宇宙は神の表現体であり、神の体である : 高橋信次
宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎
宇宙の存在を神と言いますので、宇宙が過去・現在・未来の全人類を永遠に支配し、指導しています。
全ての善の源は神の心であり、全ての悪の源は神の体です。
全ての悪の源である神の体は、全ての善の源である神の心の表現体であり、宇宙とは神の一大真理表現です。
神の心とはこの世では宇宙や自然界に表現されており、あの世では多次元世界に表現されています。
だから初期の幸福の科学では、あの世の高橋信次氏が最初にこれを言っていたのです。
全体の法とは、宇宙の構造や仕組みを解き明かし、多次元世界の構造や仕組みを解き明かした法である、と。
私には「全体の法とは、人類がこう思って、こう行うと世界はこうなっちゃうよという法なのだ」と言っていました。
宗教とは、宇宙の心と人間の心を同じくし、自然界の心と人間の心を同じくし、良心と本人の心を同じくするものです。
宗教とは、宇宙の心と人間の心を同じくする道ですから宇宙即我の道を説くものです。
宇宙や自然界の心と人間の心を同じくすると言いましても、まずその人間が同じくする宇宙や自然界の心、すなわち神の心が具体的に明らかにならなければならず、そのために宇宙や多次元世界の構造と仕組みを解いていかなければならないのです。
あの世の高橋信次氏は最初にこれを言っていたのです。
宇宙や自然界に神の心があらわれているという点は、過去神の思想を悟られた方は共通して悟っておられたわけであり、ヘーゲルならば「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と残しており、エマソンならば「自然は完全である」と残しています。
ヘーゲルは、神の心とは宇宙や自然界にあらわれている実に現実的なものであり、宇宙や自然界という現実的なものには神の心があらわれていると言ったのです。
ヘーゲルは空間論的にも時間論的にも宇宙即我の悟りを説いています。
宇宙即我の歴史論を残しているのは、今のところヘーゲルだけでしょう。
エマソンや高橋信次氏もそうですが、普通は空間論的な宇宙即我を説くものです。
エマソンが自然を完全であると言ったのは、宇宙や自然界を神と言うからであり、神は完全だからです。
完全なる神の心が宇宙や自然界には表現されているのです。
西田哲学ならば「絶対矛盾的自己同一」としての宇宙の姿を描き出しています。
生前の高橋信次氏ならば「自然界は法のあらわれである。
人はこの法をもって思いと行いを正せよ」と残しているはずです。
宇宙や自然界に神の心が表現されている事実をみな悟っているわけです。
宇宙の存在を神であると知っていれば無神論はないのです。
宇宙の存在を否定できる者は、過去・現在・未来の全人類の中で一人もいないからです。
すなわち神の存在を否定できる者は、一人もいないのです。
それでも無神論が横行しているとすれば、宇宙の存在が神であるという事実を知らないのです。
あまりにも宇宙が巨大過ぎるがゆえに人間は眼前に存在する大宇宙が神である事実を悟れないのです。
宇宙がなければ、銀河系もなく、銀河系がなければ、太陽系もなく、太陽系がなければ、太陽もなく、動植物や人類は死に絶えます。
人間は生きているのではなく、宇宙に生かされているのです。
宇宙が神ですから過去・現在・未来の全人類は神の心と神の体を中心に永遠に支配されています。
8つの惑星ですら太陽を中心に回っているのです。
自転という自力を繰り返しながら、太陽の周りを公転し、公的な心を体現しています。
普遍的な神の心を中心に自転しているのです。
人間の方は神の体(利益と快楽)を中心にその周りを自転しています。
これは人類の未熟と悟り不足をあらわしているものです。
太陽系ですら人間に生き方を教えているのです。
神の心を中心に自転しなさいと教えています。
神は自己に似せて子を造られました。
人間の体は、神の体(自然界)に養われ、人間の心は、神の心に養われています。
イエスも人間は神の言葉の一つ一つによって生きると残しているはずです。
正確に言えば、人間の心は、神の心によって生きるということです。
人間の体は水と食料で保存維持できますが、人間の心は水と食料で保存維持することはできません。
人間の心は、神の真善美によって保存維持され、人間の体は神の真善美によって保存維持することはできず、水と食料によって保存維持されます。
今の文明は正義と愛でメシが食えるかという時代ですが、次世代の文明では正義と愛でメシを食う時代です。
正義と愛を知らず、神の心を実践できない者は、メシが食えなくなり、その肉体の保存維持すらできなくなるのです。
神道系は特にこれを意図しています。
神道系ほど極端になることもないでしょうが、そういった傾向の時代にはなるのです。
基本的に人間の心は神の心によってしか成長できません。
俗に悟りが上がるとは、神の心を悟ることを指し、人間の心を悟ることを指すのではありません。
教祖であろうが、生き神さまであろうが、救世主であろうが、人は人間の心を知るために生きているのではないのです。
神の心を悟り、真正の自己を知ることが永遠の「人生の意義」になっているのです。
悟りとは、真正の自己を知る、これに始まってこれに尽きる : 西田幾多郎
一人一人の「心」には大宇宙と多次元世界の全てが入っており、これを知ることが真正の自己を知るということです。
神と人間は永遠に一体で生きておりますので自己の心を知れば、知るほど神との一体感は強まり、宇宙即我となり、天地一体となり、神人合一となります。
過去・現在・未来の人類の善悪の普遍的な価値基準とは、眼前の大宇宙であり、如来界共通の悟りなのです。
宇宙即我が善であり、宇宙との分離が悪です。
天地一体が善であり、天地分離が悪です。
神人合一が善であり、神人分離が悪です。
善悪とは人間が多数決で決めるものではなく、大宇宙が永遠に決めています。
俗に高級霊と言われる方々の「心」は、神の心によって成長してきたため無神論はあり得ないのです。
人間の体は、神の体(自然界)から採れる飲料水や食べ物で成長していきますが、人間の心は、神の心によって成長していきます。
心は宇宙大にまで成長できるのです。
そして宇宙の中に住んでいる全ての者は、実は自己の心の中に住んでいた事実を知ることになります。
宇宙と人類、神と人類は永遠に一体で生きておりますので、誰であろうが、その相対的な自我を強めれば、波長同通の法則の作用によって同じく相対的な物質(神の体)の方面と同通し、統一的な神我を強めれば、波長同通の法則の作用によって同じく統一的な神の心の方面と同通します。
神と同通するのは、神と人類は永遠に一体で生きているからです。
人間の心がどう自由に動こうとも、神の心か神の体のどちらかに必ず支配されます。
霊性の高い者は神の心に支配されますが、霊性の低い者は神の体(利益と快楽)に支配されます。
大宇宙、この神の支配から逃れることのできる者は一人もいません。
必ず神の心か神の体のいずれかに支配されます。
神と人間が初めから分かれている関係ならば、人間が自我を強化しても神の体と同通することはなく、神我や良心を強化しても神の心と同通することはありませんが、現実は誰であろうが同通するわけです。
統一的な神我を強化すれば、同じく統一的な神の心の方面と同通し、様々な啓示やインスピレーションを受け、自己の悟りは上がり、心が成長していくのです。
悟りが上がれば、光が出てきますが、この光があらゆる魔から自己の心を守ってくれるのです。
いくら金をかき集めても、そのお金で自己の心が守られることはないのです。
相対的な利益や快楽は、神によって永遠に「地」と定められているものですので、むしろ神の心から遠ざかり、悟りが低下していきます。
そういう教祖がどこかにいたはずです。
信者から利益と快楽をむさぼり続けたため悟りが低下していき、「もう高度な法が説けない」と弱音を吐き、悟りが低下するだけならばまだしも、悟りを完全に失ってしまったために光を失い、心が魔に無防備な状態に置かれるリスクに晒され、死んでしまった教祖がいました。
むさぼったそのお金は教祖の「心」を守ることはできなかったのです。
世には往々、人間は何故神の心を信じなければならないのかを問う人がおりますけれども、自己の心をあらゆる魔から守ってくれるものは神の光であり、この神の光は常に神の心から来るからです。
神の心を悟らずに神の光は出ないのです。
神の心を信ずるがゆえに神の心を探究する。
神の心を探究していけば、悟りは上がり、光が噴火し、その神の光が自己の心をあらゆる魔から守るのです。
金や地位は、いくらむさぼっても人の心を守ることはできないのです。
よく光溢れる世界を造りたいと願う者がおりますけれども、その光は神の心から来るのです。
神への信仰や悟りなくして、世界を光で満たすことはできないのです。
世界も同じであり、神の心を信ずることもなく、悟ることもなく、光が出ることはありません。
逆から言えば、人類が神への信仰に覚醒し、その心を悟っていった時にのみ地球は神の光で覆われるということです。
神への信仰が唯一世界と人類を救済するのです。
諸神霊のまとう光が巨大なのは、それだけ神の心を悟っているからです。
悟りなくして光なし、信仰なくして光なしです。
現代は無神論の時代であり、神の心と人間の心が離れた罪の時代です。
悪や罪とは神の心と人間の心が離れていることを言います。
正法とは、神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけなのです : モーゼ
すなわち罪や悪とは、神の心と人間の心が離れている状態を指します。
神への信仰がない者は、必ず相対的な自我のままに生きているのです。
相対的な自我のままに生きれば、必然的に相対的な物質と同通し、物質の属性をもった思想や行動しか取れなくなり、神の体を「天」に置き、神の心と離れて罪の人となり、悪の存在となるのです。
そして神への信仰を失った人類は、まさに自動的に不幸に堕ちていくのです。
物質の属性とは、相対的な利益と快楽であり、これに支配されているはずです。
この宇宙では、神の心を拝めば、人類は必ず幸福となり、神の体を拝めば、人類は必ず不幸になるのです。
これは神の定めた永遠の理法ですので誰もこの理法を変更したり、変えたりすることはできません。
不幸になりたければ、現代の人類のように神の体を「天」に置いて拝めばいいのです。
人類は必ず不幸になります。
宇宙と人間はそう造られているからです。
従ってこの理法を知れば、人類に選択の余地はなく、真に人類の幸福と救済を願うならば、神の心を信ずるしかありません。
そもそも人間の側に選択の余地などないのです。
幸福の科学では、大川さんの悟っている潜在意識を使って釈尊がテーマを色々と下ろしていました。
あの世とこの世を貫く幸福、中道、十大原理、正しき心の探究等々、下ろしておりましたが、これらはあくまでテーマであり、今後探究し、掘り起こしていきなさいと言っていたのです。
ところがテーマを下ろしたら下ろしっ放しであり、表面意識の方で悟ろうともせず、探究しようともしなかったため、徐々に悟っていない表面意識と悟っている潜在意識が乖離を始め、最後は離れ過ぎたために潜在意識の「天」と表面意識の「地」が天地分離してしまい、霊言を下ろせなくなったのです。
これがあれだけの高度な霊言を下ろせた人がこれだけ稚拙な言動ばかりを取る原因だったのです。
この潜在意識と表面意識の乖離に混乱した人は多いはずです。
悟っている潜在意識だけを使っていたのです。
表面意識の方で利益と快楽を得る努力ばかりして、利益にならない真理の努力をしてこなかったことが原因です。
あの世とこの世を貫く幸福でも、テーマだけを主張するのではなく、どうすればあの世とこの世が貫かれるのかを具体的に教えなければならなかったのです。
あの世とは永遠の世界です。
その永遠の世界と貫くには、この世の人間が永遠を信じなければ貫かないのです。
この世の人間が有限を信じ、有限なるもののために生きているようでは、あの世とこの世を貫くことはできません。
永遠とその価値を信じた時、あの世とこの世を貫くのです。
また諸神霊は、永遠に神の心を本音にしておりますので、この世の人間も神の心を本音にしなければ、波長同通の法則上、あの世と同通することはできないのです。
教祖が利益と快楽(神の体)を本音にしておりますと、神の心を本音にしている諸神霊と波長同通できなくなり、霊言も下ろせなくなるのです。
あの世とこの世が貫くには、永遠を信じ、その永遠の価値に生き、神の心を本音にした時、あの世とこの世を永遠が貫き、悟りも上がるために光が出てきて地球を覆い、神への信仰が地球を救う事実を確認できるのです。
神への信仰なくして地球や人類を救うことはできません。
光は常に神から来るからです。
神への信仰なくして光が下りることもなく、覆うこともありません。
世界はどこかの教団のように一貫して悪化を続けるだけです。
信仰なき者は、必ず神の体に支配されるからです。
人類の誰であろうが、人間に人類の幸福や救済を実現できる者は存在しないのです。
もし自分は救世主であり、人類を救い、人類の幸福を実現できるという者がいたとすれば、その人間は嘘つきです。
人間にそういった能力はありません。
一人残らずの全人類救済法則を知らない方の言葉であり、人類の幸福の原理を知らない方です。
知っていれば、それは神の心しか実現することができない事実を知っているはずです。
救世主信仰など大間違いです。
SF作家の故・平井和正氏は生前、もし現代に救世主がいた場合、人心をどう導いていくのかという思考実験をした小説を書いています。
救世主小説角川版20巻の『幻魔大戦』がそれですが、その中で平井さんは、救世主が登場すれば、さながら万能の特効薬を駆使したかのように世の罪悪は焼き払われ、不浄なるものは一掃され、自動的に世界がユートピアになると信じている人がいるとすれば、そういった人は真っ先に反・キリストの餌食になるであろうと予言しています。
もし救世主が存在するとすれば、一人一人の徹底的な努力を要求するであろう。
一人一人の悟りなくして決して世界を救うことも、浄化することもできない事実を説くであろうと残しています。
まさにその通りであり、人間が何の努力もなく、悟りもなく、ただ救世主が登場し、それに頼れば救われるとする他力信仰は邪道であり、たとえ救世主でもそのような能力はありません。
始めからそのような能力は人間にはないのです。
神の心を信ずれば、人類は幸福になり、神の体を信ずれば、人類は不幸になるというのは永遠不変の神の定めた公理なのです。
神の心を信ずれば、神の心を宇宙と同様「天」に置くために宇宙即我となって人類は幸福になり、神の体を信ずれば、神の体(利益と快楽)を「天」に置くために宇宙と我が分離し、人類は不幸になるのです。
これも重要で基本的な真理知識の一つです。
神への信仰のみが今の地球を救うのは、この我々の住む大宇宙は神の心が永遠に「天」に置かれており、人間が神への信仰を通して神の心を「天」に置けば、眼前の大宇宙と人類が融合する宇宙即我の文明になるために救われるのです。
今の文明は宇宙の理法に反して神の体を「天」に置いているために宇宙と人類が分離してしまい、不幸になっているのです。
次世代の真文明は、神の心が「天」に置かれた信仰の文明です。
その前に一波乱はあるでしょうけどね。
この記事へのコメントはありません。