宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である。: 西田幾多郎
クリスチャンによく見かけますが、宇宙と神との関係を芸術作品と芸術家の如き関係と見ている人がおりますが、誤りです。
神とは考え得る限りの偉大なデザイナーでもありません。
神と宇宙との関係とは、芸術家とその芸術作品との関係ではなく、本体と現象の関係です。
宇宙は神の心の表現ということは宇宙が神なのです。
西田哲学で説かれておりますように、宇宙とは神の所作物ではなく、神の表現です。
宇宙や自然界には、完全なる神の心が表現されておりますので、宇宙や自然界の存在そのものを神と言います。
これをエマソンは象徴主義において自然は完全であると言い、ヘーゲルは理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的であると残しているのです。
ヘーゲルにとって「理性」や「自由」とは、神の心そのものですから神の心(理性)は、宇宙や自然界に現実化しているのであり、宇宙や自然界の現実には神の心(理性)があらわれていると言ったのです。
当時、世界はそれほど理性的なものではないよと批判していた人もおりますが、ヘーゲルの悟りを理解していなかったわけです。
ヘーゲルは時間論(歴史)からの「宇宙即我」と空間論からの「宇宙即我」の双方の思想をしっかりと残しています。
通常、神の思想を悟られた方は、空間論からの「宇宙即我」の思想を残すものですが、ヘーゲルが白眉なのは時間論、いわゆる歴史論からも「宇宙即我」の悟りを残している点です。
『歴史哲学』でそれが詳論されておりますが、「理性の狡知」を見ましても、ヘーゲルは当時から歴史とは神の世界計画である点を明確に悟っていたのです。
日本人がまだチョンマゲをしていた時代にそこまで悟っていたのです。
大哲学者たるゆえんでしょうが、これは未来にも明確に残しておかなければならない真理であり、ここまで神の心を悟っていた人は現代でも見られません。
当サイトではヘーゲルの言う「理性の狡知」を「必然の価値」として説いておりますが、意味は同じです。
歴史とは必ず実現しなければならない価値に向かっているということです。
すなわち神の心です。
歴史の全体も神の心に向かっておりますが、宇宙や自然界の空間にも神の完全なる思想が表現されています。
宇宙や自然界とは神そのものですので神の思想が完全なる内容で表現されているのです。
過去、神の思想を悟られていた方は、みなこの点を悟っておられたのです。
宗教ではよく法華経や聖書、あるいは仏典を振りかざして、あたかもその聖典の中に神の完全なる思想が表現されているかのように思っている人がおりますけれども、そのようなことはあり得ないことなのです。
この点をエマソンは、完全なる神の心は人の手によって書かれた聖典の中に表現されているのではなく、神の手によって書かれた自然界に表現されていると言ったのです。
そして人間を通して出て来る善は全て神の近似値に過ぎないと残しているわけですが、エマソンもヘーゲルと同様、神の思想を明確に悟っておられた人であることが分かります。
エマソンが自然を完全だと言ったのは、自然界には完全なる神の心が表現されているからです。
宇宙や自然界そのものが神である真理を悟っていたのです。
宇宙が神そのものですから過去・現在・未来の全人類一人残らずをその神の心と神の体で永遠に支配しています。
指導していると言った方が正確ですが、波長同通の法則を通して、主客合一の法則を通して、因果の理法を通して、神の光の作用を通して、全人類をその絶対者の心に日々導き、指導しています。
諸神霊も同じですが、神に倣っているのでしょう。
みな神の絶対善に導いています。
宇宙が神ですから永遠の支配者であり、人間は神の子ですから被支配者です。
大宇宙と人間の関係とは、神と子の親子関係であり、絶対者が相対者を導いている関係です。
神の絶対善に相対者である人間を導いているのです。
この神と人間、宇宙と人間との正常な関係を知らなければ人類は幸福になることもできなければ、救済されることもありません。
我々の生きている世界の構造と仕組みを知らなければ救世はないのです。
宇宙は西田哲学で説かれている通り、主客合一の世界であり、主観(心)が良くならなければ、客観(世界)も良くなることはないのです。
今の人類の問題点とは、主観(心)が悪いのに、客観の世界だけを良くしようとしている点であり、我々が生きている現実の世界の構造と仕組みを知らないと言わざるを得ない。
神の造られた世界は、あの世もこの世も主客合一の世界であり、人間ではこの世界の構造と仕組みを変えることはできないのです。
見られる全世界(客観)は、見る者全人類の心の世界(主観)であり、主観と客観は永遠に合一しています。
あの世も同じであり、見られる菩薩界というその世界(客観)は、そこに住む菩薩の心の世界(主観)であり、主観と客観は永遠に合一しています。
菩薩界が美しいのは、菩薩の心が美しいからです。
見られる地獄界というその世界(客観)は、そこに住む地獄霊の心の世界(主観)であり、主観と客観は永遠に合一しています。
地獄界が醜いのは、地獄霊の心が醜いからです。
今の世界が醜いのも、人類の心が醜いからです。
いつでも心が世界を創ります。
過去の世界も主客合一の世界であったし、現代でも主客合一の世界です。
そして未来も永遠に主客合一の世界なのです。
西田哲学で説かれる主客合一の世界とは、過去・現在・未来を超え、この世とあの世を超えている絶体の世界なのです、
我々未熟な人類は、神の造られた正しき絶対の世界に生きているということです。
この動かぬ不変の事実を知らない人が多いのです。
神の創られた主客合一の世界は、人間ではどうすることもできません。
神の造られた世界の構造と仕組みを変更したり、変えたりすることのできる人間は存在しないのです。
主観が善であれば、必ず客観の世界も善になりますし、主観が悪であれば、必ず客観の世界も悪になります。
どうしようもないわけです。
主観が善なのに客観の世界が悪になることもありませんし、主観が悪なのに客観の世界が善になることもありません。
主客合一の世界は、人間が創ったのではなく、神が創ったのです。
神がそう造った限り、人間ではどうしようもありません。
心が悪ならば世界も悪になりますし、心が善ならば世界も善になります。
今の人類の誤りは心が悪いのに世界を良くしようとしている点です。
心を正さなければ、世界が正されることはありません。
客観の世界に神の正しさが失われているということは、人間の主観に神の正しさが失われていることを意味します。
主観において神の正しさを失っているがゆえに客観の世界でも神の正しさが失われるのです。
主客合一の法則とは、絶対の法則であり、善悪を全て超えています。
人間の中でこの主客合一の世界を変えることのできる者は存在しません。
主観が善ならば、客観の世界も善になり、主観が悪ならば、客観の世界も悪になります。
この主客合一の法則は絶対の法則であり、人間ではどうしようもありませんので、客観の世界を善にするには、主観、この心を善にするしかありません。
神の法則に従うしかないのです。
真善美は、常に神の心から来ますので客観の世界を善にするには、主観を善にするしかなく、主観が善になるには、神への信仰を通して神の心と合一するしかありません。
人間の心は、神の心と合一しなければ、善にはなれません。
主観が善になれなければ、客観の世界も善になることはありません。
神への信仰なくして世界が良くなることはないのです。
何故なら神の心が人間を通して地上天国を創るからです。
人間の心が善になるには、神の心と合一するしかなく、合一できなければ、その主観は悪となりますので、主客合一の法則上、客観の世界もそのまま悪の世界となり、腐敗していきます。
神の目から見た悪とは、神の心と人間の心が離れることを言うからです。
神人合一が善であり、神人分離が悪です。
これが過去・現在・未来を通して変わらない人類に普遍妥当している善悪の基準なのです。
何万年後も神人合一が善であり、神人分離が悪です。
何十万年後も宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪です。
何百万年後も天地一体が善であり、天地の分離が悪です。
すなわち永遠不変の善悪の基準とは、神の心であり、宇宙なのです。
神への信仰が自由であると思っているような人は、何も理解していない人なのです。
何も知らない人だということです。
何も知らない人が世界を良化することはできませんので、このまま悪化していき衰退していくだけです。
宇宙の存在を神と言いますので、宇宙と離れ、神と離れますと、その人間は「悪の存在」になるのです。
神が永遠に「地」と定めている相対的な自我を「天」に置き、生き神信仰に耽っていたため、宇宙と離れてしまい、高級霊の霊言を二度と出せなくなってしまった教祖がいたはずです。
救世主でも宇宙と離れれば「悪の存在」になるのです。
宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪だからです。
神我が「天」であり、自我が「地」で、永遠に天地一体です。
「地」である相対的な自我を「天」に置く者は、この宇宙では波長同通の法則の作用によって、同じく相対的な神の体(物質)と心が同通するのです。
神の体と心が同通すれば、神の体(利益と快楽)を「天」に置き、利益と快楽をむさぼるようになり、周りが不幸だらけになるのです。
同時に神の体を「天」に置いてしまったために、眼前のそれを「地」に置いておられる大宇宙と離れてしまうのです。
この宇宙では神の心が「天」であり、神の体は「地」で、永遠に天地一体です。
神の体を「天」に置く者は、宇宙と離れた「悪の存在」なのです。
宇宙は神の心の表現体であり、神の心と神の体で構成されています。
神は自分に似せて子を創られたのです。
人間も神と同様、心と体で構成されているはずです。
そして人間の心は、神の心によって生かされ、人間の体は、神の体(自然界)によって生かされています。
大宇宙と人間は永遠に一体で生きているのです。
大宇宙の存在を神と言いますので、人間は神と永遠に一体で生きています。
死後、人間の体は神の体(自然界)に還り、人間の心は神の心(多次元世界)に還っていくのです。
神と人間はこの世でも、あの世でも永遠に一体で生きています。
神と人間を切ることはできません。
それは自己の心から良心を切り取り、捨て去ることができないのと同じです。
宇宙と人類は永遠に一体で生きておりますので、人間がその相対的な自我を強化すれば、同じく相対的な神の体(物質)の方面と同通し、物質の属性をもった思想や行動しか取れなくなり、世界腐敗の温床となり、「悪の存在」になるのです。
人間がその統一的な神我、あるいは良心を強化すれば、同じく統一的な神の心の方面と同通し、神の心の属性をもった思想や行動を取るため、世界を良化していく「善の存在」になるのです。
相対的な自我を強化しても、「神の体と同ずぅしたくなあーい」と、鼻水垂らして、いくら駄々をこねても、この宇宙に生きている限り、そのようなことは通用せず、否応なく神の体と「同ずぅ」するのです。
統一的な良心を強化しても、「神の心と同ずぅしたくなあーい」と、よだれを吹き吹き、涙目で、いくらわがままを言っても、この宇宙に生きている限り、そのようなわがままは通用せず、否応なく神の心と「同ずぅ」し、善霊とも「同ずぅ」するのです。
大宇宙の存在を神と言いますので、過去・現在・未来の全人類は一人残らず、この大宇宙と永遠に一体で生きているのです。
人間は誰であろうが、その相対的な自我を強めれば、同じく相対的な物質(神の体)の方面と同通し、統一的な神我を強めれば、同じく統一的な神の心の方面と同通するのです。
神の支配は、人間ではどうにもならないのです。
「同ずぅしたくなあーい」と、いくら泣き叫んでも無駄であり、必ず同通します。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体ですので、人類が神の体に支配されてしまえば、世界は悪化を続け、人類が神の心に支配されれば、世界は良化していくのです。
人間の心は、神の心か神の体のいずれかと必ず同通するのです。
神が人類を膝の上に乗せて永遠に指導しておりますので、逆らっても無駄。
相対的な自我を強化すれば、同じく相対的な物質と同通し、統一的な神我を強化すれば、同じく統一的な神の心や善霊と同通します。
この神の人類支配は、人間ではどうにもなりません。
ただこの神と人間の不変の関係を知らなければ、人類の幸福や救世は実現できないのです。
「同ずぅしたくなあーい」と、いくら喚いても、鼻水垂らしても無駄。
必ず神の心か神の体と同通します。
どうしようもないのです。
本当に世界を良くしたければ、宇宙と同様、神の心を「天」に置き、自己の良心を強化し、神の心や善霊と同通していくしかありません。
宇宙のことを神と言いますので、未熟な人類にとって神さまというのは「良きお手本」であり、「永遠の模範」なのです。
眼前の大宇宙では神の心が永遠に「天」に置かれておりますが、未熟な人類にはこれができないのです。
神の心を「天」に置くということができないのです。
宇宙のように生きられず、神のように生きられないのです。
それで地獄に堕ちているのも人間の方ですけどね。
宇宙は我々にとって「良きお手本」であり、「永遠の模範」ですので、さすがに神の心は永遠に「天」に置かれています。
神の心を「天」に置くとは、これを神への信仰と言うのであり、これができなければ、人間の心は自動的に神の体に支配されてしまいますので救世にはならず、世界も悪化していくしかありません。
逆から言えば、神の心を「天」に置いた神への信仰が、神の心を永遠に「天」に置いておられる眼前の大宇宙(幸福)と人類との融合をもたらし、宇宙即我の人類となり、幸福と合一しますので、全人類の幸福が実現していくということです。
神への信仰が世界を救うということです。
今の文明は、神の体(利益と快楽)を「天」に置いておりますので、宇宙と我とが離れているのです。
これを本来の神の世界に戻すということです。
次世代の文明は、「宇宙即我の文明」です。
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