宇宙は神の心の表現体であり、神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
真理(神の心)が「天」であり、現象利益(神の体)が「地」で、永遠に天地一体です。
民主主義とは「人民共通の利益に基づいた国家契約」ですので、相対的な利益(神の体)を「天」に置いている政治体制です。
神の体を「天」に置けば、それを永遠に「地」に置いておられる大宇宙、すなわち神の心と離れていきます。
宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪ですので、今の文明を構成する民主主義や資本主義、あるいは社会主義は、神の体(利益と物質)を「天」に置いておりますので、見事に大宇宙と離れた文明と言えます。
大宇宙(神)と離れれば、如何なる存在であろうとも「悪の存在」になりますので、その悪の性質である「自己破壊性」によって、みずから滅びの道を進んでいくことになります。
大宇宙(神)と対立して生き残れる文明は存在しません。
相対的な物質の属性とは、相対的な「利益と快楽」であり、その正体は「矛盾」です。
神の体を「天」に置いた文明とは、「矛盾」を「天」に置いた文明なのです。
大宇宙や自然界は、統一(神の心)が永遠に「天」に置かれておりますが、人間の創る文明は、矛盾(神の体)が「天」に置かれているのです。
矛盾は、必ず対立を生みますので、矛盾を「天」に置いている限り、無限の悪が豪雨のように人類に降り注いでくるのです。
そして一人、また一人と倒れていきます。
つまり今の文明は、神の体を「天」に置くことによって、「パンドラの箱」を開いてしまったのです。
「パンドラの箱」を開けば、あらゆる厄災と罪業が無限に世に放たれていきます。
この無限の悪に歯止めをかけ、食い止めていくには、大宇宙や自然界と同様、神の心を「天」に置いた「宇宙即我の文明」を建設していくしかありません。
神の心(真理)を「天」に置き、神の体(利益と快楽)を「地」に置いた「天地一体の文明」です。
次世代の文明は、この「宇宙即我の文明」であり、「天地一体の文明」なのです。
実際、民主主義における「人民共通の利益」などは存在しませんが、「人民共通の人生の意義」ならば存在します。
相対的な利益は「矛盾」を意味しておりますので、既存の民主主義における二大概念である「自由と平等」は「矛盾」しているわけです。
神の存在を否定して、「平等」はどこにも存在しないのに、「平等」を教えている点が矛盾しているのです。
「平等」とは、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類が有するもののうち、そこには微塵も「差異」があってはならず、完全永遠に同一同質同量同規模でなければ、それを「平等」とは言いません。
人間の肉体を捉えても、身長・体重・顔形・指紋・声紋・生理現象に至るまで悉く「差異」があり、平等の肉体は存在しません。
精神を捉えても、その個性の相違ゆえに平等はないのです。
法の下における平等も、各国において法は異なり、過去の法と現在の法も違います。
厳密に言って法の下における平等は、「差異」があるため存在しないのです。
死の下における平等も、厳密に言って存在しません。
ある者は20代で死亡し、ある者は60代で死亡し、ある者は80代で死亡するため「差異」があるのです。
「平等」と言うならば、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類が有するもののうち、そこには微塵も「差異」があってはならず、「差異」がある場合、それを「平等」とは言いません。
自他が有するもののうち、それは完全永遠に同一同質同量同規模でなければ、それを「平等」とは言わないのです。
それは人類には、たった一つしか与えられていないのです。
心の中心に同一同質同量同規模の全く同じ一つの神の心を宿しているという点においてのみ、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類は、永遠に平等と言えます。
この神の心は、「永遠の統一者」ですので、そこには微塵も「差異」がなく、万人共通の永遠の「人生の意義」になっています。
大魔王即大如来としての神です。
大魔王のルシフェルも、かつては天上界にいたわけですから、その心の本質には神の心が存在しているのです。
地獄に堕ち、堕天したからと言って、その神の心がなくなったわけではないのです。
大魔王の心の本質にも神の心はあり、大如来の心の本質にも全く同じ神の心があるのです。
大魔王と大如来の絶対矛盾は、神の心によって永遠に統一されています。
神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎
神の心を見性した時、大魔王即大如来となるのです。
大魔王と大如来は、神の心の下において永遠に平等であるということです。
大魔王と大如来を平等にしているのは、この神の心なのです。
人間であろうが、人格神であろうが、所詮、この大魔王即大如来としての神にはなれません。
これが「真の平等」であり、真の神なのです。
人類は、みなその心の根源的本質に、この大魔王即大如来としての神を持っているということです。
人間の心は、この微塵も「差異」がない一つの神の心につながっているのです。
この神の存在を否定すれば、「平等」がなくなりますので、大魔王と大如来の矛盾は永遠となり、天国と地獄の矛盾も解消することはありません。
つまり神の存在を否定すれば、永遠に生きても地獄界の解消はないのです。
また神の存在を否定すれば、「平等」がなくなり、人類の共通性もなくなりますので、普遍的な価値の一切が消滅します。
神の存在を否定すれば、人類はその「全ての全て」を失うのです。
人類が今後も「平等」を認めますならば、神の存在は認めなければなりません。
何故ならば、神の存在を否定しますと、人類は「平等」を失うからです。
神の心の下においてのみ人類は、永遠に平等なのであり、これ以外は全て差別相です。
宇宙の果てに行ってもここ以外に「平等」はありません。
神の存在以外に「平等」があると言われますならば、それを示せばいいのです。
人類のうち誰も示せないのです。
それは「ない」からです。
「真の平等」を理解すれば、神の存在を認めざるを得なくなり、神の存在を認めざるを得なくなれば、今度はあの世の存在も認めざるを得なくなるのです。
あの世の存在を否定する者は、死後の世界はないと言っているのであり、死後、人間の「心」は「無」になると言っているのと同じです。
死後、人間の「心」が「無」になるのならば、その「心」の中心に存在する神の心も「無」になりますので、人類から「平等」が失われるのです。
「真の平等」を認めますならば、神の存在とあの世の存在は、認めざるを得なくなるのです。
神の心を否定して人類に「平等」は存在しません。
物心は神の差別相です。
大魔王即大如来としての神以外は全て差別相です。
神の心の下においてのみ人類は、永遠に平等であり、その平等の神の心に従って自由を行使しますならば、ここに「真理は汝を自由にせん」という真の自由が実現していきます。
そしてこの平等の神の心は、「人民共通の利益」ではなく、「人民共通の人生の意義」です。
民主主義下で矛盾している「自由と平等」の二大概念は、神の存在によって統一止揚されます。
『神約民主論』とは、神の心を「天」に置き、神の体を「地」に置いた「天地一体の政治体制」であり、「宇宙即我の政治体制」ですので、民主主義の進化体制です。
「人民共通の利益に基づいた国家契約」である民主主義から、「人民共通の人生の意義に基づいた国家契約」である『神約民主論』国家の実現が全世界を救うのです。
この神の心が、自己を客体化した世界が、大宇宙ですので、『神約民主論』国家の実現を通して、「大宇宙の絶対的権威の確立、人間精神の本質の客観化、神の存在の永遠化」を実現すれば、今回の救世運動は終了です。
今回の「救世の法」の基本の柱は、3つあり、一つ目は「多次元世界の存在」、いわゆる潜在意識に存在するあの世の世界です。
二つ目は、「輪廻転生の法則」です。
三つ目は「悟りの段階論」です。
GLAから幸福の科学の流れの中で、この3つの法が説かれてきたわけですが、未だ不十分な説き方しかされていないのです。
GLAの高橋信次氏は、確かに「反省法」を完成させましたが、「悟りの段階論」までは説いていないのです。
「多次元世界」や「輪廻転生の法則」も、主に霊道現象で証明していたのです。
あの時代では、そういう説き方しかできなかったのです。
ただ霊道現象で「多次元世界」や「輪廻転生の法則」を説いていきますと、疑り深い人はいるものであり、その霊道現象を信じる人もいるでしょうが、信じない人も出てくるのです。
霊能力で説いていきますと、どうしても方便の限界にぶつかるのです。
幸福の科学は、「多次元世界」は『永遠の法』で、「輪廻転生の法則」は『黄金の法』で、そして「悟りの段階論」は「愛の発展段階説」として『太陽の法』で説きました。
ただ幸福の科学は、1994年にこの「救世の3部作」を書き換え、神の心(統一)を知る道から、エルカンの心(矛盾)を知る道へと書き換えることによって、「人生の意義」の合理性を失ってしまったのです。
「多次元世界」と「輪廻転生の法則」、そして「悟りの段階論」は、バラバラに説かれる法ではなく、この「人生の意義」によって連関と統一を保っているのです。
霊道現象での証明も否定はしませんが、この3つの法は、「天地一体の理法」から説かれなければならないのです。
そうでなければ、霊能力のない第三者が、その知性に照らして、この3つの法の正邪を判断できなくなるからです。
一体、人間は何のために生きているのか?
一体、大宇宙は何のために存在しているのか?
この3つの法は、この存在の根幹への問いに関して、合理的な答えを与えるための法だったのです。
一体、人間は何のために生きているのかという問いに関し、今までの偉人や天才は、真正の自己を知り、神の心を知るために生きていると説いてきたのです。
汝自身を知れ : ソクラテス
悟りとは、真正の自己を知る、これに始まってこれに尽きる : 西田幾多郎
汝自身の中に「完全なる神の心」がありますので、ソクラテスはこれを「知れ」と言い、西田哲学では、真正の自己、すなわち神の心を知れと説いてきたのです。
一人一人の心の中には、霊格の高低に関係なく、同じ神の心が存在しており、それは「完全なる正しさ」が存在していることを意味します。
神の心は完全な叡智であり、完全な正義であり、完全な愛です。
大宇宙にはこれが表現されており、5次元幽界人から10次元宇宙界人に至るまで等しく、その心の中に存在するわけです。
人間は何のために生きているのか。
この真正なる自己(神の心)であり、完全なる正しさを悟るために生きています。
悟らなければ、世界から正義が失われるだけです。
大宇宙と同様、神の心の「天」と人間の心の「地」が、天地一体になった時、地獄に堕ちる人間は一人もいなくなります。
神の心と合一して地獄に堕ちる人はいないからです。
一人も地獄に堕ちることなき地上天国の建設とは、人類各人がこの天地一体の悟りを得るにあります。
「完全なる神の心」を悟り、真正の自己を知ると言いましても、たった1回、わずか80年の人生でこの真正の自己であり、「完全なる神の心」を悟れる人は存在しないのです。
80年以内に自己の本質である「完全なる神の心」を悟れというならば、それは無茶な話なのです。
そのような人は、かつていなかったし、今もいないし、今後もいないのです。
確かにみな「完全なる神の心」を持っておりますけれども、これを知ることが「人生の意義」と言われるならば、この真正の自己を悟っていくには、「永遠」を必要とするのです。
「永遠の世界」が存在しなければ、誰も内に宿す「完全なる神の心」を悟れないのです。
「永遠」がなければ、わが心の全てを悟ることはできません。
神は、子に全てを与えておりますので、たった80年でその全てを悟れるかのような小さな心は与えていないのです。
「永遠」がなければ、悟ることのできない心を人間に与えているのです。
「永遠」が存在しなければ、完全なる神の心と言う「天」に、人間の心と言う「地」が、到達できなくなり、天地が分離するのです。
天地一体が善であり、天地の分離が悪ですので、あの世の世界を否定すれば、人はわずか80年で「天(神の心)」に到達することはできませんので、天地は分離します。
「永遠の世界」、いわゆるあの世の世界を否定すれば、人生は1回限りとなり、真正の自己に誰も到達できなくなりますので、神の心を悟ることが「人生の意義」とは言えなくなるのです。
「永遠の世界」が存在して、初めて人は自己の完全なる本質を悟っていくことができるのです。
「天」にある神の心に向かって進化していくことができるということです。
あの世の存在の肯定は、天地一体であり、あの世の存在の否定は、天地分離です。
あの世の存在を否定すれば、完全なる自己の本質である「天(神の心)」に到達することはできませんので、万人共通の「人生の意義」を説明できなくなるのです。
だから今回、GLAと幸福の科学では、この「永遠の世界」、すなわち「多次元世界」が説かれたのです。
「永遠の世界」がなければ、完全なる神の心(天)に到達していくことはできないということです。
1回の人生では無理です。
次に人が「永遠」を生きるにしろ、1回限りの人生修行では、同じく真正の自己である「完全なる神の心」に到達していくことはできませんので、人類各人が修行をしていく必要があるのです。
時代と地域を変えて、輪廻転生を通して、何度も人生修行を繰り返し、真正の自己(天)を悟っていかなければならないのです。
「輪廻転生の法則」を否定すれば、1回限りの80年の人生で終わりです。
80年以内に「完全なる神の心」を悟ることはできないのです。
すなわち「輪廻転生の法則」を否定すれば、誰も「天(神の心)」に到達することはできないということです。
輪廻転生の肯定は、天地一体であり、輪廻転生の否定は、天地の分離です。
誰もが真正の自己にして、「完全なる神の心」に到達していくには、「輪廻転生の法則」が必要であるということです。
神の心を知ることが、「人生の意義」としますならば、「輪廻転生の法則」を説かなければ、「人生の意義」を合理的に説明できなくなるのです。
輪廻転生を否定すれば、誰も「天(神の心)」には到達できないからです。
到達もできず、知ることもできない神の心が、人間の「人生の意義」になることはありません。
神の心を知ることが「人生の意義」であるならば。その神の心に到達できなければならず、知ることができなければならないのです。
神の心の「天」と人間の心の「地」を天地一体にするために「輪廻転生の法則」が説かれたのです。
輪廻転生を通して、人生修行を繰り返すことによって、誰もが自己の真の本質に到達していくことができるのです。
世の中には悟りの高い人もいれば、悟りの低い人もいるのです。
様々な人が存在しておりますが、如何なる悟りの段階にある人であろうとも、永遠のタイムを通して等しき高さ(神の心)に到達するのです。
5次元精霊界から入ろうが、7次元神界から入ろうが、どの悟りの段階から入っても、同じ高さに到達していくために「悟りの段階論」が説かれているのです。
「多次元世界」、「輪廻転生の法則」、そして「悟りの段階論」の3つの法は、バラバラに説かれているのではなく、真正の自己を知り、「完全なる神の心」を悟るという「人生の意義」によって統一されているのです。
それは世界に「人生の意義」を合理的に説明した宗教がないからなのです。
仏教では、「人生を苦」と説き、この世を苦界と定義しています。
この世を苦界と定義する限り、地上天国はできないのです。
輪廻転生も不正確であり、実際とかなり違った法になっています。
キリスト教でも、輪廻転生を否定しておりますが、ではどうやって自己の完全なる本質に到達するのでしょう。
1回限りの人生では、自己の本質である「完全なる神の心」に到達することはできないのです。
「天」に到達できないということは、天地が分離しているということです。
天地の分離は、不幸の原理なのです。
古い宗教は仕方がないわけですが、仏教を見ましても、キリスト教を見ましても、「人生の意義」を合理的に説いた宗教が、世界を見渡しても存在しないのです。
古い宗教は、既に役割を終えているということです。
だから今回「救世の3部作」が説かれたのです。
特に多次元世界を説いている宗教は、GLAか幸福の科学しかないわけです。
ただこの3つの法を説かなければ「救世の法」とは言えません。
霊道現象も否定はしませんが、この3つの法は、「天地一体の理法」から説かれなければなりません。
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今まで火曜日は、時事ネタを扱っていたのですが、少し真理関係の記事が増えそうです。
現在、カテゴリーの整理と修正に入っておりますので、今月から恐らく真理関係の記事が増えます。
そもそもが時事ネタのサイトではなく、真理専門のサイトですからね。
 
























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