実在の根本的方式とは、一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである : 西田幾多郎
平等即差別が「本当に在るもの」、すなわち実在ですが、平等即差別の神の心の下においてのみ人類は永遠に平等であるということです。
この平等即差別の実在がよく表現されている世界があの世、いわゆる潜在意識に存在する多次元世界です。
5次元幽界から10次元宇宙界まで「多」としてあらわれておりますけれども、同時に「一」の統一で括られています。
5次元幽界人の心の本質にも神の心はあり、10次元宇宙界人の心の本質にも全く同じ神の心が存在します。
その意味で多次元世界とは、正確に言えば「一即多次元世界」です。
「一」の側面から言えば、5次元幽界即6次元霊界即7次元神界即8次元菩薩界即9次元如来界即10次元宇宙界です。
ちなみに当サイトでは科学者からの指導によってこの世を4次元時空連続体としておりますので、霊的な次元は5次元以降に設定しています。
この世は4次元世界であり、科学者の中でこの世を3次元と認識している人はいないのです。
アインシュタイン博士以降、時間と空間は切り離すことができないため、この点については次元の呼称は、GLAや幸福の科学とは少し違いますが、内容は同じです。
多次元世界は、その「多」が「一」によって統一されている世界です。
人間の心には、微塵も差異のない全く同一同質同量同規模の神の心が宿っておりますので、この側面から見れば、全霊人は霊格の高低に関係なく永遠に平等です。
ところがその同じ神の心を各人が悟っていくわけですが、やはり同じ個性や努力はなく、それぞれの努力はみな異なっておりますので、悟りにも各人の差が出てくるわけです。
その悟りの差も公平に評価されておりますので、5次元幽界の悟りから10次元宇宙界の悟りまで「多」としてあらわれています。
あらゆるものには段階と度合がある : エマソン
一言「善」と言いましても、やはりそこには悟りの段階があるのです。
ある者は20の努力をし、ある者は50の努力をし、ある者は100の努力をするのです。
全く同じ神の心が宿っておりますので、その意味では平等ですが、その同一の神の心を悟る人類各人の努力は均一なものではなく、やはり差があるのです。
それを神の心から公平に評価すれば、結果として多次元世界になるのです。
人それぞれ千差万別であり、その努力も公平に評価されて「多」としてあらわれています。
この「多」を見れば、そこに「差別」があるように見えるわけですが、それは神の公平な評価でそうなっているわけであり、実際はどこまでいっても平等即差別であり、一即多、多即一の世界です。
多次元世界を霊的なカースト制度のように捉えている人がおりますけれども、それは明らかに間違いであり、多次元世界とは神の教育機関です。
教育機関ですので、6次元霊界の人はいずれ7次元神界に上がっていくのであり、7次元神界の人もいずれ8次元菩薩界に上がっていくのです。
もちろん勉強をさぼっていたため、霊格が下がる人もいるのです。
今回その高い霊格を失った人も多いはずです。
インドのカースト制度と決定的に異なっているのは、カースト制度では、バラモンは生涯バラモンであり、バイシャは生涯バイシャなのです。
カースト制度では、一生涯階級が変わらないわけですが、多次元世界はその階級が悟りと努力次第で変わるのです。
霊格は悟りと努力次第で変わるということです。
小学生は、いつか中学生になり、中学生はいつか高校生になるのです。
7次元神界の人は、いつか必ず8次元菩薩界に上がり、8次元菩薩界の人も、いつか必ず9次元如来界に上がっていくわけです。
小中高大の教育制度をカースト制度と呼ぶ人はいないはずです。
それはあくまで教育制度であり、神の慈悲の世界です。
小学生は、いきなり高校生にはなれず、中学生も、いきなり大学生にはなれないのです。
各次元と段階の悟りを十分極め、クリアしていかなければ、自己の悟りは上がらず、成長もできず、進化を遂げていくこともできないのです。
世の中には悟りの低い人もいれば、高い人もいるのです。
色々と悟りに相違があり、低い悟りの人から高い悟りの人まで全ての人間の心を教育している教育機関が多次元世界です。
もし神が如来界しか創造していなければ、神とは無慈悲な方です。
大抵の人は、如来の悟りなど得られませんので、もし神が如来界しか創造していなければ、ほとんどの人は地獄に堕ちてしまいます。
もし神が菩薩界しか創造していなければ、神とは無慈悲な方です。
如来の悟りを得ても、そこに如来界はなく、大抵の人は菩薩の悟りを持つことはできませんので、ほとんどの人が地獄に堕ちてしまうのです。
ところが実際の多次元世界はそうなっていないわけです。
たとえ7次元神界の悟りを得られずとも、たとえ8次元菩薩界の悟りを得られずとも、神が「良し」とした心をみずから創った者は、5次元精霊界であろうが、6次元霊界であろうが、神の心によって幸福にして頂いています。
神は、たとえ菩薩や如来の悟りを得ていない人でも幸福にしているのです。
これを神の慈悲と言わずに何と言うのでしょう。
慈悲とは、上から下に流れる神の縦の愛情です。
あの世の天台智顗大師は、地獄界とは神の慈悲の世界として捉えて欲しいと言っておりましたが、天国も神の慈悲の世界です。
天国も神の慈悲の世界であり、地獄界も神の慈悲の世界なのです。
神の慈悲とは、天国と地獄を超えているということです。
地獄界とは心を病んだ人が、一時的にいる病院であり、そこは病院ですから、いずれその病は治り、天国へと帰天していく人達なのです。
心を病んでも、もしそこに病院がなかったらどうしますか、地獄界とは、あくまで病院であり、神の慈悲の世界として捉えて欲しいと言っていました。
神が地獄界を強制的に消滅させてしまえばいいという考えは、病院をなくせば、病人がいなくなるという発想と同じであり、たとえ病院をなくしても、心を病む人は今後も出てくるのです。
地獄界とは、神の慈悲の世界として捉えて欲しいと言っておりましたが、あの世の高橋信次氏は、地獄界とは人間が元の善なる魂に戻るための厳しい特訓場であると言っていました。
心をそこまで歪めてしまった人は、中々きれいごとの美辞麗句だけで心を変えることはできず、それだけ厳しい特訓をしています。
人間の心というのは、そう簡単には変わらないのです。
天国とは善の認識が客観化されている世界であり、地獄界とは悪の認識が客観化されている世界です。
主客合一の法則は、あの世とこの世を貫いています。
神の善悪とは死後もなくならないことを実証している世界なのです。
一言「善」と言いましても、それは「無限」ですから、実際人格神における霊的進化の最高峰である10次元宇宙界で完結しているような世界ではなく、11次元以降上方に向かって無限に次元世界が広がり、客観化されています。
それは善の無限性から十分予測できることなのです。
善の無限性が世界として客観化している世界が多次元世界です。
神への信仰とは、如来界のお歴々の心を永遠に統一している存在を信じることです。
地球では500名弱の如来と言われる神霊がおられるようですが、この500名弱の神霊を統一している心を神の心と言います。
アラーの心の本質にも神の心はあり、イエスの心の本質にも全く同じ神の心があるのです。
アラーとイエスの絶対矛盾は神の心によって永遠に統一されています。
モーゼとゼウス神の個性は異なりますが、モーゼの心の本質にも神の心はあり、ゼウス神の心の本質にも全く同じ神の心があり、モーゼとゼウス神の絶対矛盾は神の心によって永遠に統一されています。
この永遠の統一者の心を信ずることを神への信仰と言います。
500名弱の如来はこの神の心が統一しているのです。
単に天上界の諸神霊の心だけではなく、天国と地獄の絶対矛盾もこの神の心が永遠に統一しています。
悪さをやめませんけれども、大魔王の心の本質にも神の心はあり、大如来の心の本質にも全く同じ神の心があるのです。
大魔王と大如来の絶対矛盾も神の心が永遠に統一しています。
神の心を見性した時、天国即地獄であり、大魔王即大如来なのです。
この世の人類80億人の心もこの神の心が永遠に統一しておりますので、神の存在を否定すれば、人類から平等が失われます。
大魔王と大如来は神の心において永遠に平等であり、既存の民主主義における「自由と平等」の概念におけるところの「平等」とは、神の存在が入っておりませんので、偽りの平等です。
民主主義における「自由と平等」の概念は矛盾しており、これを神の存在によって正確な概念に戻しておかなければなりません。
神の存在を否定すれば平等はどこにも存在しないのに、平等を教えているのです。
『神約民主論』とは、民主主義の進化体制です。
民主主義とは「人民共通の利益に基づいた国家契約」であり、神が永遠に「地」と定めている相対的な利益を「天」に置いた間違った政治体制です。
好意的に見ても利益に比喩した方便の政治体制であり、本来無限化してはならないのです。
『神約民主論』とは、「人民共通の利益に基づいた国家契約」から「人民共通の人生の意義に基づいた国家契約」です。
人民共通の利益など、実は存在しませんが、人民共通の人生の意義ならば存在します。
これが神の心ですが、『神約民主論』とは、神の心を「天」に置き、神の体を「地」に置いた宇宙即我の政治体制です。
人類は神の心の下において永遠に「平等」であり、この「平等」の神の心に従って人類各人が「自由」を行使した時、真理は汝を自由にせんとなり、全人類は真の自由を得ていきます。
現状、矛盾している「自由と平等」の二大概念は神の存在によって統一止揚され、正確な概念に戻るのです。
今後の人類も全てこの「自由と平等」を求めていくわけですから、既存の民主主義のように矛盾した概念のままであってはならないのです。
『神約民主論』国家の実現を通して眼前の大宇宙の絶対的権威を確立すれば、今回の救世運動は一応終わりです。
この神の存在が人類と世界を救うのです。
これ以外に世界と人類を救う道は存在しません。
これ以外に世界と人類を救うものがあるというならば、それを提示すればいいのです。
人類のうち誰も提示できないのです。
それは「ない」からです。
今回の「救世の法」の目的とは、この大魔王即大如来としての神の絶対的権威の確立なのです。
大魔王即大如来としての神が自己を客体化した存在が眼前の大宇宙です。
だから大宇宙や自然界を信ずることを神への信仰と言ってもいいし、自己の心の中心を信ずることを神への信仰と言ってもいい。
主観の神の心と客観の大宇宙は合一しており、どこまでいってもこの世界は主客合一の世界です。
神の心を説くとは、善悪の基準を説くということです。
何を基準にこれが善であり、これが悪であると決まっているのか、その善悪の基準を説くことを神の心を説くというのです。
過去・現在・未来の全人類に普遍妥当している善悪の基準を説くということです。
この善悪の基準とは、永遠に神の心になっており、不変であり、変わらないのです。
旧約聖書では、この善悪の基準とはエデンの楽園なのです。
エデンの楽園と合一すれば善であり、離れれば悪なのです。
アダムとイブは神の言うことを聞かず、神の心と離れたためにエデンの楽園から離れ、悪となり、不幸に堕ちていったのです。
神人合一が善であり、神人分離が悪なのです。
かく最深の宗教は神人同体の上に成立する。
人生の意義とは、これを獲得するにある : 西田幾多郎
旧約聖書が書かれたのは3000年以上前の話ですが、今もってこの善悪の基準は不変であり、変わっていないのです。
これは如来界共通の悟りであり、宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪なのです。
天地一体が善であり、天地の分離が悪なのです。
高橋信次氏時代のGLAも同じであり、生前の高橋信次氏も自然即我を善とし、自然と我との分離を悪と認識していたのです。
善悪の基準は自然界であり、大宇宙だったのです。
自然界は法のあらわれである。
人はこの法をもって思いと行いを正せよ : 高橋信次
何故、思いと行いを正さなければならないのか。
正さなければ自然界と我とが離れ、悪になってしまうからです。
夜明け観音が憑いていたどこかの偉い社長さんにも「ただこの人はたまに心がカーッとなる短気なところがあるのですが、それを治せばいいです」と指導していました。
生前の高橋信次氏は、自然即我を善とし、自然と我との分離を悪としていたのです。
これが大川さんの言う8次元菩薩界の悟りのわけないのです。
この大宇宙や自然界に今回は多次元世界がその善悪の基準に加わったのです。
多次元世界と我とが合一すれば善であり、多次元世界と我とが分離すれば悪なのです。
5次元精霊界から10次元宇宙界までならどこの次元世界でもいいのです。
この多次元世界と我とが合一すれば善であり、合一できなければ悪なのです。
地獄に堕ちてしまうわけです。
いたたたたたっ!、あちちちちっ!、いたっ!、あちっ!、あちっ!、いたっ!、こわっ!、さぶっ!、さぶこわっ!、いたっ!、いたたたたたっ!、あちちちちっ!、くらっ!、こわっ!、くらこわっ!、いっつもあちいし、いっつもいてえし、いっつもくれえし、いっつもさみいし、なんて、あんた、こんなこと200年も300年もやるんですよ。
大宇宙や自然界、並びに多次元世界の存在を見れば分かりますが、人間の創ったものが善悪の基準ではないのです。
神の造ったものが人類にとって永遠の善悪の基準になっているのです。
人間が創ったものではない大宇宙や自然界、並びに多次元世界が過去・現在・未来の全人類に普遍妥当している善悪の基準なのです。
これは旧約の時代から変わっていないのです。
もし自己の属している宗教団体が本物の真理を説いている教団か、そうでない教団かを知りたければ、そこの教団の教祖にこの人類に普遍妥当している善悪の基準を問えば分かるのです。
神の心を説くとは、善悪の基準を説くことだからです。
もしそこの教祖が、この善悪の基準を明確に答えることができなければ、あなたは騙されているのです。
神の心でも何でもない教えを信じ込まされているのです。
もしそこの教祖が、この善悪の基準を明確に答えることができれば、あなたは騙されていないのです。
諸神霊によれば、日本の宗教団体の96%が魔のコントロール下にあるそうですから、善悪の基準を答えられるわけないのです。
善悪の基準を知らないから憑依されているわけです。
過去・現在・未来の全人類に普遍妥当している善悪の基準も真理の土台と言えば、土台です。
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