道徳的証明とは、カントの証明法ですが、当サイトでも何度か扱っておりますので、なるべく重複しないよう簡潔に述べておきます。
死イコール無の等式を大前提とした人生観や世界観は根源から間違っており、この等式上からは正義や愛、秩序や叡智、あるいは真善美の一切の価値がこの世では成立しなくなるとする神の存在証明法の一つです。
カントは、一方で神の存在と霊の不死(あの世)を否定しながら、他方で叡智や正義、愛や秩序、並びに何がしかの価値を論じている者の人生観と価値観は、根本から矛盾していると知で論証したのです。
神とは価値ですから、神の存在と霊の不死を前提としない正義や善は、正義でも善でもなく、あるいは価値ですらなく、それは死と共になくなる善であり、なくなる正義です。
なくならないものが善。
なくなるものが悪。
カントは、なくなる正義では、この世で「まさに善を為すべし」という道徳的命令が成り立たないと言ったのです。
神の存在と霊の不死は、この道徳観から必然的に要請されると説いた哲学が、カントの実践理性批判であり、道徳的証明と言われる神の存在証明法です。
この世の人間が、あくまで正義を認め、善を認め、愛を認めるならば、というか認めざるを得ないわけであるが、この正義や愛、秩序や叡智、真善美の価値の存在によって神の存在と霊の不死は必然的に要請される。
神の存在とあの世の存在を前提としない正義や善は、利益と快楽という悪を善とすり替えている偽物の真理であり、偽物の正義であるということです。
神道が典型であろう。
神の心が「天」であり、神の光が「地」で、永遠に天地一体です。
この「地」である神の光を「天」に置き、光一元思想なる快楽思想をまき散らしていたはずです。
覚醒剤をまき散らしている暴力団と同じであり、だからこの霊系統は善人の仮面を被って犯罪ばかり犯すのです。
今回も東京五輪に関し、影でコソコソとブラック・タイディングス社の秘密口座に国家単位で賄賂の金銭を振り込んでいたであろう。
スポーツマンシップに則った贈賄オリンピックです。
利益と快楽のために犯罪を犯すわけです。
また日本会議を使って歴史の捏造までやるのも快楽を得んとして捏造し、嘘をついている。
南京大虐殺はなかった、従軍慰安婦はなかった、なかった、なかった、なかった、なかったのは五輪の観客。
神の光の快楽を善とすり替えており、神の光が悪であり、快楽が悪であるという事実を悟っていない思想です。
それで天界にいるならば、快楽に比喩した善、物質に比喩した善、すなわち方便でいる。
幸福と快楽は似て非なるものである : 西田幾多郎
常に快楽という悪に巣食っているからアニメ、マンガ、テレビゲームだらけになるのです。
人類の霊性を堕落させるものばかりをドヤ顔で輸出しているのは、快楽や利益という人の弱みに、常にこの霊系統はつけ込んでいるからです。
暴力団は覚醒剤を打ちますが、この系統は神の光の快楽を打ち、ラリっているのです。
だから快楽と利益にのみ反応するのです。
日蓮もあの世で言っておりましたが実際、現実どうかは別として善一元、光一元、悪なく、罪なく、病なしと、そう思うことによって一体どういった効果があらわれてくるのか。
光一元思想とは、この効果を重視した思想である、と。
その効果とは何でしょう。
単なる御利益です。
実質的には利益に比喩した善であり、どう見ても方便の善です。
御利益信仰とは他力信仰の最たるものですから、道元もあの世で指摘していましたが、光一元思想は、他力をもっと極端にしたような他力である、と。
生命と物質、神我と自我、実相と現象、真理と現象利益、統一と矛盾等々、全て自我で切っており、自我に比喩した善から抜けられていません。
真我独在、実相独在、本来現象我なしと言い、物質なし、自我なし、現象利益なしと極端に偏っているわけですが、その思想の実体は御利益を重視しているという矛盾で出ており、これは自我を絶対化している点から出ている矛盾です。
人格性の異常から出ている矛盾です。
こちらは生長の家を指導してあげたのに、また何もしていないのに、無抵抗の人間に対して、まるで親の仇のように恩人に向かって一方的に戦争を売ってくるような異常ぶりであり、こういう霊が治めている国が盟主になるのは危険です。
万教は実相に帰一するという万教帰一の教えも、口先の嘘であったと当サイトで証明されています。
万教帰一は、碧巌録第45則の「万法帰一」をもじったものだと思いますが、全ての法と存在は大魔王即大如来の神に帰一するのであり、生長の家がいう光の実相に帰一するわけではない。
今回は万法は神に帰一するというこの神の存在の客観化とその権威の確立です。
単に思想的に帰一すると説くだけではその真理は未完であり、その帰一する神の絶体的権威を外界の世界に具体的に確立しなければ、内界と外界が分離し、ここでも真理の完成がなくなり、その真理は未完となります。
その帰一する神の権威確立を長々と妨害してきたのがうしとらと谷口、並びにマリン・ブルーを騙り、それをかすめ取ろうと画策した天之御中主です。
ほんと陰湿でずるく、計画的で腹黒いことばかりを常に考えていますが、よくそれで天界にいられるなと思う。
先に異常な妨害をし、戦争を売り、「こいつに光一元思想を称賛させてやる」とあの世で吹聴し、異常な犯罪行為に長々と耽ってきたのは天之御中主の方ですから泣き言を言わないように。
神の権威で逆らうとは、どんな真理を主張し、どのような正義を語ってもこの系統は逆らうということです。
つまりあの世にいながら神への信仰すらないのです。
この霊系統に神の正義や真理を主張しても無駄です。
悪魔と同じであり、力で抑制するしかない。
だから生長の家の万教帰一の教えは、自我から出ている嘘だと言っているのです。
その帰一する神の心を守ったことは一度もなく、その神の権威を自己の利益のために利用しようとしたのです。
民主主義で矛盾している二大概念である「自由と平等」を統一止揚するのは神の存在ですが、その「自由と平等」を統一止揚している神の象徴が日本の天皇なのだ、とすり替え、利用しようとしたのです。
それで民主主義諸国の頂点に立って世界の盟主になろうとしたのです。
犯罪は常に利益から生まれます。
口で善ばかりいうのも、自己の利益のためでしょう。
実際を知っていれば滑稽な教えです。
一方で世間体がいいのでしょうか、万教帰一を説きながら、他方でその自我で、帰一しているという神の権威を妨害し、戦争を売ってきたわけです。
利用できないからです。
7次元神界の悟りすらもっているかどうか怪しい天皇に尊い神の権威を利用される覚えはないのです。
天皇は8次元の菩薩の霊格すらもっていない。
だから大川さんの方がましでしょうと言っている。
ましでしょうという言い方もあれですが。
利主神従は地獄の創造原理です。
神の心は利用すべき心ではなく、目的とすべき心です。
神の心を自己の利益のために手段として利用しようとしたため対立し、戦争みたいになっている。
口で言うことと行うことが矛盾だらけであり、内界と外界をそれだけ分離できるというのは、情緒が不安定かもしれない。
口だけは善を言っているのですが、行いは自己都合のデタラメです。
本音と異なる言葉が滔々と口から出てくるのです。
長々と妨害しておりましたが、その間世界中で犠牲者を出してきたわけですから、神道はその責任を取らなければならない。
あの世の道元が言っていた通りであり、本来悪なしというからこの系統は反省しないのです。
いくらでもあの世で天皇に巣食って自我の犯罪を犯すのです。
反省というブレーキのないポンコツ車を売りまくっており、ブレーキのついていない車を買うバカはいないのです。
危ないですからね、そんな欠陥品。
我、善のみ語る。
我、日時計主義であり、日時計は太陽の光が出ている時にのみ時刻を記す。
良い時のみ魂に記すって、それは単なるおいしいとこ取りでしょう。
ここでも利益と快楽に偏っている。
幸福と快楽の一体性と区別ができていない思想です。
この光一元思想は、あの世でシェークスピアも指摘しておりましたが、この思想は、要は片目で世界を見ている思想だ、と。
それは片目でも見えないわけではない。
しかして片目で世界を見ると、遠近感を捉えることができず、奥行きもなく、深さも分からない。
片目では、神の造られた世界を正確に認識し、知ることができない。
神の奥深い御心を知ることができない。
異常に極端な思想は、必ず自我から出ており、その思いと行いは必ず理法上矛盾しています。
「地」である神の光を「天」に置いているから自我を絶対化して暴走させるのです。
天地一切のものと和解せよ、というならば早速、中国人と韓国人と和解して頂きましょう。
かつて皇軍は、公式記録では2000万人以上の民間人の虐殺を行っており、これは公式に確認された数だけですから、実際は確認されていない者も含めますと3500万人とも5000万人とも言われています。
戦争中の死者など全て正確に確認するのは不可能に近いですからね。
この侵略戦争を煽っていたため谷口雅春は、当時のGHQから公職追放をされています。
そしてもちろん反省などしておりませんから、今も日本会議を通して歴史の修正を画策している。
歴史の修正も犯罪です。
まだ被害者の方も中国や韓国にはおられるわけですから、天地一切のものと和解して下さい。
自分が中国やアジアと和解できないくせに、天地一切のものと和解せよと説いているからおかしいのです。
この生長の家系統は、あくまで影でですが、とても和解できない酷いことを平気でやるのです。
そして反省もせず、歴史修正主義の嘘をつき、過去の侵略戦争を一生懸命誤魔化そうとしているのです。
中国と韓国だけにしておけばいいものを、500柱の諸神霊が一致団結しておりましたから調子に乗って、今回はヨーロッパ系統も神道は敵に回しました。
このような霊系統と和解などは永遠にない。
天地一切のものと和解せよと偉そうにお説教垂れる前に、とても和解できないことを初めからやりなさんなと言っているのです。
ちなみに幸福の科学で一致していた500柱の諸神霊は、とっくの昔にバラバラに解体されており、それぞれのホームグラウンドにみな戻っています。
だから今は大川さんが呼べば、どの神霊でも出てくるという1980年代のあの世での一致体制は1990年代前半には既に崩壊しています。
誰も真っ当な神霊が出てこないのは、それが理由です。
あの世とのコンタクト自身が切れておりますので、難しいでしょうね。
コンタクトを維持できていれば、あそこの指導霊や仏教系ぐらいは霊言を送れるのかもしれませんが、それ以外の神霊はもう呼んでもでないでしょう。
霊言の目的と意図が分かってしまいましたからね。
また多くの犠牲者を出しており、既に若死にした人や自殺した人、財産や家族を破壊されて、何か異常に憎んでいる人も多く見受けられるようですから、イエスももう出られないでしょうね。
今更、どの面下げてその方々の前で真理を語るのかという事態になっているのです。
犠牲を出し過ぎたのです。
また出てくれば、恐らく一層憎悪を煽ります。
1回再臨したからいいでしょう。
2回も、3回も再臨すれば、格が下がってしまいます。
この世に何度も、何度も自由に出たり、入ったり、出たり、入ったり、とコンビニじゃないんですから、勝手にこの世に入ってきてもらっても困る人がいるのです。
少なくとも日本では、また再臨すれば、憎悪の炎に油を注ぐことになるのは火を見るより明らかです。
ほんと無責任な救世運動でした。
話がかなり逸れておりますが、道徳的命令が成立するためには、死して無となる人生観は取れない。
あの世ではなく、この世で善悪美醜真偽の道徳と価値が成立するためには、神の存在と霊の不死(霊天上界)が、必然的に要請されると説いた説が、カントの道徳的証明です。
死=無の等式では、この世で正義と善は成立しないと言ったのです。
その論じている正義や善悪は、神の存在と霊の不死があってこそ成り立つ議論であり、神の存在と霊の不死を否定するならば、その論じている正義も善も無となるわけですから、虚しい議論であり、誤った議論に過ぎない。
どう正義を主張しようが、神の存在を否定し、霊の不死を否定しているわけですから、その主張している者の正義は、存在する価値ではなく、すべて脳の喪失と共に無となり、なくなる正義なのです。
その者はなくなる意味のない正義を主張している。
いつかなくなるのはその者の脳細胞であって、正義の方ではない。
神への信仰とは、押し付けるものではなく、認めざるを得ないものなのです。
神を信ぜよではないのです。
信じざるを得ないのです。
神の存在を否定すれば、全ての価値がこの世で消滅するからです。
全ての価値と万法は神に帰一しているがゆえに、神の存在を否定すれば、その全ての価値と万法が矛盾の中で消滅するのです。
天地は滅びるであろう、しかしてわが言葉は滅びることなし : マタイ24-35
肉体は滅びるであろう、しかして正義は滅びることはない。
真実は絶対、滅びない。
人生の意義は絶対、滅びない。
これがカントの道徳的証明です。
この証明に関して西田哲学では、なるほどこの証明法は、確かに我々の道徳に偉大なる力を与えるに相違ないが、我々の側に道徳と倫理が必要であるからと言って、神の存在と霊の不死が必ずなければならぬということにはならない。
この道徳的証明は方便と言える、と批判しています。
何も道徳的証明を否定しているわけではなく、かといって十分な証明法とも言えないということです。
ただ神の存在と霊の不死を否定させないだけの思想の力を有している点は認めています。
西田博士の批判は、人生の意義の見地からの批判です。
神は我々の道徳と倫理を維持するために存在しているわけではなく、我々自身が神のために存在しているという批判です。
我々人間の側に道徳と倫理が必要であるからと言って、神の存在やあの世が必ずなければならぬということにはならない。
神は我々のために存在しているのではなく、我々自身が神のために存在している。
神は人民共通の人生の意義として存在している。
まさに存在の愛です。
神が何かを語るから尊いのではなく、神が何かを行うから尊いのでもない。
神はただそこに存在しているだけで尊く、ただそこに存在しているだけで過去・現在・未来の全人類全ての永遠の「人生の意義」になっている。
神が存在しなければ、相対的な意識活動しかできない我々の存在意義はなくなるのです。
西田哲学では、この人間の人生の意義の観点から道徳的証明を批判しています。
神が我々不完全な人間の道徳と倫理を維持するために存在しているというならば、ではその当の人間自身は何のために存在しているのか。
道徳的証明では、人生の目的と使命、すなわち人間の存在意義を説明できないという見地からの批判です。
これで宇宙論的証明、自然神学的証明、そして道徳的証明を扱いました。
次回は4つ目の存在論的証明を扱います。
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