Report No.439
欲望とは、肉体の問題であり、物質をどう捉えるかの問題です。
「本来、悪なし」という教えもありますけれども、確かに神の心に悪はありません。
「本来」と言わなければならない点が苦しい点であり、つまり現実には悪なるものがあることを認めているわけです。
だから「本来」ないと言っているのです。
現実にも悪はなく、罪もないと実相から現象にすり替えて、説いてしまったため地獄に堕ちたのが五井昌久ですが、実相即現象の中道を外れ、実相の罪なく、悪なく、病なしを「紙一重」で現象にすり替え、現象世界に悪なく、罪なく、病なしと説いてストーンと行ったのです。
生きながら、たくさんの至高の宗教的哲学を読ませていただけることに、心より感謝いたします。
ほんとに生きててよかった。。。。。
自分なりのまとめです。ご教示いただければ幸甚です。
今文明の一般の人々、組織、社会は、俗なるもの、神の体に属するものを目的とし、神の心に属するものものを神の体を得るための手段として、適法性の善として用いた(それをウルトラスーパーなスケールで全天上界の高級霊を巻き込んでやってみせたのが大川さんでしょうか。。ある意味すげえ。。)。一方、今文明の宗教は、神の体に属するものを、自らも否定できないくせに、全否定し、神の体に属するものに欲望を抱いた自他に対して上から目線で剣のような裁きをするように仕向け、争いと、心中での欲望の肥大化を促し、逆に俗世間の快楽に溺れやすい免疫の低い人間をつくっていった。いずれも、即の中道から外れ、全き神の有り様、宇宙の有り様から外れ、不自然で、無限の悪や不幸を生むシステムをよきものとしてきた。こうしたシステムのなかでは、人は清濁併せ吞みつつ、清によって濁をコントロール、統一したり、濁を清に奉仕するものとして、清をより促進するものとすることができず、濁の海のなかで溺れて沈んで行ってしまう。神の心をこそ求める方向であるという正常な上下意識とそれによる各人なりの悟りと、そうした意識に基づいたピラミッド構造の社会構造があれは、欲望、現象利益、自我、こういった従来の宗教が否定するものは、否定するものではなく、人生を逸脱させるものではなく、楽しいものでり、楽しんでよいものであり、楽しむべきものでもある。そこにこそ、よき人生経験にともなう大きくバランスのとれた真の悟りや人格の成熟もある。人生のきらめきや華もある。ただし、いつの間にかそれらが目的になってもいけない。大教訓救世主であられる大川さんのように。。
あたりまえの宇宙の真理ですね。。。。
でも、こういう良心的なバランスのとれた成熟した大人だなあと思える素晴らしい人は、この世の中にもたくさんおられ、これだけ生きていると、折々にそうした人に出会うことがあり、その陰徳を積んでおられることや人生を謳歌されていることに感動したり、いいなあと思いますし、少しでもそのようにありたいなあと思います。
なぜこんなシンプルかつ高度なの宇宙の真理がこれまでの説かれてこなかったのでしょうか。。それによりどれだけの人類が苦しんできているし、今も苦しんでいるのでしょうか。。
地球の霊系団のなぞです。。
まさに、これからの新文明にふさわしい、「宇宙の至高のあたりまえ教」ですね。
心から、心から、ありがとうございます。