真理関係

真理の土台 2

この題は真理の基本部分であり、過去行われてきた神の存在証明の検証です。

当サイトの真理としては古い方の真理であり、解禁ということで掲載しておきます。

「原文 3」の削除、修正、加筆です。

カント以後、神の存在証明に関しては色々とありましたが、近代以後は一つの特徴があります。

カント以前は、神の体(物質)から神の心(精神)を証明せんとする傾向がありましたが、近代以後は、神の心を直接的に捉えんとした証明法に移っています。

ここでは古い証明法である、宇宙論的証明と物理神学的証明、そしてカントの説である道徳的証明を扱ってみたいと思う。

宇宙論的証明とは、万物の因果律から神の存在を証明せんとした証明法です。

古くはアリストテレスに遡り、トマス・アキナスが主張した証明法ですが、物事には原因と結果がある。

従って原因をさかのぼれば、究極の第一原因に到達する。

この究極の第一原因を神とする証明法です。

もちろんカント以後、この証明法は否定されています。

神の存在を証明しようとして原因を遡っていくわけですが、カントによれば、無限遡及の連鎖はいつまでたっても終わらない。

原因を無限に遡っていっても究極の第一原因には、決して到達できない点が問題であり、元々この宇宙論的証明には方法論的な誤りがある。

これがカントの批判です。

方法論的誤りとは、我々は日々様々な現象や事象を、原因と結果から経験的に見ているわけです。

ニュースや事件、生活や行動等々、日々原因と結果から認識しているわけです。

例えば雨が降ることが原因であり、結果として水たまりができる。

交通事故が起こりますと、これは結果であり、その原因はわき見運転である、等々。

日々、経験的に原因と結果から見ており、また報道でもそう説明されているわけです。

個々の事象や事件を、この原因と結果で説明し、またされているがゆえに、知らず、知らず、すべてがそうであるかのように思い慣らされた結果出てきた証明法が、この宇宙論的証明です。

宇宙論的証明とは、この知覚の習慣から出てきた証明法であって、この原因と結果を宇宙全体に当てはめると、途端に原因と結果で説明できなくなる。

宇宙に原因があったとしたら、その更なる原因は何か?

その更なる原因があったとしたら、その更なる原因のその更なる原因は何か?

その更なる更なる原因があったとしたら、またその更なる原因は何か?

無限に問うていけるのです。

この無限遡及の連鎖はいつまで経っても終わらない。

すなわちトマス・アキナスが言う究極の第一原因などという神には、永遠に到達できない。

つまり我々は神の存在には永遠に到達できない。

ただ日々、我々は原因と結果を見ているし、また生活習慣として慣らされている。

経験として、あるいは現象として、また習慣として見ているし、また報道でもそう説明されている。

日々の生活習慣からそう思い慣らされているがゆえに、知らず、知らず、万物がそうであるかのように思い込まされた結果、出てきた証明法なのだ。

これをカントは方法論的な誤りがあると言いました。

個々の事象や事件は原因と結果で説明できるし、またしている。

しかして宇宙全体に当てはめると、途端に原因と結果で説明できなくなる。

無限遡及の連鎖は、いつまで経っても終わらない。

無限の堂々巡りに陥っていくわけです。

この宇宙論的証明に関して西田哲学では、どう批判しているか。

西田哲学では、「ほら、みずから不完全なることを証明している」と言っています。

宇宙に原因があったとしたら、その更なる原因は何か?

更なる原因があったとしたら、その更なる更なる原因とは何か?

その更なる更なる原因があったとしたら、その更なる更なる原因のまたその更なる原因とは何か?

ほら、みずから不完全なることを証明している、と。

究極の第一原因なる神には、いつまで経っても到達できないではないか。

神の存在証明としては、甚だ不完全であるというのが西田哲学の批判です。

そして方法論的な誤りがあると言ったのがカントです。

つまり宇宙論的証明は、神の存在証明にはなっていない。

二番目の目的論的証明ですが、これは別名「物理神学的証明」とも言いますが、カントによれば自然神学的証明とも言います。

これもカント以後は、神の存在証明としては否定されています。

この証明法は言うなれば、アイザック・ニュートン氏の逸話があるわけです。

ニュートン氏には当時、無神論者の友人がいたわけです。

その無神論者の友人が、ニュートン氏の自宅に遊びにきたのです。

するとニュートン氏の自宅には、太陽系の見事な模型があるわけです。

その無神論者の友人は、「ニュートンさん、この太陽系の模型はすばらしいですね。

一体誰が作ったのですか?」と尋ねたのです。

するとニュートン氏は、こう答えます。

「その太陽系の模型はね、惑星に擬した球体や軌道を表現している針金をそこら辺に無造作にほっとらかしにしておいたら偶然できたのですよ」

当然、その無神論者の友人は怒ります。

「ニュートンさん、私をバカにしてはいけませんよ。

こんな見事な太陽系の模型が、ボールや針金をそこら辺に放っておいて、偶然できるわけないじゃありませんか。」

ニュートン氏は更に答えます。

「あなたもそう思うでしょう?

ならばあなたは、天体運行の整斉から月の満ち欠けに至るまで、こんなすばらしい見事な太陽系や大宇宙を、どうして偶然できたと主張なさるのですか?

なぜ、無神論を標榜されるのですか?」

そこでその無神論者の友人は「はっ」と気づき、信仰者に変わったという逸話があるわけです。

自然神学的証明とは、この逸話と同じです。

つまりその見事な太陽系を作った者がいなければならぬ。

このような見事なものが偶然できたとは思えないところから出てきた証明法です。

この物理神学的証明も近代では、神の存在証明にはなっていないとして否定されています。

カントが最初に否定した哲学者だったと思いますが、西田哲学でも否定されています。

神と宇宙との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象との関係である。

宇宙は神の所作物ではなく、神の表現(manifestation)である。 : 西田幾多郎

宇宙は神の表現体であり、神の体である : 高橋信次

眼前の大宇宙が神の体であり、神の心の表現体ですから、カントの言葉を借りれば、確かに完成された秩序の明らかなる印しは、自然界には見られる。

まさに驚嘆すべき秩序の印しは見られる、と。

しかしてそれは神の存在証明にはなっていない、と言ったのがカントです。

この目的論的証明から導かれる神というのは所詮、世界建築士としての神に過ぎない。

自然という素材そのものを無限に無から生み出す世界創造者足りえない。

素材というのはカント哲学では、自然のことを指しているわけですが、さきほどのニュートンの逸話で言えば、惑星に擬したボール、軌道を描く時に使用した針金、こういった素材が、目的論的証明では、「説明不能なア・プリオリな大前提になっている」、と。

ボールや針金が、何の説明もなく、どういうわけかそこに存在していることが大前提になっている。

ボールや針金といった素材を無から無限に生み出せる神ではない。

単にボールや針金を使って、加工し、組み立て、太陽系の模型という形式を与えた神に過ぎない。

さながら大豪邸を作る大工の神のようなものです。

これはすばらしい大豪邸ですね。

一体、誰が作ったのですか?

あの大工さんが作ったのですよ、といった大工の神に過ぎない。

この大宇宙はすばらしいですね、一体誰が作ったのですか?

神さまが造ったのですよ、と言った宇宙の外に独立せる造物主の神に過ぎない。

たとえわが心と離れて何がしかのものが存在していたにしろ、それはわが心とは没交渉のものであって実在としては認められない。: 西田幾多郎

大豪邸の外にいる大工、大宇宙の外にいる神は実在としては認められない。

単に人が想像した想像上の架空の神に過ぎない。

カントの批判は、例えて言えば板や釘、セメントや金づち、窓ガラスや雨どい等、素材がまず「説明不能なア・プリオリな大前提」としてあって、そこに大工が来て、その素材を加工し、組み立て、大豪邸という形式を与えた神に過ぎず、世界建築士でしかない。

とても素材を無から生み出す世界創造主としての神とは言えないというのがカントの批判です。

つまり自然神学的証明から導かれる神というのは、時計職人のような神に過ぎない。

時計には素材があります。

文字盤であるとか歯車、あるいは針であるとかガラスですが、この素材が「説明不能なア・プリオリな大前提」として、どういうわけかまずあって、そこに時計職人がやってきてその素材を使い、加工し、組み立て、時計という形式を与えた神に過ぎないのだ。

ボールや針金、板やセメント、釘やカンナ、文字盤や歯車という素材そのものを無から生み出す世界創造者足りえないところが問題として残る、と。

これがカントの批判です。

西田哲学でもこの自然神学的証明は、神の存在証明になっていないとして批判しています。

要はこの物理神学的証明というのは、合目的性からの証明法なのだ。

自然界の事物を見れば、まさに人知を超えている。

自然界は、人間の知性や手では作れない。

すなわち人知を超えている。

このような見事な自然界が、このような見事な森羅万象が、あるいはこのような見事な大宇宙が偶然できたとは思えない。

誰かが作ったに違いない、あるいは誰かがデザインしたに違いないと類推して、その目的を与えたものがなければならぬ。

この目的を与えたものを神とする証明法なのだ。

ならば870万種を超えているその動植物のその一種一種のその悉くが合目的的にできていると、まず証明しなければならない。

これがすべて証明されるまで神の証明にはならないというならば、それが証明されるまで我々は無神論でい続けなければならない。

しかして870万種を超えた動植物のその一種一種の悉くを合目的的に出来ていると証明することは、すこぶる難しい。

仮に100歩譲って、その870万種を超えた動植物のそのすべての種の合目的性を証明できたにしろ、それは偶然そうなっているのだと言える点、神の存在証明にはなっていない。

これが西田哲学の自然神学的証明への批判です。

この目的論的証明を分かりやすく言えば、優れた制作物には、優れた制作者がいるはずであるという論理なのです。

その優れた制作者を神であると推測している証明法です。

ならばその論理に従って神ほど優れた制作者はいないわけですから、その最高に優れた神は一体誰がデザインしたのですかと問うわけです。

すると決まって、いや、神は誰もデザインしていない、神は造物主であって誰からもデザインされておらず、ただ「I am that I am」であり、ただ在りて在るものだ、と答えます。

ならば自然界も、ただ偶然そこに在ったと言えるわけです。

神がただ在ったというならば、動植物や自然界もただそこに偶然在ったと言えるのです。

何も神の存在を持ち出してくる必要性はないわけです。

それを自然界や宇宙の人知を超えたすばらしさから推測して、神の存在を引っ張ってくるから矛盾してくるのです。

例え自然界が人知を超えたものしろ、驚嘆すべき秩序の明らかなる印しがあったとしても、それは偶然そうなっていると言えるのです。

神だけがただ在って、自然界や動植物はただ在るのではなく、デザインされていると推測するのは矛盾である。

西田哲学では、これを言っているわけです。

870万種のその悉くの合目的性が証明されたにしろ、それは単に偶然そうなっていると言える点、神の存在証明にはなっていない。

西田哲学では、人心の無限に自在なる活動が、直に神そのものを証明すると言っておられます。

人心の活動が有限ならば、無限に向上し得ないわけですから、人間は永遠に未熟なままです。

そして人類が未熟なままならば、我々はその未熟から作り上げる世界の諸問題を自力で何も解決できない人類となる。

人心の無限に自在なる活動は、人間の心は無限に向上し得ることを意味しており、人類はおのが未熟から作り上げた世界の諸問題を、悟りによる向上次第で、自力で解決していくことができる。

すなわち人心の無限に自在なる活動は、希望そのものを意味しているがゆえに神そのものを証明する。

目的論的証明、このニュートン氏が説明した自然神学的証明は、近代では神の存在証明にはなっていないとして否定されています。

ID(インテリジェント・デザイン)の連中も「神は考えられる限り最も偉大なデザイナーである」と言ったジョン・ホートン博士も誤り。

自然界という神の細胞から神の心を証明せんとするのは、本末転倒なのです。

精神と物質、生命と肉体を混同している。

神の存在証明と言いますが、神の心とは善であり、正義であり、真心であり、愛である点は認めるはずです。

いくら人間の脳細胞を解明しても、誠実な心は出てきません。

いくら血管と血液を分析しても、真心は出てきません。

いくらDNAを解析しても、人を愛する心は出てきません。

いくら脳細胞を取り出し、複雑に研究してみても、親孝行をしたいというその神の心に叶った心は出てこないのです。

いくら人間の肉体を解剖しても、その者の人格は出てきません。

つまり証明できません。

ならば真心を存在しないとして否定するのでしょうか。

愛する心が証明できないから、愛を否定するのでしょうか。

正義が証明できないから正義を否定するのでしょうか。

人への誠実さが大切な心と知りながら、証明できないからと言って否定するのでしょうか。

否定できるのでしょうか。

できません。

だから神の存在は、証明できなくても、否定できないと言っている。

なぜ否定できないのか。

それはその証明できない正義と愛、誠実さと真心の大切さを知っているからです。

だから証明されなくても人は信ずるのです。

愛も正義も肉眼では見えず、手で触れることもできず、知覚神経を通して感じることもできません。

真心を手で触ったことがあるのでしょうか。

愛を肉眼で見たことがあるのでしょうか。

しかして大切な心である点は理解できるはずです。

そう感じているのは肉体ではなく、心です。

科学的に証明されたならば、神を信じましょうというならば、本末顛倒であり、その者に神の存在が証明されることは永遠にないでしょう。

なぜならば宇宙と人間の存在意義とは、神の存在証明にあるからです。

まず神ご自身がその天地創造を通して、自己は存在すると大宇宙の存在を通して、その存在を我々人類の目の前で証明しているはずです。

宇宙は神の体です。

大宇宙の存在を否定できる方が一人でもいるのでしょうか。

誰も否定できません。

大宇宙、すなわち神の存在を否定できる者は今後も一人もいません。

外的には大宇宙、内的には平等の価値や人心の無限に自在なる活動、外的にも内的にも神の存在を否定できる者は人類の中では一人もいません。

また神の存在は、証明されたら信ずるといった世界には属していません。

逆です。

正義はあるのだ、愛はあるのだ、真心はあるのだ、善はあるのだ、誠実さはあるのだ、神の心はあるのだ、と証明するために人はみな生きている。

人生の意義とは、すべて神の存在証明にある。

人生の意義とは、神の存在を物質的科学的に証明することにあるのではなく、神の心そのものを証明する点にあります。

証明されたならば信ずるのではなく、正義と愛、この神の心はあるのだと証明していく点に人生の意義はあるからです。

宇宙論的証明や自然神学的証明が、神の存在証明に失敗する理由は、神の体(物質)から神の心(精神)を証明せんとするがゆえに失敗するのです。

宇宙論的証明は、万物の因果律から、自然神学的証明は万物の合目的性から、つまり神の体から神の心を証明せんとするがゆえに失敗する。

神は一人一人の生命のただ中にのみ存在する。

カント以後は、神の体によって証明する証明法から神の心を直接的に証明していく方法に近代では移ってきています。

物質で神を証明しようとするのではなく、生命で証明せんとしている流れです。

その生命での証明が、カントが主張した道徳的証明です。

善悪や道徳は心で感ずるものです。

カント以後は、この方向に進んでいます。

紙幅の関係で切っておきます。

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