれば、必ず神の体(物質)の支配を受けます。
宇宙(神)と人類は、永遠に神と一体で生きているからです。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
悟りが「天」であり、悟れば、これを原因(神の心)として結果(神の体)世界平和という御利益が現象化してきます。
悟りが統一であり、御利益が矛盾です。
統一と矛盾は、統一即矛盾で双方は一実在の両方面 : 西田幾多郎
悟りを通して神の心の統一に向かえば、この物質界では逆の利益という矛盾であらわれます。
この時の矛盾(御利益)は、世界を腐敗させることなき御利益です。
これを神の繁栄と言います。
現代のような全世界を腐敗させる御利益ではありません。
統一に向かわず、御利益だけを求めているため世界は腐敗していかざるを得ない。
物質界とは、鏡の世界であり、自己の右目は、鏡の世界では左目であり、自己の左腕は、鏡の世界では右腕です。
物質界では、逆のものとしてあらわれます。
正義に向かえば、この世では逆の御利益で現象化してくるのです。
神の正義の統一と神の御利益の矛盾は、統一即矛盾、真理即現象利益で、双方は一実在の両方面です。
従って西田哲学で説かれているように、統一がなくなれば、矛盾もなくなり、矛盾がなくなれば、また統一もなくなる。
双方切れない。
真理がなくなれば、現象利益もなくなり、現象利益がなくなれば、また真理もなくなる。
精神即物質、真理即現象利益、統一即矛盾で現実そのままが真理です。
悟りが「天」であり、世界平和が「地」で、永遠に天地一体です。
悟りが「天」であり、人種差別の撤廃が「地」で、永遠に天地一体です。
悟りが「天」であり、非暴力の世界が「地」で、永遠に天地一体です。
悟りが「天」であり、愛国心が「地」で、永遠に天地一体です。
悪党は、これを逆にするのが特徴です。
すなわち愛国心を「天」に置き、正義を「地」に置くわけです。
この場合、それは単に為政者の支配欲に奉仕させるためのエゴイズムの発露に過ぎない。
愛国心とは愚か者が振りかざす麻薬である : オスカー・ワイルド
エゴイズムのために主張しておりますので、この場合、正当な愛国心が育つことはない。
悟りと反省が「天」であり、救済が「地」で、永遠に天地一体です。
この「地」である救済という御利益を「天」に置けば、地獄の創造主となる。
悟りも反省もない者を救うのは、単なる御利益信仰に過ぎない。
たとえ救っても、その者には悟りもなく、自己の罪を反省もしておりませんので、その人の生命にとっても実害でしかない。
救済という飴玉で誘惑しているに過ぎない。
女と変わらない。
あはーん、私を触った方が、神さまの心より気持ちいいんだから。
失礼。
誘惑を来たらせるものは、災いです。
救済で誘惑し、世界平和で誘惑し、人種差別の撤廃で誘惑し、非暴力の御利益で誘惑する。
富で誘惑し、国益で誘惑し、株で誘惑していく。
悟りが「天」であり、救世主が「地」で、永遠に天地一体です。
愚か者は、これを逆にする。
悟りもない無内容な教祖のくせに救世主を「天」に置き、救世主宣言をして、大衆を攪乱していく。
悟っていない救世主など存在しない。
悟りが「天」であり、救世主が「地」で、永遠に天地一体です。
その「地」である救世主を「天」に置く。
従ってその救世主を名乗る者の、悟りの実質をこそ見なければならない。
生命が「天」であり、物質が「地」で、永遠に天地一体です。
そして「地」とは、物質ですから、それは目的にもならず、否定もできない。
これが方便の正体。
自力が「天」であり、他力が「地」で、永遠に天地一体です。
その自力が正しい方向にあれば、必ず他力が入る。
すなわち他力は否定できない。
否定できないからと言って、目的とし、他力を「天」に置き、絶対他力を説けば、それが地獄の創造主となる。
「地」である他力を「天」に置き、絶対化するわけです。
悟りの未熟なる者は、自我の両極端に偏るために絶対他力を説く。
目的か否定の両極端に偏るわけです。
これ自我の作用にて中道にあらず。
美の恒久的特質とは、あらゆるものの両極端の中庸にある : エマソン
方便は、目的と否定の両極端の中道に入るのが神の道。
自力が「天」であり、他力が「地」で、天地一体です。
他力で己心の魔に勝利することはできない。
すなわち他力で全人類救済などはない。
救世主に頼れば救われるという他力本願はない。
他人に依存させようとする誘惑に過ぎず、誘惑を来たらせるものは災いです。
その救世主に頼っている者その者が、みずから神の心を悟るか、あるいはみずからの罪を反省しなければ、地獄から抜けることもできず、天界に帰天することもできない。
神我が「天」であり、自我が「地」で、永遠に天地一体です。
カルト教祖は、この「地」である自我を「天」に置いて自己都合で法を説くため、物質に支配され、物質をすべて「天」に置くようになる。
悟りが「天」であり、世界平和が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である世界平和を「天」に置く。
物質を絶対化するわけです。
絶対平和主義のクウェーカーです。
悟りが「天」であり、非暴力の世界が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である非暴力の世界を「天」に置く。
キング牧師にガンジーです。
悟りが「天」であり、富が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である富を「天」に置く。
資本主義です。
御利益は目的にもならず、否定もできないものであるが、この中道を外れ、目的にしている。
悟りが「天」であり、国益が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である国益を「天」に置いている。
ここでも中道を外れている。
悟りが「天」であり、大衆のためが「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である大衆を「天」に置く。
民主主義です。
民主主義は結果に比喩した善であり、方便の政治体制ですが、目的として「天」に置き、中道を外れている。
だから神から遠い者達が主権者などと神の神殿で嘘をつくことになる。
この宇宙では主権者とは、大魔王即大如来としての神以外には存在しない。
イエスの生命の本質にも神はあり、地獄で悪さをしておりますけれども、ベルゼブブの生命の本質にも同一の神の存在がある。
アラーの生命の本質にも神はあり、ルシフェルの生命の本質にも同一の神の存在がある。
大魔王即大天使です。
これを神の光にすり替えれば、我々は平等をなくすことになる。
神に近づけば、近づくほどその纏う神の光は巨大化していくが、神の心から遠ざかれば、遠ざかるほど、纏う光は小っちゃく、小っちゃくなっていく。
地獄に堕ちればその纏うオーラは光から闇に変わり、底に深く、深く、沈み、神の心から遠ざかれば、遠ざかるほど、その纏うオーラは、漆黒のオーラと化していく。
そして天国から地獄に至るまで、そこには差別相しか存在しなくなる。
天界の神霊であろうが、この世の人間であろうが、地獄界の悪霊であろうが、その生命の本質には同一の神を宿している。
ここを見た時、自他一体となり、大魔王即大如来となる。
天界・現界・地獄界の全霊人は、過去・現在・未来の三世に渡って、神の存在においてのみ永遠に平等であるということだ。
従ってこれ以外はすべて差別相。
この平等の神の心を悟っても、悟ってもなくならない世界が霊天上界。
この神の心を悟れば、悟るほどなくなる世界が地獄界。
神の心を悟れば、なくなる世界が地獄界ですから、地獄界は神の造った世界にあらず。
悟りと反省が「天」であり、地獄界の消滅が「地」で、永遠に天地一体です。
天地一体の世界とは、これ仏国土。
真理が「天」であり、富が「地」で、永遠に天地一体です。
地獄に堕ちる方の普遍的特徴とは、この天地の分離です。
自己の心が、あの世の「天」と同通していないから地獄に堕ちることになる。
天地一体の悟りに地獄はない。
天地一体の悟りを得ている者が地獄に堕ちることはない。
生きながら天と交流しているからです。
地獄の原因は、この天地の分離にある。
この「地」である物質を「天」に置き、「地」である富を「天」に置けば、天地が分離してくる。
「無限の富いいいぃ」、「大富豪おおおぉ」とか叫んどったら、あの世の「天」とこの世の「地」が切れるから。
啓示が受けられんようになるから。
「地」である富を「天」に置いて「富、無限」なんて名刺に刷って配り歩いて、隣近所のみなさま方を喜ばせとったら、天地切れるから。
眼前の大宇宙の構造と仕組みは、生命が「天」であり、物質は「地」で、永遠に天地一体です。
この「地」である物質を「天」に置けば、目の前にある大宇宙と分離してくる。
富を「天」に置き、真理を「地」に置けば、宇宙即我にならんから。
宇宙と分かれれば、天地も分離し、諸神霊から啓示は受けられなくなる。
天地が分離すれば、地獄に堕ちるしかなくなるのです。
大救世主、あるいは大如来と言われる偉大な方でも、富を「天」に置けば、諸神霊からの啓示は止まるのです。
いわんや一般はということです。
富を「天」に置いた資本主義、人民共通の利益を「天」に置いた民主主義、物質を「天」に置いた社会主義、国益を「天」に置いた政治家、ええ、君たち全部間違っとるから。
赤ペン先生から「0点」の答案用紙受け取っとるから。
大衆が主権者ではなく、生命の本質である神が主権者です。
この神の神殿で大衆が主権者と大嘘を主張しても、かつての天才や偉人は例外なく、真の主権者である神の心を求め、それを見失うことはなかった。
そして神は人民共通の利益ではなく、人民共通の人生の意義です。
しかもこれは永遠です。
天界・現界・地獄界の全霊人は、神の心においてのみ永遠に平等ですから、人類各人がこの平等の神の心に従って自由を行使した時、真理は汝を自由にせん、全人類は自由となる。
既存の民主主義で矛盾している二大概念「自由と平等」は、神の存在によってのみアウフヘーベンされる。
この「神約民主論」を通して我々の文明は、神の心が永遠に「天」に置かれ、神の体が「地」に置かれる。
そして眼前の大宇宙の構造と仕組みと一致し、宇宙即我ではなく、宇宙即文明の仏国土が顕現する。
資本主義で富を「天」に置き、社会主義で物質を「天」に置き、「地」である国益を「天」に置き、神から遠い者達を主権者と称して「天」に置き、宇宙の構造と仕組みに反することばかりしとるから。
利益を「天」に置けば、必ず天地は切られるのです。
そして天地が切られれば、地獄界に堕ちる方が増加していくのです。
地獄界に堕ちる原因とは、この天地の分離だからです。
しかもええ子して見ておりますと、魂の未熟な方が堕ちている。
その傲慢のツケを命で支払っているのは、生命の未熟な方々です。
もう、見てらんない。
政治体制や経済原理そのものが、宇宙の構造と仕組みに反し、天地が分離している。
宇宙から追放されている文明です。
地球という神の神殿でそんないい加減なことをしていれば、そりゃ地獄も増えるわ。
好もうと好むまいと良心に照らして善や正義を旨としなければ、「天」と交流できなくなり、天地が切られ、霊天上界に帰天できなくなるのです。
天地が切られれば、それは地獄に行くしかなくなるのです。
地獄に堕ちたくなければ、何がしかの神の心を悟るか、あるいは神の心に照らして反省し、あの世の「天」と「地」にいる地上人間が、その心を通して交流していく自己を作るしかないのです。
富を「天」に置いていますが、あの世に富はありません。
富で「天」と通じることはないのです。
国益もありません。
国益で「天」と通じることはできないのです。
神という言葉に抵抗があるならば、自己の良心と言ってもいい。
自己の良心に照らして善と正義、愛と真心を本音にしなければ、決して「天」と通じることはできないのです。
神への信仰とは、真心と優しさを本音にすることです。
神への信仰とは、正義と愛を本音にすることです。
愛や正義を何がしかの利益のために利用しないことです。
神の心を信ずるとは、正義や愛、真心や優しさを本音とし、それを本音にするしか世界も人類も決して良くならないことを信ずることです。
散々、利害関係で善人ぶって、利益や快楽が本音のくせに善人ぶって生きているこの世界を見れば、結果は出ているではないか。
どんなに善人ぶっても利益が本音であるから、世界は腐敗するばかりではないか。
善や愛以外に全世界を良くすることはできない。
善や愛を本音にしなければ、あの世の「天」と通じることはない。
霊天上界の諸霊とは、悟りが高かろうが、低かろうが、すべて愛と正義を本音にして生きている霊ばかりだからです。
真理を本音にできなかった者は、たとえこの世的に繁栄しても、天と通じることはない。
そして「天」と通じることができなかった生命は、死後地獄に行くしかなくなるのです。
天地分離が地獄の原因であり、これは単に個人の未熟だけの問題ではなく、政治体制や経済原理自身が天地を切らせるような諸制度になっています。
全部、破壊して、一からやり直さないと、神の国はできないんじゃないか。
自己都合で法を説くから、自我が「天」に置かれ、自我が「天」に置かれますと物質に支配されて、物質も「天」に置かれる。
そして富を「天」に置き、物質を「天」に置き、国益を「天」に置き、神から遠い者達を主権者と称して「天」に置くことになる。
そして「無限の富いいいぃ」とか叫びながら、天地が切られ、結局は地獄に堕ちる人が増加していく体たらくな世界となる。
「大ふっ豪おおおぉ」、この「ごおおおぉ」とかわめきながら、「天」との交流を失い、啓示もインスピレーションも受けられなくなり、法も説けなくなり、信者がいる宗教などはそこの信者の方まで地獄に引きずり込むことになる。
あの世の「天」とこの世の「地」が、生命で切られますと、地獄に行くしかなくなるのです。
知人友人がいるなつかしい故郷であり、自己の本当の自宅である霊天上界に帰天するには、神の心を本音として生き、あの世の「天」と心で交流する天地一体の悟りを各人が得るしかない。
地球という神の神殿で生きていながら、その神の心を無視して、一体この世界をどう良くし、どう運営しようというのか。
相対的な性質しかもたされていない自我に世界を良くする能力はないし、運営する力もないし、大体自我の相対性に真実もない。
真実とは神のみが持つ別名であり、我々人類の側に真実は元からないのです。
だから自我でやればやるほど悪くなる。
すればするほど悪くなる。
それは既に目の前の世界にあらわれている。
地上に地獄を作りたければ、自己の心と天を切ればいい。
その世界は必ず地獄になる。
地上に仏国土を造りたければ、自己の心と天を一体化させればいい。
その世界は必ず仏国土となる。
地球は永遠に神の神殿です。
神の心を知らずに神の国ができるわけない。
仏の心を悟らずに仏国土が顕現するわけない。
天に父の御心成れるが如く、地にも成らせたまえというが、イエスはまだ天国と地獄を自我で切って、天国だけを見て「天に父の御心が成っている」と言っています。
天国と地獄を自我で切っておりますので、自我に比喩した善、すなわち方便です。
未だ天に父の御心は成っていない。
天に父の御心が成っている世界とは、地獄界が消滅し、悪霊や悪魔が一人も存在しない世界です。
この時、初めて天に父の御心は成ったと言える。
現状は、この地上界が地獄界への人口供給地帯となっており、地獄霊やサタンは存在し、悪さをしている世界ですから、未だ天にも地にも父の御心が成っている世界とは言えない。
天地が分離しているから地獄界の人口増加が助長され、この地上界も仏国土になっていないから、いくらでもこの世を縁として地獄界に人口を供給している世界です。
この地上界に仏国土を作り、地球ユートピアを造らなければ、地獄界の人口増加が止まらないのです。
地が完成した時、天も完成する。
天にも地にも父の御心が成っている世界こそが、今後の人類が目的とすべき世界です。
そうならない根本の原因こそが、このあの世の「天」とこの世の「地」が分離した天地分離にあるということです。
そう言えば地球の霊界でも天国と地獄、この天と地が分離していますわね。
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