「真理の土台」という題ですが、何も「救世の法」の土台というわけではありません。
本当の基本中の基本という意味での「真理の土台」です。
初期のすばらしい頃の幸福の科学に触れたことのある人ならば自明のことでしょうが、真理というならば神の存在とあの世の存在は大前提なのです。
ただいきなりあの世だの神だの言っても一般的には理解不能な世界ですから、当サイトのスタンスとしては、何故神の存在を認め、あの世の存在を認めているのか、その理由とは何か。
その原因と理由を明らかにしておかなければならないと思ったわけです。
幸福の科学でイエスが再臨し、多くの諸神霊が全人類に対してメッセージを降ろしていたから神の存在とあの世の存在を認めているのではなく、ほぼ同時並行ぐらいで神の存在証明とあの世の存在証明は探究していました。
この神の存在証明とあの世の存在証明、この真理の土台に関していい加減な思想を説いておりますと、生き神信仰や方便神への信仰となり、いずれその信仰は歪んだものとなり、真理全体の法体系も矛盾していき、いずれ崩壊していくことになります。
その説く法が崩壊しますと、その教団全体も崩壊し、教団の関係者全員の生命も崩壊していくことになる。
それはこの神の存在証明とあの世の存在証明がいい加減だからです。
神の存在証明とあの世の存在証明は、真理の土台であり、最も初歩的な基本です。
何事も基本が最も重要なものであり、ここがしっかりとしていれば、その法体系が崩れることはありません。
まさに幸福の科学が最初に言っていた「土台から柱へ」です。
その土台がしっかりとしていれば、その神への信仰が、盲信や狂信になることはありません。
宗教のほぼ全てが盲信と狂信になるのは、この神の存在証明とあの世の存在証明が思想的にできていないからです。
神の存在証明とあの世の存在証明ができていない教団の信仰は、必ず盲信と狂信になります。
幸福の科学がおかしくなっていったのは、この基本ができていなかったからです。
従って神の存在証明とあの世の存在証明ができない教祖は、必ずいい加減な信仰を説いていると言っていい。
諸神霊によれば、宗教界の教祖の96%は地獄に堕ちているそうですから、ならば宗教界とは、ほぼ地獄界とイコールの世界です。
まさに触らぬ神に祟りなしです。
従ってどの教団であれ、そこの教団の信者さんが、まずそこの教祖に問うべき一番最初の質問とは、この神の存在証明とあの世の存在証明です。
これが説けない教祖は、神とは何かが分かっていないのです。
だから大抵、碌でもない他力信仰か生き神信仰、あるいは御利益信仰に堕ちる。
神とは何かが分かっていないために生き神信仰に耽ったり、方便神への信仰を説く時代遅れの信仰を説いたり、仏典や聖書と言ったある特定の書物を振りかざして、おかしな信仰をまき散らすのです。
あの世から諸神霊が霊言を降ろしたぐらいでは神の存在証明にはなっていないし、あの世の存在証明にもなっていない。
ただ単に霊言を信じているだけであり、諸神霊が出れるうちはいいけれども、出れなくなれば、その信仰は盲信と狂信に堕ちる。
あの世から神霊が、あの世はあるからあると言っているのだといくら言っても、それはこの世の人間からすれば、それはそうかもしれず、あるいはそうでないかもしれず、それを信ずる者もいるであろうが、信じない者もいるであろう。
方便の善から出られなくなる。
それを力を暴走させて無理やり信じさせれば、それが盲信と狂信の温床となり、それは既に証明されているのではないか。
まるで蜘蛛の巣にかかって、逃げられなくなった昆虫みたいな信者になっている。
そして色々とその蜘蛛にむさぼられていくわけだ。
あの世の力だけを暴走させれば、いずれその信仰は盲信と狂信になる。
それは真理の土台である神の存在証明とあの世の存在証明を疎かにしてきたからです。
知性の発達した現代では、ただ神を信ぜよでは納得しがたいものがあるのです。
幸福の科学は霊言であの世の存在を証明しようとしましたが、その幸福の科学も、まともだったのは1986年から1989年までのほんの3、4年ほどであり、後はカルト街道まっしぐらで今も迷走しています。
今出している「あんた、ほんとは誰」霊言も酷いものであり、それゆえに1980年代後半の霊言も、あれも実は嘘だったのだと思われるほど酷い事態に陥っています。
イエスは他の神霊にどう顔向けするのか知りませんが、地上人間が高級霊をみずから呼び出すことはできないとスピリチュアリズムでは散々言われてきたことですが、それは基本はそうですが、今回は大川さんが呼べば、誰でも出てくるような体制をあの世でイエスを中心に造っていたのです。
もちろん人間があの世の高級霊をみずから呼びつけることはできませんが、今回は全世界の救世のために、その体制をあの世で造っていたのです。
霊天上界が一致団結していたというのは、これを言っていたのです。
この中心にいたのがイエス・キリストでした。
だから霊言に関してはイエスが責任をもっているのです。
例えばニュートンさんなんかも、あまりにも甘えているため霊言など出したくもなかったのですが、イエスが頼むから渋々出していたのです。
ニュートンさんは当時、大川さんにかなり怒っていたのです。
そのニュートンさんが怒っていた理由は、後々実証されたのではないか。
あのように甘えた環境で真理を探究してきた天使は、まずいないのです。
みな非常に厳しい環境で真理を探究してきているのです。
非常に自分達には甘く、他人には厳しい指導霊共ですが、ほんとあそこは指導霊からしてはた迷惑です。
しかして一旦始めてしまった限り、後戻りはできないというので無理にやっていたわけですが、当時から懸念されていたメッキは、やはりはがれてしまったのです。
スピノザの生まれ変わりと言われた阿部氏を追放し、原久子女史に愛想をつかされ、関谷晧元氏に逃げられた1989年が転機だったのでしょう。
それ以後、高橋信次氏の弟子も離れ、幸福の科学では高橋信次氏の霊言も全て絶版にし、指導霊としても追放しています。
もう、元の幸福の科学に戻ることはないのではないか。
今回の「救世の法」の土台は、多次元世界の全貌と輪廻転生です。
高橋ー大川ラインで意図していた「救世の法」には、これに仏陀意識の法意識である「悟りと反省」が入っています。
反省法は、高橋信次氏時代のGLAが完成させていますが、悟りの完成は未だありません。
今は法も過去世も霊格も無茶苦茶になっています。
富の氷山に衝突し、海底に沈んだタイタニック号になっており、高橋ー大川ラインの「救世の法」には、サルベージが必要です。
海底から引き揚げ、修理し、全てのエンジンと部品を新たにし、神仏の法治主義を説いていかなければならないのです。
ほんと何もかんも俺にやらせやがって、何のために仏陀の本体が出たんだよ。
大体、なんでそう何度も、何度も、レッドラインを超えるんだよ。
地獄に行けとは言わないけれども、心の在り方を点検しないと、かなり危ないのではないか。
今回は高橋ー大川ラインで計画していた「神仏の法治主義」の土台ではなく、純粋な真理の土台である神の存在証明とあの世の存在証明を扱います。
実は以前に何度か扱っているのですが、「Truth」や「Creator’s Report」の方に入れておりますので、当サイトの真理の土台に関しては、その信念と思想の公開はしていなかったと思う。
やはり今後もあの世だの神だの言うわけですから、その根拠は示しておく必要があるでしょう。
何故あの世だの神の心だの自明のことのように言うのか。
別に何の根拠もなく言っているわけではないのです。
当サイトは、この神の存在証明とあの世の存在証明から真理の探究の一歩を踏み出したのです。
では始めましょう。
意識現象は、すべて脳髄の反映であり、脳における電気的信号に過ぎないとする説は誤り。
意識現象が、脳髄の反映であり、脳の活動によって意識現象があらわれるとするならば、ではその脳が失われたら如何?
意識現象は生じ得るであろうか。
大抵の良識人は「わからない」と答えます。
脳が失われた後の世界は、あるかもしれず、あるいはないかもしれないという不可知論を取るわけですが、実は不可知論は成り立たないわけです。
一方で唯脳論という愚かで無知な説を振りかざし、認識は脳髄の反映であると断定しながら、他方において脳が失われた後の世界は分からないという不可知論を取るならば、その最初の断定、つまり認識は脳髄の反映であるという断定は「独断」となります。
なんとなれば脳が失われた後の世界で認識が継続していたならば、認識は脳髄の反映であるとは言えなくなるからです。
あの世の諸霊は肉体がありませんから、当然脳もないわけです。
しかして高度な認識能力を誇っております。
脳が失われた後も認識が継続しているわけですから、認識は脳髄の反映であるとは断定できません。
それでも断定するならば、「独断」です。
また脳が失われた後の世界は分からない「不可知論」を取られるならば、脳が失われた後の世界は、
「それはあるかもしれないし、あるいはないかもしれない」
わけですから、少なくとも「認識は脳髄の反映である」という断定はできない。
認識は脳髄の反映であるかもしれず、あるいはそうでないかもしれないとする判断が妥当です。
にも拘らず一方で認識は脳髄の反映であると断定しながら、他方の御手において不可知論を取るならば、矛盾であり、最初の断定は「独断」となります。
かつてカール・ポパーは、「科学的思考とは反証可能なものについて議論することである」と述べました。
不可知論を学問の対象の彼方におく、実にカント的思考法であるが、これは一歩間違えば「唯物論」となって真実から遠ざかる。
認識は脳髄の反映であるかもしれず、あるいはそうでないかもしれない。
脳髄が失われた後の世界も、それはあるかもしれず、あるいはないかもしれない。
この世的にもあの世的にも、何も我々は断定し、判断できなくなり、その根拠を失う。
神の存在とあの世が実在していなければ、物質医学も学問もすべて反証不能な世界に投入し、誰も何も断定できなくなります。
これが近代合理主義を乗り越えていく上で重要な考えの一つです。
もし脳が失われた後の世界、すなわちあの世が存在するならば、認識は脳髄の反映とは言えないし、不可知論も取れない。
認識は脳髄の反映と断定する思想の行き着く先は、死後は無であり、神も妄想であり、従って善悪と正義も無となる。
すなわち存在しないということです。
認識は脳髄の反映とする説では、神も存在せず、真善美も存在せず、普遍的な価値の一切が脳機能の停止と共に無となるわけであるから、この世で正義と愛は成立しなくなる。
ならばその唯脳論のようないい加減な説をまき散らし、最もらしい理屈で大衆を洗脳している者達は、道徳上の非難を受けなければならない。
認識は脳髄の反映と断定しているわけですから、その脳が失われた後の世界は不可知論ではなく、「無」と同義です。
認識が脳の反映と主張しているわけであるから、その脳が失われれば、当然認識も「無」となる解釈以外成り立たない。
不可知論はない。
にも拘らず不可知論を取るならば、先に述べたように矛盾であり、認識は脳髄の反映であるとする説は、単なる独断であり、無知な思い込みに過ぎない。
認識を脳髄の反映と見るのは、肉体を自分だと思っている物質観です。
宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎
神の心(精神)を拝むことを信仰と言い、神の体(物質)を拝むことを「偶像崇拝」と言う。
認識は脳髄の反映とする考えは、神の体を拝んでいる「偶像崇拝」に相当する。
肉体という物質を自分だと思っているから、その肉体がなくなれば認識もなくなると思っている。
だから脳がなくなれば、意識現象もなくなると思っている。
自殺の原因も、神の体(物質)を拝んでいる「偶像崇拝」です。
人間を肉体という物質だと思い、その物質である肉体をなくせば、意識現象もなくなると思っているから自殺する。
肉体という物質を拝んでいる。
脳という物質がなくなれば、認識もなくなると思っている。
ところが実際は、脳が失われても認識は失われず、肉体が失われても、精神が失われることは永遠にない。
だから人間は絶対に自殺できない存在として創造されている。
仮に自殺した者がいたとしても、死んでおらず、地獄で生きている。
人間は誰しも、自己の生命を自己の判断で勝手に生かしたり、殺したりすることはできない。
それは神の領域に属しているからであり、我々は全て永遠に神に生かされているからです。
従って神の心に叶えば天国であり、叶わねば地獄です。
そして天国は幸福であり、地獄に堕ちれば不幸です。
人類の幸不幸を分けている心が、これ神の心。
肉体を自分だと思って自殺しているわけであるが、この物質観があの世でも悲劇を生んでいる。
原因と結果を混同し、精神と物質を混同し、肉体と精神を混同している。
認識は脳髄の反映という観念は、人の心をして物質に誘導する「偶像崇拝」です。
人の心を狂わせるとは、神の心ではなく、神の体、すなわち物質に誘導することを言う。
認識が脳髄の反映であると、あくまで主張するならば善悪と道徳、正義と価値はこの世では成り立たない。
認識が脳髄の反映ならば、その脳が失われた後の世界は「無」であるから、あの世もなく、神もなく、善悪もない。
道徳もなく、正邪もなく、美醜も真偽もない。
それは脳の喪失と共に無となる。
一切の価値は、この世で成り立たなくなる。
ゆえにカントは実践理性批判において「神の存在」と「霊の不死」を、この世の道徳観から必然的なものとして「要請」した。
「神の存在」と「霊の不死(あの世)」がなければ、この世で道徳と正義、善悪と美醜が成立しないと主張したのです。
あの世ではなく、この世で価値そのものが成り立たなくなる。
死んで「無」になるならば、人生80年で「有限の人生観」となり、有限は物質を意味しているために、人は必ず有限、いわゆる「利益」と「国益」を追うし、追っている。
肉体を自分だと思う物質観と有限の人生観が、人類の全ての諸問題を生んでいる。
人間とは肉体ではなく、精神であり、物質ではなく、心であり、霊であるという霊的人生観の確立が重要。
これは幸福の科学が最初に言っていたことですね。
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