真理関係

真理の柱 10

宇宙は神の心の表現体であり、神の心と神の体は、永遠に一体です。

神の心が「天」であり、神の体(物質)が「地」で、永遠に天地一体です。

人間は、神の子であり、大宇宙の子ですので、人間の体は、神の体(自然界)が育てており、人間の心は、神の心が育てています。

「神の心」と「神の体」で構成されている大宇宙、すなわち神御自身が人類を育てているのです。

親が子供を育てているようなものです。

人間の体は、物質に過ぎませんので、自然界(神の体)が育てているといっても、高くて2メートルほどしか成長できませんが、人間の心は、神の心によって宇宙大にまで成長していくことができるのです。

自己の心が、宇宙大にまで成長した存在を仏教では「如来」と言い、キリスト教では「大天使」と言います。

如来界共通の悟りとは、色々とありますが、一つには「宇宙即我」の悟りであり、二つには「天地一体」の悟りであり、三つには「神人合一」の悟りがあります。

四つには「自然即我」の悟りがあり、五つには「多次元世界即我」の悟りもあります。

「あの世即我」であり、「この世即我」の悟りです。

大宇宙や自然界、あるいは多次元世界の存在そのものが神である事実をみな悟っておられるのです。

すなわちこれらの悟りは、如来界共通の悟りなのです。

人類は80億人ですが、如何なる人間であろうが、自己の心を最高度の頂点まで悟りましたら、この如来界に入っていきます。

神の正しさを信じた者が、その正しさを頂点まで悟りますと、共通して大宇宙の存在に到達し、死後はこの如来界に入っていくのです。

「自分の心を最高度まで悟っても、にょだい界に入りだくなあーい」と鼻水垂らして、泣きべそかいても、そのようなわがままは通用せず、誰であろうが、この如来界に否応なく入っていくのです。

手足をジタバタさせて、駄々をこねても無駄。

地団駄を踏んで暴れ回っても通用しません。

わが心を最高度まで悟れば、必ず如来界に入ります。

人間では、どうしようもないのです。

「にょだい界に絶対入りだくなあーい」と涙目でわがままを言っても、否応なく入れられます。

菩薩の悟りを持てば、菩薩界に否応なく入れられますし、如来の悟りを持てば、如来界に否応なく入れられるのです。

「にょだい界に入りだくなあーい」と言っても、無理やり入れられます。

無駄な抵抗です。

人間のご都合主義では、どうにもなりません。

人間ではどうにもならないのは、多次元世界も、この世も、全て神の心が治めておられるからです。

その方がどういった「心」を創ったのかは知りませんが、誰であろうが、神の定めた通りの世界に還っていきます。

如来界とは、如来がそう決めたのではなく、神御自身が直に最も神のそば近き世界として決めた世界なのです。

従って人類80億人の霊的進化の最高峰が、この如来界の方々です。

善を目指せば、必ずその頂点に如来界のお歴々がおられるということは、ここが人類の模範の世界であり、人類はみなこの如来界を目指して修行をしているのです。

善を目指し、正しい道を歩み、その正しさの極点まで行けば、そこに如来界があるということです。

三蔵法師が目指した天竺のようなものです。

逆から言えば、自己の悟りが、如来界にまで到達していない限り、その方の悟りはまだ十分ではなく、その悟りに未熟があることを意味しています。

個人であろうが、人類全体であろうが、文明であろうが、今後はこの如来界を目指し、模範にしなければならないのです。

天竺を目指してレッツゴーの西遊記の世界です。

個人であろうが、人類全体であろうが、人間はここを目指して「永遠」を生きているからです。

善を信じた者や正義を信じた者が、その悟りを極め、最高度まで悟れば、誰であろうが、否応なくこの如来界に入っていくのです。

従って人類の「永遠の模範」であるこの如来界の悟りの内容が、具体的に明らかになっていくことが、今後重要な問題になってくるのです。

個人も人類も、あるいは文明もここを目指しているからです。

多次元世界は、山の世界であり、西から登ろうが、東から登ろうが、悟りを極めれば、同じ如来界という頂上に到達するのです。

東西南北、北東北西、南東南西、どの方位から登ろうが、その頂上には、みな同じ大宇宙の存在があり、如来界の悟りがあるのです。

キリスト教や仏教、その他の宗教のどの方位から入っても、神の正しさを信じ、その正義の道を登っていけば、その頂上には、如来界の方々が存在し、ニコニコと微笑んでいるのです。

俗に神の心を説くことができるのは、この如来界からです。

「宇宙即我」の悟りを共通して持っておられますので、神の心が説けるのです。

宇宙と同体であるということは、宇宙の理法に十分通じておりますので、宇宙に記載されている神の心を直接読み取ることができるのです。

菩薩以下が、まだ神の心を説くことを許されていないのは、この「宇宙即我」の悟りを持っていないからであり、大宇宙や自然界に記載されている神の心を十分読み取ることができないからです。

イエスも述べていたと思いますが、まだ自分の悟っていないことを人に教えれば、人心を誤った方向に導くことになるのです。

従って神の心と言い、真理と言うならば、この「宇宙即我」の悟りを説けなければならないのです。

これは如来にしか悟れない悟りなのです。

宗教の正邪を分ける最も簡単な方法は、この「宇宙即我」の悟りを説けるか、否かなのです。

こっちの宗教が本物よ、あっちの宗教が偽物よ、と人間の多数決で正邪が決まっているわけではありません。

それが本物の神の心を説いている宗教か、あるいは偽物の神の心を説いている宗教か、その正邪を分けているのは、この「宇宙即我」の悟りなのです。

その宗教の教祖が、果たしてこの「宇宙即我」の悟りを説いているのか、いないのかで分かるのです。

本物の神の心ならば、この「宇宙即我」の悟りが説けるのです。

偽物の神の心や偽りの真理は、この「宇宙即我」の悟りが説けないのです。

それはまだ大宇宙の奥義と経綸を授けられていないことを意味します。

その宗教が本物の神の心か、偽物の神の心かを知りたければ、その宗教の教祖に、この「宇宙即我」の悟りを問えば分かるのです。

本物の神の心ならば、この「宇宙即我」の悟りを説けますが、偽物の神の心や偽りの真理は、この「宇宙即我」の悟りを説けないのです。

これが最も簡単な宗教の正邪の分け方です。

教祖自身が「宇宙即我」の悟りを説けないわけですから、そこの信者の人も知らないのです。

どの宗教でも構いませんが、そこの信者の人に「宇宙即我」の悟りを問うてみればいい。

教祖から教えられておりませんので当然、信者の人も知らないし、答えられないのです。

これが俗に言う邪教を信じている教祖や信者の普遍的な特徴なのです。

「宇宙即我」の悟りの内容を問うても、答えることができないのです。

宗教とは、宇宙の心と人間の心を同じくし、自然界の心と人間の心を同じくする「宇宙即我」の道を説くものです。

正法とは、神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけなのです : モーゼ

だから神の心と人間の心が離れれば、悪になるのです。

「宇宙即我」の悟りを持っておりませんと、そもそも宇宙の心と人間の心を同じくすることはできないのです。

もしその宗教が、この「宇宙即我」の悟りを説けなければ、それは偽物の真理を説いているということであり、人さまに嘘を信じさせていることになるのです。

何故ならば、神の心と言うのは、この世では、大宇宙や自然界にしか記載されておらず、それを読み取るには、「宇宙即我」の悟りを持っていなければ、決して読み取ることができないからです。

よりもっと簡単な宗教の正邪の見分け方は、神の存在を知っているのか、いないのかで分かるのです。

本物の神の心を説いている宗教は、大宇宙の存在が神であるという事実を知っておりますが、偽物の神の心を説いている宗教は、それは偽物ですので、大宇宙の存在が神であるという事実を知らないし、説けないし、答えられないのです。

だから大宇宙以外の、何か名称のある方便の神やおかしな神を信じさせているのです。

何たら大明神だの、何たら大権現だの、生き神さまだの、神でも何でもないものを神であるとして信じさせているのです。

これは「救世の法」が説かれる時代では、明確に邪教と呼んでも差し支えのない宗教であり、大宇宙という真の神の姿を、おかしな神を振りかざして覆い隠しているのです。

宇宙や自然界が神であるという真の神の姿を分からなくさせているのです。

現代の人類が知らなければならない喫緊の事実とは、眼前に存在する大宇宙や自然界そのものが神であるという事実を知ることなのです。

20秒です。

高橋信次氏も「神はこの自然界、大宇宙そのものが神なのです」と言っているはずです。

ここ250年間を取っても、「神の思想」を悟られた方は非常に少なく、片手で数えられるほどの人しかおりませんが、何も高橋信次氏だけではなく、ヘーゲルやエマソン、あるいは西田幾多郎博士も、みな大宇宙の存在が神である事実は悟っておられたのです。

如来格の霊格を持っていながら、「宇宙即我」の悟りを持っていなかったのは大川さんぐらいです。

「宇宙即我」の悟りを持っていなかったから、宇宙の存在を神だと悟れず、生き神信仰に走り、幸福の科学をカルトにしてしまったのです。

高級霊から個人崇拝や生き神信仰はやるなと言われとったろ。

後の祭りですが、大抵の如来は一人で悟るものです。

数千年前の古い宗教では、まだ学問や科学が発達しておりませんので、確かに神近き名称のある人格神が、創造主を名乗って人間を導くことが許されていた時代もありました。

大宇宙や自然界を神であると説いても理解できない時代だったからです。

当時は、あの世を多次元世界と説いても理解することはできなかったのです。

古い時代では、名称のある神や方便の神の名を名乗って導くことが許されていたのです。

ところが、現代はそれが許されていないのです。

これを「時代の要請」と言いますが、現代は本当の神への信仰が説ける時代になっているからです。

「救世の法」が説ける時代なのです。

本物の真理は、大宇宙の存在を神と説きますが、偽物の真理は、大宇宙の存在が神であるという事実を知らないのです。

説けないのではなく、知らないのです。

悟っていないから知らないのです。

だから現代では、多くの宗教家が詐欺罪を犯していると諸神霊も述べていました。

「神の心」と「神の体(物質)」で構成されている大宇宙が神ですので、過去・現在・未来の全人類を永遠に支配しています。

支配しているというより、指導していると言ったほうが正確ですが、手取り足取り、未熟な人類を日々指導しています。

誠にご苦労なことです。

人間の多数決で宗教の正邪が分かれ、善悪が決まっているのではないのです。

過去・現在・未来に出現してくる全宗教・全哲学・全思想・全文明の正邪を永遠に分けているのは大宇宙、すなわち神なのです。

宇宙は神の心の表現体であり、神の体である : 高橋信次

すなわちマクロ的に言えば、神の心から発した思想が「正」であり、神の体から発した思想が「邪」、ないしは物質に比喩した方便の善なのです。

統一的な神の心は、統一的な神我に対応し、相対的な神の体(物質)は、相対的な自我に対応しています。

従ってミクロ的に言えば、統一的な神我から発した思想が「正」であり、相対的な自我から発した思想が「邪」、ないしは自我に比喩した方便の善です。

方便の善は、善の有効範囲としては「有限」ですので、これだけでは「救世の法」にはなりません。

これは宗教の正邪を分けている永遠の公理の一つであり、未来に出てくる宗教や哲学、思想や文明も全て同じであり、神の心から発した文明が「正」であり、神の体から発した文明が「邪」なのです。

今の文明は、資本主義や民主主義、あるいは社会主義を通して神の体(利益と快楽)を「天」に置き、神の体から発した文明になっておりますので「邪の文明」であり、「悪の文明」となって、世界の悪化を招いています。

正邪や善悪の基準は永遠不変であり、変わらないのです。

教祖がその統一的な神我、ないしは良心から発した思想を説いているならば、それは「正」であり、もしその教祖が相対的な自我から発した思想を説いているならば、それは「邪」なのです。

正邪を善悪に変えても同じです。

幸福の科学も教祖が、常に相対的な自我から発した思想ばかり説いていたからカルトと言われるようになったのです。

それはそれで評価としては合っているのです。

この大宇宙に生きている限り、統一的な神我、ないしは良心から発した思想が「正」であり、相対的な自我から発した思想は「邪」だからです。

統一的な神の心から発した思想が「正」であり、相対的な神の体(矛盾)から発した思想は「邪」なのです。

これが過去・現在・未来に出てくる全宗教・全思想・全哲学・全文明の正邪を分けている公理の一つであり、大宇宙が永遠に正邪と善悪を分けているのです。

大宇宙の存在を神と言いますので、神が人類の正邪と善悪を永遠に分けているということです。

イギリス経験論とドイツ観念論の項でも述べましたけれども、イギリス経験論は経験に依存したがゆえに相対的な自我から発した哲学となり、価値の低い哲学になったのです。

そして真理の懐疑論に陥っていったのです。

ドイツ観念論は、「ア・プリオリ(先験的客観)の概念」を肯定したがゆえに、神我から発した哲学となり、経験に左右されることなく、真理の哲学になったのです。

ドイツ観念論哲学の如く、統一的な神我から発した哲学が「正」であり、イギリス経験論の如く、相対的な自我から発した哲学は「邪」なのです。

「邪の哲学」、ないしは好意的に見ても方便の哲学になったがゆえに、最後は真理の懐疑論に陥り、適法性の哲学に落ちたのです。

過去・現在・未来に出現してくる全宗教・全哲学・全思想・全文明の正邪を決めているのは、人間ではなく、大宇宙、すなわち神なのです。

大宇宙は人間の創ったものではありませんが、この人間の創ったものではない大宇宙が、我々未熟な人類の正邪と善悪を永遠に決め、幸不幸を永遠に決め、生死を永遠に決めているのです。

これが全人類を、神が永遠に支配しているという意味なのです。

今回の救世運動の中核は、この大宇宙の絶対的権威の確立です。

神の体を「天」に置き、神の体から発した文明の「コペルニクス的転回」であり、神の体ではなく、大宇宙と同様、神の心を「天」に置いた「宇宙即我の文明」の創造なのです。

人類はみなこの「宇宙即我」の悟りに向かっているからです。

過去・現在・未来に出現してくる全宗教・全哲学・全思想・全文明の正邪を分ける公理も真理の柱の一つです。

関連記事

  1. 立て替え

  2. 宗教ビジネスの危険性

  3. 幸福の科学の教え 1

  4. 真理の柱 9

  5. 次世代の真文明 7

  6. 幸福の科学の教え 3

  7. 一新される文明と人類の意識

  8. 次世代の真文明 9

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

カレンダー
2025年11月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
アーカイブ
最近の記事 おすすめ記事
  1. 2025.11.18

    真理の柱 10
  1. 2025.11.18

    真理の柱 10