一体、どうなっているのでしょうか?
東京五輪のエンブレム盗作問題が拡大しています。
この問題は神の権威に集団で戦争を売ってきた者たちが、佐野研二郎氏をこぞって擁護していたために興味を持ち、扱っていただけなのですが、ここまで問題が拡大するとは思いませんでした。
犯罪者というのは、同じ行動を取るのでしょうね。
今回の神理と五輪のエンブレムに何の関係があるのかと思いますが、神の権威に戦争を売ってきた者たちが、ほとんど佐野氏を擁護していた点は、少しうけました。
日本会議とか電通とか特定の財界人とか分かるものもあるのですが、残念なるかなこの世ではさすがに全ては分からないのです。
背後に神道が巣食っていると言うのは知っています。
ただ幼稚園児でもあるまいし集団で同じ意見と行動を取るのは「いわしの群れか!」とうけました。
善悪の判断がない点は、アメリカ追従と同じです。
神道は富になれば何でもいいのでしょうね。
神理が善、利益は悪というのは永遠に変わらない理法です。
ゼウス神が作ってきた人間は「神の正義によって真っ当な人間になる」者たちであり、神道が作ってきた人間は「利益によって真っ当な人間の格好をする」者たちです。
だから富があの世でもすべてになる。
その利益のためにはいくらでも犯罪を犯すし、今も犯している。
そして正義や神理は何もできない。
生長の家が善のみを語るのは、善のためではなく、そうした方が自分の利益と快楽になるから善ばかり言う。
善のみ語るのは、別に善を目的としているからではなく、利益のみをあの世で欲し、その富によってこの世の人間を支配するためであり、だから善のみを語る。
彼らの善は、利益のみを欲している事実の裏の顔と表現に過ぎない。
霊天上界への帰天は「御利益信仰」であり、それを「救済」と言うならば、明らかにそれは神理ではなく、御利益信仰です。
御利益とは、この宇宙論(神)です。
神の目から見た「御利益」とは、神の体、すなわち物質のことであり、神を信じて、霊的に進化・向上した時、それを原因として結果あらわれる現象(物質)を「御利益」と言い、これのみを拝むことを「御利益信仰」と言います。
では神を信じて悟り、霊的に進化・向上すれば、これを原因として結果、何が現象化するのでしょう。
悟れば、これを原因として結果、霊天上界に帰天するという御利益があらわれます。
霊天上界に帰天すると言う現象そのものが御利益なのです。
従ってこれを信仰すれば、御利益信仰となり、どう好意的に見ても一定限度しか許容できない方便となり、法がまだ自我を残している神界クラスに落ちます。
人類と世界の諸問題を無視して、霊天上界に帰天するという「御利益」を得るために、ひたすら澄み切ろうとする。
神から来ている価値ではなく。利益と自我から来ている価値であるから仏教系の諸如来・諸菩薩に軽蔑されることになる。
たかだか神界クラスの自我を残した悟りでうぬぼれているからです。
悟りと霊的向上を求めてきた仏教系の霊は、タイとヒラメで千年も二千年も飽きもせっと、ひたすらあの世で遊んできた者たちが愚かに見えるのでしょう。
だから竜宮界は上の菩薩界と切り離され、つながっていない。
永遠に遊んでいる世界であるから進化がなく、世界観的にも上の世界とあの世でもつながっていない。
だから神道の巣食っている政治家は神の善悪の判断など全くなく、力や富を有している者たちには悪であろうとも絶対無条件で迎合する。
アメリカに迎合するのもこれが理由です。
神理を悟るには努力なくして悟れませんが、利益の世界は必ずしも努力なくしても得られます。
神理の世界は努力を基準にした場合、完全に公平な世界ですが、利益の世界は努力を基準にした場合、玉石混交の世界です。
神理の世界は努力が完全に比例した世界であり、努力をしてきた者にしか説けません。
神理が説けないと言うことは霊格の問題も多少ありますが、それは基本的に努力が足りないからです。
ごまかしは効きません。
努力してきていない者や足りない者、あるいは怠ってきた者は、絶対に高い神理と善悪を説けないのです。
これを真の神の公平と言うのです。
ところが利益の世界は努力をしても、必ずしも利益が得られるわけでもなく、また努力しなかったとしても利益が得られないわけでもない世界です。
神の体、いわゆる物質と利益を旨とし、利益や学歴を得るための努力は、神理の世界においては、少なくともそれを努力とはいわない理由はこれです。
努力してきた方ならば、大なり小なり高い思想と価値、善悪と洞察力を持っています。
神理を基準とした努力は「不完全」ではないのです。
完全に公平なのです。
努力した、したと言う方がおられますが、それは神理ではなく利益を得る努力をしてきたと言っている。
ところがそれは神理の世界では努力をしていない方とまったく同一です。
その証拠が「神の完全な公平」であり、努力してきたと言いながら高度な神理も善悪も何も言えないことを通して自分が努力してこなかった事実を「神の公平」から暴露することになるのです。
この点が世界の腐敗につながっていることは言うまでもない。
「神の完全な公平」は同時に「神の絶対性」をも意味しています。
努力してきたならば、相対ではありません。
絶対に、努力に比例した高い高度な神理を説けるのです。
ここに誤魔化しや偽りは一点もないのです。
自己の霊格に見あう高い神理が説けないということは、どんな格好をしても、それは努力をしてきていない事実を立証しているのです。
自分はエリートだ、地位があるんだ、社長なんだ、学歴があるんだ、偉いんだ等々、いくら吠えても、努力をしてきていない方は、絶対に神の善悪と高度な価値と思想を説けないのです。
それは神理の世界では努力をしていない方と全く同じですから、絶対的な意味において神の公平から言えば、腐敗の根源になっている方と言ってもいいのです。
もっと単純に極論すれば努力している世界は繁栄と良化が実現し、努力していない者が多い世界では腐敗する。
世界が良化するか、腐敗するかは、ひとえに人間の努力の如何によっている。
世界が腐敗しているのは、努力の意味を知らず、また事実、努力をしていないから腐敗しているということです。
仏国土・ユートピアとは努力している者のみが残る世界であり、努力していない者は世界を腐敗させている者ですから淘汰の対象となっている。
繁栄と衰退、良化と腐敗は、永遠に「努力」によって決まっている。
世界を腐敗させたければ努力しなければいい。
今の世界と同様必ず腐敗します。
世界を良化したいならば努力すればいい。
努力するか、しないかは本人次第。
正法は自力です。
仏国土とは、ただこれだけの話である。
ただこの世では、その「努力」がすべて「バビロンの大淫婦」となっているために利益を得る努力を努力と言い、快楽や地位・名誉を得る自我の努力を努力と言っているために、それは世界を腐敗させている「努力」にしか過ぎない。
世界を腐敗・衰退させるために全人類が「自我の努力」をしているわけであるから、その心の通り腐敗していく。
神理が善、利益が悪、正義が善、国益が悪、神我が善、自我が悪だと言ってある。
ある意味、その腐敗は人類自身の選択であり、みずからが望んだ腐敗なのです。
「いや、望んだ覚えはない」と言うかもしれませんが、それは「いやよ、いやよも好きのうち」と言うことです。
もちろん腐敗はいやでしょうし、戦争もいやでしょう。
人種差別もいやでしょうし、衰退もいやでしょう。
暴力もいやでしょうし、地獄もほんといやでしょう。
それは嘘ではなく、本当にいやでしょう。
しかしてどこかのハイ・スピリットもあの世で言っていたと思いますが、「大衆の言う、いやよ、いやよは、好きのうち」です。
戦争はいやであり、腐敗もいやであり、衰退もいやであり、暴力も地獄もいやなのです。
ウソではないのです。
本当にいやなのです。
しかして戦争を作り、腐敗を作り、衰退を招き、暴力を作り、地獄を作る原因である「利益と国益」は大好きでしょう?
人種差別を作り、飢餓を作り、悪魔を作る「富と快楽」は大好きでしょう?
心に問うて御覧なさい。
利益と国益は大好きでしょう?
だから大宇宙と言う神の神殿で神の心を追わず、富と地位・名誉を追っているのです。
これを「いやよ、いやよも好きのうち」と言うのです。
自我の作用が意味する「矛盾」のことを言っていたのです。
世界を腐敗させてやろうと思って追っているのではないことは、「ハイ、ハイ、分かってますよ、そんなことは」
でも利益と国益を目的として無限に追っているでしょう?
ある程度しか許容されていない有限のものを無限に追っています。
「いやよ、いやよも好きのうちでしょう?」
あの世の諸神霊が何故、この世の人間を子供扱いするのか分かるでしょう。
悪気はないのです。
未熟だとそうなるだけなのです。
それを十分に知った上で諸神霊の過大な忍耐と寛容によって、我々この世の人間は導かれているのです。
彼ら諸神霊が地獄に行くことはないのです。
未熟によって地獄に行くのは、あくまでこの世の人間の方なのです。
だから悟りによってしか幸福も救済も、また仏国土もありません。
神理の道はけわしく、遠い。
神理は公平ですが、利益は不公平であり、だから神理は善、利益は悪であり、同時に利益と快楽によって世界は腐敗しているわけです。
自我を中心に利益と快楽、国益と富を追えば、全世界は「絶対」に腐敗します。
利益と国益、快楽と自我は相対的なものだからです。
神我を中心に神理を追えば、全世界は「絶対」に良化・繁栄します。
神の心が善悪を超越している絶対的な心だとわかりましたでしょうか。
繁栄も腐敗も一つであり、この一つの心から決まっております。
このひとつの心を「神の心」と言うのです。
このひとつの心に叶えば世界は繁栄・良化するが、このひとつの心に反すれば世界は腐敗していく。
繁栄も腐敗も絶対的なひとつの心によって永遠に決定し、永遠に超越している。
繁栄と腐敗の相対性を超えています。
良化も腐敗も一つであり、繁栄も衰退も一つです。
そしてこのひとつの心は良化と腐敗、繁栄と衰退、善と悪の相対性を超越している心です。
一つの心、すなわち神の心が永遠に決めているのです。
この神の心に叶えば霊天上界に帰天するし、叶わなければ地獄に行く。
このひとつの心に叶えば繁栄するし、叶わなければ衰退する。
このひとつの心に叶えば善となるし、叶わなければ悪となる。
このひとつの心に叶えば仏国土ができるが、叶わなければ地獄ができる。
ただ一つの心が在るのみの世界であり、本当は人間が言うが如き善もなければ悪もない。
繁栄もなければ、衰退もない。
天国もなければ、地獄も本当はないのです。
在るのは、ただこのひとつの神の心のみです。
これが永遠に人間生命の本質であり、これを基準として知らんとする努力が目的であり、知れば知るほどに仏国土は生まれ、悟れば悟るほどに地獄界も消滅し、向上すればするほどに人類の諸問題のすべては解決に向かう。
自分を知るか知らないか、悟るか悟らないか、向上するかしないのかが人類の幸不幸を分けている。
神を知ることを人類の幸福と言い、神を知らないことを人類の不幸と言う。
我々人類の幸不幸は神御自身が、永遠に握っておられる。
自分の悟りが人類の悟りであり、自分の幸福が人類の幸福であり、自分の向上が人類の向上となっております。
盗作とは、この人類の幸福に最も反した行いのひとつでしょう。
人間の作った倫理や道徳、法律や著作権をどうこう言っているのではないのです。
二つの意味で最悪の行為です。
一つは利益という悪を無限に追っている点が最悪であり、二つにはその利益と名誉を得るために他者の努力を盗作してまでも利益や名誉を得んとする点が最悪です。
それが許されるならば、誰も努力しなくなるでしょう。
努力する必要がないわけですから、利益を旨としている者は、ばれなければ何でもするでしょう。
模倣は霊的に未熟なるものが有限の範囲で許されているものであり、未熟な霊団や国家は模倣や真似が多くなります。
しかして子供が大人を模範とし、真似るのはいいのですが、ルールを破ってあたかもみずからの作品のように盗作するのは犯罪であり、他者の努力や作品に対するリスペクトがない。
日本への根拠のないリスペクトだけはあるようですが、それ以外のデザイナーとその作品に対する尊敬が、もともとないから盗作をする。
盗作を真っ先に非難したのはヨーロッパのデザイナーでしたね。
アメリカのデザイナーも、自分の作品でお金儲けをしていたならば、法的に訴えると訴訟を匂わせています。
下手をすれば、この問題は訴訟まみれの醜い事態に発展する可能性もあります。
日本国内では誰も訴えない点に異常性が出ておりますが、こういった者に限って自己の著作権だけは異常に主張するものです。
佐野研二郎作品の盗作疑惑が、次から次へと出ています。
これは別の機会に譲りますが、あまりにも出てくるので盗作の常習犯だったのではないのか、という疑問が出てきます。
あまりにも多すぎるのです。
ウソも色々とばれてきています。
ポスト・小保方とも言われています。
その内、関係者の問題に波及していくかもしれません。
この盗作疑惑は注視していきたいと思っています。
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