GLAの最高指導霊はモーゼであり、幸福の科学の最高指導霊はイエス・キリストです。
GLAの開祖・高橋信次氏も大如来であり、幸福の科学の開祖・大川隆法も大如来です。
だからどちらも宇宙界に住する大如来が、あの世でも最高指導霊についていました。
モーゼも大如来であり、イエス・キリストも大如来です。
ただ双方、あえて相違をあげれば、指導霊の個性なのかもしれませんが、GLAは自力的であり、幸福の科学は他力的です。
釈尊自身は本来、自力的な個性の持主だと思われますが、指導霊がイエス・キリストですから霊言の神霊に頼る他力的傾向、あるいは釈尊は救世主信仰などやらなかったはずですが、キリスト教的な救世主信仰になっている。
救世主信仰など誤りですが、救世主に頼れば、救われるとする他力的な傾向となる。
みずから悟りも反省もない者達が、ただひたすら救世主に頼っても無駄であり、悟りも反省もすべて自力であり、その救世主が代わって悟ってくれるわけでもなく、反省してくれるわけでもない。
みずからの悟りは自分で磨くしかなく、みずからの罪は自分で反省するしかない。
これをGLAでは「正法は自力です」と言っていました。
他力信仰は、むしろ悟りと反省から人を遠ざける道であり、救済とは逆の地獄を生む土壌を作ります。
仮に人類70億が一人の例外もなく、悟るか、あるいは反省すれば、一人も地獄に堕ちることはない。
地獄に堕ちている者とは、まず神の心を悟っておらず、またみずからの罪を反省しない者のみが堕ちている。
地獄でイエスや救世主に頼っても無駄であり、みずからの罪は自分で反省するしかない。
そしてその自力的行為に基づいて、これを原因として結果、諸神霊の他力が入る。
反省の仕方を導いてくれる。
自力が原因(神の心)であり、他力はその結果(神の体)です。
自力が主であり、他力は従ですから、その従を主にすり替えたり、結果(物質)を目的としたりすれば、これが地獄の創造原因となる。
そして他力は物質ですから目的にもならず、否定もできない。
絶対他力と称して目的にすれば、地獄界を創造し、否定すれば自力天狗を生む。
自力があれば、必ず他力が入る。
生命と物質、主と従、原因と結果、自力と他力は一つであり、切れない。
ただ主と従があるのみ。
自力と他力は一つですが、ただ自力が主であり、他力が従です。
他力に自我、欲望に物質は、両極端の中道に入るのが妥当。
ヤジロベーの中心を外れますと、全体のバランスが崩壊する。
右に偏れば左が上がり、左に偏れば右が上がり、全体のバランスが崩れます。
この全体のバランスをとるには、偏らぬ中心点に意識が入らねばならず、これを中道と言い、神の心という。
自力に偏れば他力の愛を喪失し、他力の愛に偏れば自力を喪失する。
GLAではこれを中道と言い、絶対力と言っても、神の心と言っても同じ。
禅の坊主が目的とする円相図も同じ。
綺麗な真円を描くには、心の軸が中心点に入っていなければ真円は描けない。
コンパスでも中心の軸がぶれますと真円は描けません。
コンパスの軸に入ることを、中道に入るだの実相に入るだの神我に入るだのと言ってきました。
禅の坊主は円相図を目的としています。
心のど真ん中に入らなければ、きれいな真円は描けず、円相図もかけない。
心のど真ん中に入ることを中道に入ると言い、神我に入るという。
そして中道に入ったら左右に偏ることなく全体のバランスが取れ、きれいな心の円相図となる。
しかして完全なる神の心は誰も説けず、入れませんから中道に入ったのちにそこからの無限の悟りの発展がある。
これを幸福の科学では、中道からの発展と説いていました。
この中道からの発展とは、完全な神の心に向かっていく旅であり、道です。
一旦ある程度の悟りを得れば、そこから無限の悟りへの道が開かれる。
永遠に悟ったということはあり得ない。
不完全な人間には、永遠に悟り続ける道しか用意されていない。
永遠に山を登り続けるしかない。
山の頂上には神がおられますが、そこに到達するには登り続けるしかなく、永遠のタイムを必要とする。
へーゲルは、神の心を歴史の究極目的とし、山の頂上におられる神に向かう登山者が人間であり、歴史とはそれ自身が神の世界計画であると説いています。
頂上におられる神の心は誰にも分かりませんが、しかして悟った分だけ人類が幸福になることは間違いありません。
悟った分だけ幸福になるとは、その向かうべき頂上の心とは、まさに幸福そのものです。
神の心とはイコール幸福と言えます。
ところが大抵の人間は幸福と快楽をすり替えて認識しており、幸福と快楽は一つですが、その相違が理解できない。
幸福と快楽は似て非なるものである : 西田幾多郎
快楽を目指し、富を目指し、国益の山を登ろうとするのです。
その快楽の山の頂上に神はおられません。
しかしてこの国益と利益の広き門から入る者が多く、この広き門から入って人類の半数以上もの人達が生命を落としている。
これをかつてエマソンは、利益は必ず我々を裏切るものだと残しています。
利益が悪だと悟っており、幸福と快楽の相違もはっきりとエマソンは悟っています。
誰も戦争を望んでいません。
誰も人種差別を望んでいません。
誰も暴力を望んでいません。
誰も飢餓を望んでいません。
望んでいないのだけれども、利潤はその我々の理想を必ず裏切るのだ、と。
その戦争を生み、飢餓を生み、差別を生み、暴力を生む利益と国益が人類は大好きなのです。
霊言でもこの点を言っていたと思いますが、これを大衆のいやよ、いやよも好きのうちと言っていた霊人がいました。
真理とは狭き門であり、利潤と国益が広き門です。
イエスは狭き門から入れと言っていたはず。
多くが広き門から入って、滅びに至る、と。
事実、人類の半数以上がこの広き門から入って滅びに至っている。
生命と物質は一つですが、生命の山と物質の山があれば、多くは物質の山、快楽の山、利益の山、救いのない相対の山に登ろうとします。
物質の山の頂上に神はおられず、出口のない迷宮を彷徨うことになるし、なっている。
出口を探して彷徨っているうちに力尽きて、死んでしまう。
この死を地獄という。
初めからない出口を探しているのが、今の人類です。
国益と利益を追っている内は、そこに人類の出口はないのです。
出られないのです。
出口は神の御心にしかない。
地獄でも神の心に照らして反省しなければ、地獄界からは出られません。
地獄でも他の霊を支配せんとする支配欲の快楽を取っているサタンなどは、地獄からは出られない。
神の心に照らしてみずから反省しなければ、するまで地獄界からは出られない。
地獄界での出口すら神の心なのです。
そこまで経験しなければ悟れないならば、それも魂修行の一つかもしれませんが、あまりお勧めできません。
初めから神の心を選択していればいいのです。
まさしくいらぬ苦労はせぬものじゃ、です。
そして諸神霊や神さまは、気前がいいですから、求めれば必ず与えてくれます。
大抵は求めない。
利益と国益、出世と地位、名誉や快楽ばかり求めている。
諸神霊は神の心と共に生活しておりますので富を諸神霊に求めても無駄だし、元々霊天上界に富はない。
イエスが、求めよ、さらば与えられん、探せ、さらば見つからん、叩け、さらば開かれん、と言ったのはすべて神の心のことを言っていたのであり、利益のことを言っていたのではない。
神の心を求めよ、さらば与えられん、神の心を探せ、さらば見つからん、神の門を叩け、さらば開かれんと言った。
大抵は求めないのですね。
信仰すらなくしておりますので難しいでしょうね。
この点はゼウス神も大川さんのところで言っていたと思いますが、
お前ら人間は、未開の土人でもできる信仰をいつ失った。
それはお前達の小賢しい智慧ではないのか。
そういう小賢しい智慧ならば身につけなくとも良い。
未開の土人のように素っ裸になってマンゴでももって自然界を走り回っておれ。
そっちの方がはるかに我々の世界から見れば、神の心に叶っておる。
禁断の智慧の木の実を食って楽園追放されたアダムとイブですね。
智慧の木の実を食べて、小賢しい智慧を身につけ、最も大切な神への信仰を失った。
そういう智慧ならば身につけなくとも良いとゼウス神は言っておられましたが、聖書では身につけたアダムとイブは楽園追放されていました。
エデンの園とは、ヘブライ語で「歓喜の園」、現代的に言えば「幸福の園」ですが、人類は智慧の木の実を食べて、これを失った。
そして人類は楽園を追放されたアダムとイブになっているわけですが、楽園を追放されたために半数以上もの人達が地獄界に堕ちて不幸になっている。
半数以上とは、尋常な数ではありません。
エデンの園から追放された時、神に蹴り出されたのではないか。
仏国土とは、エデンの楽園創造であり、追放ではないわけです。
多次元世界は神御自身が治めておられますので、すべての霊人は、悟りの高低に関係なくみな「幸福」です。
この世も実は神御自身が治めているのですが、この世ではその神の心をみずから悟る修行場となっているために、悟ることが難しいわけです。
元々神の道とは「狭き門」ですからね。
神の心が「天」であり、神の体は「地」で天地一体です。
永遠にそうなっているのです。
正義が「天」であり、利益と国益は「地」で天地一体です。
人類がこの通り生きられていれば、今のような世界的規模での腐敗はないのです。
ただ政治体制も民主主義は利益を「天」に置いており、唯物論も物質を「天」に置いており、資本主義も利潤を目的として「天」に置いておりますので、政治体制や経済原理そのものに問題がありすぎる。
こういった政治体制や経済原理をとっておいてその中で利潤や国益を追うなという方が難しい。
しかして神への傲慢になっていることは事実。
相対的なものを絶対化している傲慢です。
この神への傲慢ゆえに一旦は崩壊していくでしょう。
過去のすべての文明もこの神への傲慢で崩壊していったのです。
今回もそうなるでしょう。
ほんとは大量の犠牲が出るために、嫌なんですけどね。
かと言ってこの傲慢な文明を未来の人達に継がせるわけにもいかないでしょう。
どこかで節目として前後裁断する必要がある。
本当は大川さんと幸福の科学が、その使命を持っていたのですけどね。
何かお鉢が回ってきそうで。
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