真理の柱の1番目は「輪廻転生の法則」であり、2番目の柱が「多次元世界の存在」です。
そして3番目が「悟りの段階論」です。
この3つが新たな文明の柱になる真理です。
あえて4番目を上げれば「神の本義」ですが、これはむしろ真理の柱というより土台です。
過去・現在・未来の全人類の心を永遠にその中心から統一している存在です。
これが既存の宗教では、大抵名称のある方便の神を拝ませておりますので、統一がなく、信仰の対象がバラバラになっているのです。
信仰の対象はこの宇宙では一つしかないのですが、色々な信仰対象を作ることによって宗教の世界ではバラバラに解体されているのです。
これは既存の宗教の教祖が、神とは何かが分かっていないということですが、大抵方便の神を拝ませているのです。
方便の神を拝ませれば、また宗教戦争が始まるだけです。
これを一旦、今回の「救世の法」において整理する必要があり、それが宗教改革の目的だったはずですが、大失敗に終わっています。
また方便の神への信仰を説いてしまったのです。
ミカエルなどは「我は今、勝利の宣言をする」なんて格好いいことを言っておりましたが、宣言なんかすると大抵碌でもない結果になる。
GLAのミカエル宣言。
エル・カンターレ宣言。
イエスの救世開始の宣言。
ミカエルの勝利の宣言。
もう、フライングしまくちゃってね。
回りの人間はいい迷惑で。
ミカエルも勝利を宣言した後、舌の根も乾かない内に出られなくなってね。
勝手に勝利宣言をした後、直ぐにあの世に引っ込んじゃって、どこかに行っちゃって、ドタバタ劇を演じていました。
あの勝利の宣言とやらは一体何だったんだ、という事態になっています。
あの世の力を利用した「おもろい夫婦のドタバタ劇」も、色々な人達から恨みをかっているようです。
「法の編纂」という使命がありますから、GLAや幸福の科学に関して言及しておりますが、当サイトはこの両団体に属したこともなく、関わったこともなく、また講演会にも一度も行ったことはありませんので誤解しないように。
当サイトが扱っているのは、あくまで高橋信次氏時代のGLAの教えであり、今のGLAの教えではありません。
高橋信次氏が、釈尊の反省法を完成させたために扱っています。
お弟子さんの方は、その事実も理解できていないようですが、仏陀意識の「悟りと反省」のうち「反省法」は高橋信次氏が完成させておりますので、後は「悟り」の完成を目指すだけです。
本来、この悟りの完成こそが幸福の科学の使命だったのです。
悟りの完成と反省法の完成によって「悟りと反省」の仏陀意識の救世の法の完成となる。
従って幸福の科学の教えも現在の教えを扱っているわけではなく、カルト化する前の1989年までの教えを扱っています。
何かGLAと幸福の科学のおいしいとこ取りをしているように見えますが、別にそういうことではなく、神の心を基準にしますとそうならざるを得ないというだけです。
法に毒を入れるわけにもいかないということです。
従って現在の幸福の科学やGLAの教えを扱っているわけではありません。
特に幸福の科学では、法が無茶苦茶になってしまい、手の施しようがないため、「法の編纂」は一から仕切り直しです。
宇宙意識は、人間のような肉体をもって修行するような意識ではないのですが、本人が創造主を名乗り、宇宙意識が人の肉体をもっていることになっておりますので法の根幹が矛盾する事態になっているのです。
神は大宇宙という体を既にもっておりますので、人間のような肉体に宿ることはありません。
それを宿ったと主張しているからおかしいのです。
かれこれ宇宙の創造主歴28年目に突入しました。
言ってもどうせ聞きませんので、当サイトは「法の完成」に特化しています。
悟りは個人に属するものですので、本人に悟って頂くしかありません。
近代において神の思想を悟られ、また説かれた方は基本的に「神の本義」に関しては共通していますが、既存宗教の教祖の方々は共通しておらず、要は神とは何かが分かっておらず、悟っていないということです。
大衆相手に詐欺をやっているということです。
ヘーゲルやエマソン、西田幾多郎や高橋信次等、神の思想を悟られていた方々というのは、近代ではほんの片手で数えられるほどの人しかおりませんが、「神の本義」に関しては共通しているのです。
過去・現在・未来に出てくる全ての真理は、大宇宙と自然界にその淵源を持っている点は悟っています。
従って神の心とは、自己の潜在意識から般若の知恵を引いてきて説くか、あるいは大宇宙や自然界の構造と仕組みを読み取って法を説くか、この二つしかありません。
本来、神への信仰というのは宇宙の神秘と叡智への信仰であり、その宇宙は人間生命の本質が表現しておりますので、自己の本質を信ずることと言ってもいい。
だからエマソンも神への信仰を「自己信頼」の思想として残しました。
自己の心の無限性を信ずることを、神を信ずるというのです。
神とは人の心の中に存在しているからです。
バイブルやコーラン、あるいは仏典を拝むことを神への信仰というのではないのです。
神の心というのは、この世では眼前の大宇宙と自然界にしか表現されていないのです。
道端に咲く花一輪にすら神の栄光はあらわれています。
聖書が一言一句神の言葉なのではなく、自然界と宇宙に表現されている神の心こそが永遠に一言一句神の言葉なのです。
ヘーゲルもエマソンも、また高橋信次氏でもいいですが、みなこの大宇宙と自然界に表現されている神の心を読み取って真理を説いてきたのです。
近代、神の思想を悟られた方はこの点はみな悟っており、自己の真理を自然界と大宇宙から引いてきて説いています。
多種多様な仏典を記した人の生命の本質と聖書を書いた人の生命の本質、あるいはコーランを降ろしたアラーの生命の本質は、神の心において同じだと言っているのです。
何故同じなのか?
一人一人の生命の本質には神が存在するからです。
全て神の心という同じ心につながっており、万人はこの自己の本質を知るために人生を歩んでいます。
そしてこの神の存在を否定すれば、人類から平等が失われ、人類の共通性が失われ、普遍的な価値の一切が失われるため神の存在を否定することはできないということです。
神の存在を否定すれば、人類から平等が失われ、全てが差別相になってしまい、その時点で人類の救済も幸福も全てなくなってしまうからです。
神を失えば、人類はその全てを失うということです。
よく人は平等、平等と言いますが、神の存在を否定して平等があるならば、それを示してご覧なさい。
肉体を捉えても平等の肉体はなく、心を捉えても個性ゆえに完全な平等はありません。
時間の下における平等もなく、空間を基準にしても厳密に言って平等はありません。
死の下における平等を取っても、ある者は30代で死亡し、ある者は80代で死亡するため厳密に言ってそれは平等とは言えない。
365日経てば等しく人間は1才年を取るという点において平等というのも相対性理論以降は否定されています。
人には同じ時間が流れていないため平等とは言えません。
平等とは、自他が有するもののうち完全に同一同規模同量同質でなければ平等とは言えず、その自他に微塵も差異があってはならず、未来の人類一人残らずに対しても完全に同一同規模同量同質でなければ平等とは言えない。
過去の全人類と現在の全人類、そして未来に生まれてくるであろう全人類一人残らずが有するもののうち、そこには微塵も差異があってはならない。
差異がある場合、それを平等とは言わない。
この平等は人類にはたった一つしか与えられていません。
それが人間生命の本質である神の心であり、これは自他の関係の中で完全に同一同規模同量同質です。
従って神の存在を否定した場合、人類には平等は一つもなく、全てが差別相になります。
要は「神の本義」とは、大魔王即大如来としての神です。
悪さをしておりますけれども大魔王の生命の本質にも神の心はあり、大如来の生命の本質にも同じ神の心があるのです。
過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全霊人は、神の下においてのみ永遠に平等であるということだ。
そしてこの自己の本質を知ることが人類共通の「人生の意義」となっている。
既存の民主主義諸国は、この真の平等を知らないのです。
そしてこの平等の神の心に従って自由を行使した時、真理は汝を自由にせん、全人類は自由となる。
民主主義諸国で矛盾している二大概念である「自由と平等」は、神の存在によってアウフヘーベンされ、正確な概念に戻る。
人民共通の利益に基づいた国家契約である民主主義から人民共通の人生の意義に基づいた国家契約である神約民主論国家の実現により、この地球という惑星は、更なる飛躍的な進化を遂げ、神の星となる。
既存の宗教は、人類が信ずるべき最も大切な神の心を誤解させているのです。
「神の本義」とは、この大魔王即大天使としての神であり、これが人類が信ずるべき真の信仰の対象です。
過去・現在・未来の全人類の心は、この神の心が永遠に統一しているのです。
神とは思惟の根底にあって統一している或るもの : 西田幾多郎
神への信仰とは、信ぜよというようなものではなく、認めざるを得ず、信じざるを得ない存在なのです。
神の存在を否定すれば、人類から平等が失われ、人生の意義が失われ、普遍的な価値の一切が失われてしまいますので、認めざるを得ないのです。
神の心とは、普遍的な価値の一切を永遠に担保している心です。
神の心を否定した場合、普遍性がなくなってしまうのです。
神への信仰によってのみこの星は完成を見る。
神の心以外にこの星を完成させるものは存在しない。
従って神の存在というのは柱というより、今後の文明の土台です。
過去、神の思想を悟られた方もこの大宇宙と自然界から神の心を読み取っているのです。
だから西田哲学でも大宇宙や自然界の現実そのままが真理であると説かれてきたのです。
GLAでも「自然界は法のあらわれである。
人はこの法をもって思いと行いを正せよ」と説いていました。
自然界に神の法があらわれていることを悟っているのです。
エマソンは、言葉だけが象徴的なのではない。
自然界の事物や対象そのものが神の心の象徴なのだと残しています。
神の心が自然界に象徴としてあらわれている事実をエマソンもきちんと悟っています。
大宇宙や自然界にのみ神の心は、象徴として、現実として、ポエムとして、また存在としてあらわれており、神の心の淵源はこの大宇宙であり、自然界である点をみな悟っています。
ヘーゲルも「理性的なものは現実的、現実的なものは理性的」と残しており、神の心は大宇宙や自然界に現実化されている実に現実的なものであり、宇宙や自然界という現実にはまた神の心があらわれているとその哲学で説いています。
やはり神の心は大宇宙や自然界に現実化している点を悟っているのです。
GLAでも高橋信次氏は、別にエル・ランティ信仰など説いておらず、GLAの御本尊は「大宇宙・大神霊・仏」だったのです。
やはり「宇宙即我」の悟りから大宇宙が神である事実を悟っていたのです。
これが人類が今後信ずるべき神なのです。
個性のある人格神もおりますが、もちろん否定してはいけませんけれども、「神の本義」における神とは、この全ての人格神をその心の中心において永遠に統一している存在です。
だから西田哲学でも、神とは宇宙の大統一者と言ったのです。
神の心が「天」であり、人格神と諸神霊は「中」であり、地上人間はみな「地」なのです。
生き神信仰は、この「天」・「中」・「地」の神の絶対的秩序を破り、「地」に過ぎない人間が「中」になったり、「天」になったりしているから間違っているのです。
神の絶対的秩序を犯しているからです。
高橋信次氏も生前、人さまを信仰の対象とする生き神信仰は厳に戒めていたはずです。
生き神さまは、イエスであれ、釈迦であれ、誰であれ、人類共通の人生の意義とはなり得ず、普遍性を欠いている存在であり、それでもその生き神さまを神として信ずるならば、その信仰は狂信であり、盲信に過ぎません。
神への信仰者とは、とても言えません。
むしろ人の心を狂わせていることになります。
生き神さまは、修行者である人間に対して神の心に導こうとせず、自己に導いている点、人の貴重な人生修行を奪っているとも言えます。
信ずるならば神を信ずることです。
その神が分からなければ、自己の良心を信ずることです。
その良心を悟りによって掘り起こすことです。
人の良心を離れて神の心は存在していないのです。
神の心は、自己の良心と永遠に一体化しているのです。
8次元菩薩界の神霊が神の心を説けず、9次元如来界の神霊、あるいは10次元宇宙界の神霊が神の心を説けるのは「宇宙即我」をみな悟っているからです。
人間の体を養っているのは神の体です。
人間の心を養っているのは神の心なのです。
神の体である自然界から原油を取り、精製し、自動車を動かしたり、飛行機を飛ばしたり、あるいは工場の機械を動かしたりしているはずです。
また暖房を取ったり、神の体から鉄を取って自動車を作り、売買しているはずです。
自然界に植えれば実ってくる食べ物を食べたり、神の体に依存しているはずです。
空気も吸わなければ誰一人生きられないはずです。
過去・現在・未来の全人類は例外なく、空気を吸わざるを得ず、水を飲まざるを得ず、食べ物を食べざるを得ないのです。
それを否定すれば、人はみな死んでしまいます。
空気など3分間吸わなければ死にます。
人は神の体に依存せずして3分と生きられません。
生きているのではなく、神から生かされているのです。
神の体が人間の体をずっと養っているではないか。
人間の心も神の心やそれに従っている諸神霊の導きによって生かされているではないか。
人間の心と人間の肉体は、神の心と神の体、すなわち大宇宙に依存しているではないか。
宇宙が神だからです。
宇宙と人類は永遠に一体なのです。
子供が親から離れては生きられないように、人間も大宇宙と離れては生きられないのです。
だから人間を神の子というのです。
大宇宙が全ての惑星を生かしており、神の体の一細胞である自然界が、事実として過去・現在・未来の全人類を生かしています。
9次元如来界の神霊は、この過去・現在・未来の全人類を生かしている大宇宙と一体の悟りをもっているがゆえに神の心が説けるのです。
8次元の菩薩は、まだ全人類を生かしている大宇宙と一体である「宇宙即我」の悟りをもっていないから神の心を説くことが許されていないのです。
如来界以降の神霊は、人類を生かしている大宇宙と一体の悟りをもっているのです。
宇宙と一体であるとは、宇宙の理法に十分通じているということであり、だから神の心が説けるのです。
如来と菩薩を分ける悟りは主に3つあり、一つはこの宇宙即我の悟りであり、二つ目は天地一体の悟りです。
そして3つ目が神人合一の悟りであり、この3つの悟りが如来と菩薩を分けている悟りなのです。
如来の方々はこの3つの悟りをみな持っていますが、菩薩はもっていないのです。
従って今後もそうですが、神の御名を語り、神の心を説くことが許されているのは、この9次元如来界以降の神霊です。
過去・現在・未来の全人類を生かしている大宇宙や自然界と同体であるがゆえにその大宇宙の心が説けるということなのです。
この点は今後の未来でも変わりません。
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