真理関係

次世代の真文明 6

次世代の文明とは「宇宙即我」の文明です。

現代の文明のように大宇宙と分かれている文明ではありません。

大宇宙は神の心の表現体であり、宇宙の構造と仕組みは、神の心が「天」であり、神の体(物質)が「地」で、永遠に天地一体です。

ところが我々の文明は、神の体が「天」に置かれ、神の心が「地」に置かれているため大宇宙の構造や仕組みと一致しておらず、離れてしまっているのです。

正法とは、神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけなのです : モーゼ

神の心と人間の心が同じくなれば善であり、同じくなっていなければ悪なのです。

罪とは神の心と人間の心が離れることを言います。

宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪です。

人類普遍の善悪の価値基準とは、永遠に大宇宙、すなわち神の存在であるということです。

個人も神の心と離れておりますし、人類全体も神の心と離れています。

まさに現代の文明は罪の文明です。

これは人類自身が正しいという心の基準を知らず、心の物差しを知らず、善悪の普遍的な価値基準を知らないことを意味しています。

善悪を知らないわけですから世界は良くなりようがない。

世界が腐敗したり、気候変動の中に置かれたり、生物の絶滅速度が加速したり、多くの人間が地獄に堕ちているのも無理はありません。

神の心とおのれの心が同じくなっている者の中で地獄に堕ちる人はいないのです。

それでも地獄に堕ちる人が後を絶たないとすれば、それは神の心とおのれの心が同じくなっていないという、ただそれだけの話です。

現代文明は罪の文明ですので、必ず神の体(物質)を「天」に置いています。

物質の属性には「利益性」があり、神への信仰と悟りによって生命が進化・向上した時、これを原因(神の心)として結果(神の体)あらわれる物質を「現象利益」と言いますので、物質の属性にはこの「利益性」があるのです。

宇宙と人類、神と人類は永遠に一体で生きておりますので、人類が神への信仰を失いますと、必ず神の体(物質)に支配され、この物質の属性のままに生きることになるのです。

過去・現在・未来の人類を問わず、人間の自我というものは誰の自我であれ、その知識・思考・概念・認識・情操はみな相対的な性質しかないのです。

アインシュタイン博士は相対性理論において物質の相対性を論証されましたが、物質(神の体)の相対性と人間の自我の相対性は対応しているのです。

従って人間が神への信仰を失いますと必然的に相対的な自我のままに生きるようになるのです。

相対的な自我のままに生きれば、波長同通の法則が作用し、同じく相対的な神の体と同通し、心が物質に支配され、物質の属性のままに生きるようになるのです。

物質の属性とはこの相対的な「利益性」や「快楽性」がありますので、人間はこれに支配されるのです。

だから資本主義で利益を「天」に置き、社会主義で物質を「天」に置き、政治家は国益を「天」に置き、民主主義でも人民共通の利益に基づいた国家契約となり、利益を「天」に置いて神の心と離れてしまうのです。

利益や物質とは相対的なものであり、「天」に置くようなものではありません。

物質の属性には「従性」もありますので、神への信仰を失った人類は物質に支配されておりますので、この従的なものを「天」に置くようになるのです。

職歴・学歴主義に陥って心をなくしたり、地位名誉を「天」に置いたり、有名人・著名人と言った従的なものに支配されるのです。

宗教では、特にGLA以降ですが、霊格や有名な過去世を振りかざしたりするようになります。

悟りが「天」であり、霊格が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である従的な霊格を振りかざし、悟りが「天」であり、有名な過去世が「地」で、永遠に天地一体ですので、この「地」である従的な過去世を振りかざし、それをもって人さまを信じさせようとする過ちを犯すようになるのです。

これを宗教的には「転落」と言い、「退転者」と言います。

真理の山を下りている者達です。

あの世の高橋信次氏は、有名人で人集めをするような宗教はみな間違っており、「そんな腐った肉で」人さまを釣っちゃあいけませんと言っていました。

高い霊格を振りかざし、有名な過去世を振りかざし、「そんな腐った肉で」なんて言ってました。

有名人・著名人を広告塔にして人集めをするような、そんな「腐った肉」を腰にぶら下げてりゃ、寄ってくるのは碌でもないハイエナか狼だけですよ、と。

法の中味で勝負するのが本物なんですよとあの世で言っていましたね。

これは神への信仰を失ったために相対的な自我のままに生きるようになり、相対的な自我と相対的な物質が同通し、物質の属性に支配され、この「利益性」や「快楽性」、並びに「従性」という「地」の属性を身につけ、転落していったのです。

この宇宙では相対的な自我を強化すれば、波長同通の法則の作用によって、同じく相対的な物質の方面に支配され、物質の属性のままに生きるようになり、統一的な神我、あるいは良心を強化すれば、波長同通の法則の作用によって、同じく統一的な神の心の方面に支配され、神の心の属性のままに生きるようになるのです。

宇宙の存在を神と言いますので、過去・現在・未来の全人類は一人の例外もなくこの神に支配されているのです。

誰であろうが、神の心か神の体、このいずれかに必ず支配されます。

神の心にも神の体にも支配されたくないと、いくら喚き散らしても一切通用しません。

神の心か神の体のいずれかに必ず支配されます。

神の心と神の体、いわゆる大宇宙の存在を神というからです。

神が全てを支配しているということです。

そして人類が知らなければならないことは、人類の心が神の体(物質)に支配されれば、自動的に人類は不幸になり、人類の心が神の心に支配されれば、自動的に人類は幸福になるという不変の事実です。

今の人類は見事に神の体に支配されているわけですが、その原因とは人類自身が神への信仰を失ってしまったという、ただこれだけの話です。

神への信仰を失ったがゆえに人間は相対的な自我のままに生きるようになり、相対的な自我のままに生きれば、必然的に相対的な神の体の方面に支配され、まさに自動的に人類は不幸になっていったのです。

すなわち神への信仰を失えば、人類は自動的に不幸になるということなのです。

人種差別や児童虐待、犯罪の増加やパワハラ・モラハラ、暴力や地獄堕ち、気候変動や生物の絶滅等々、この不幸の全ての原因とは、たった一つであり、人類が神への信仰を失ったという、ただこれだけのことなのです。

神の心に支配されれば、人類は幸福となり、神の体に支配されれば、人類は不幸になるのです。

神の心とは、実はこれだけなのです。

どう文句を言ったって宇宙と人間の関係は、永遠にそうなっておりますので、人間ではどうしようもありません。

今回、釈尊が全人類幸福化運動を掲げておりましたが、全人類がその幸福を実現していくには基本原則として、まず人類自身が正当な神への信仰に覚醒していくしかないということです。

未熟な人間の側には、そもそも他の選択肢が初めからないのです。

相対的な自我を強めれば、相対的な神の体に支配されますし、統一的な神我を強めれば、統一的な神の心に支配されるのです。

人間ではどうしようもありません。

神の人類支配は、人間ではどうにもならず、人間が真に幸福を望むのであれば、神の心の支配を受け入れるしかないのです。

宇宙はうまいことできています。

諸神霊が例外なく人間に神への信仰を説いていたのも、これが理由なのです。

神への信仰がなければ、人類は幸福になることができないように眼前の大宇宙の構造と仕組みがそうなっているのです。

そもそも宇宙がそう創造されていると言ってもいい。

今後の人類は一人の例外もなく、どうせ神の存在を認めざるを得なくなるのです。

神の存在を一人も否定できなくなると言っているのです。

神の存在を否定すれば、人類には「平等」がなくなってしまうからです。

だから否定できなくなるのです。

今の人類は良く言えば物質に比喩した方便の平等、悪く言えば偽りの平等を平等であると認識しており、真の平等を知らないのです。

平等と言うならば、自分と他人が有するもののうちその自他には微塵も差異があってはならないのです。

完全に同一同質同量同規模であり、そこに微塵でも差異がある場合、それを平等とは言いません。

法の下における平等も人類80億人に全て差異があり、死の下における平等にも差異があります。

ある者は30代で死亡し、ある者は80代で死亡します。

自他に微塵でも差異がある場合、それを平等とは言いません。

法も各国において異なっており、過去の法と現在の法も同じではありません。

法の下における平等はありませんし、死の下における平等もないのです。

方便とは「目的」にもならず、「否定」もできない矛盾を含んでいる善ですので方便として「否定」まではしませんが、真の平等とは言えません。

平等と言うならば、過去・現在・未来の全人類一人残らずが有するもののうちそこには微塵も差異があってはならないのです。

もっと言えば地獄の悪魔と天国の天使を比較しても、そこに微塵でも差異がある場合、それを平等とは言いません。

物質とはイコール時空であり、相対的なものであり、矛盾を意味しておりますので時間の下における平等もなければ、空間の下における平等もないのです。

人格の平等を主張する方もおられますが、人格には全て個性があり、個性の差異があります。

機会の平等も方便の平等であり、全て差異がありますので真の平等とは言えません。

人格の個性の相違だけではなく、肉体を捉えても、身長体重、指紋声紋、生理現象、肌の色から髪の毛の本数に到るまで悉く差異があり、完全に同一同質同量同規模とは言えません。

物質の下における平等は存在しないのです。

スピノザが残しておりますように「物心は神の差別相」なのです。

もう一度言いますが、平等と言うならば、過去・現在・未来の全人類一人残らずが有するもののうちそこには微塵も差異があってはならず、完全に同一同質同量同規模でなければ、それを平等とは言いません。

それは人類にはたった一つしか与えられていないのです。

心の中心に微塵も差異がない完全に同一同質同量同規模の一つの神の完全なる心を有している点においてのみ過去・現在・未来の全人類一人残らずは、永遠に平等なのです。

これが真の平等です。

人類にとって平等とは、神の下における平等しかないということです。

従ってこれ以外は全て差異があり、差別相です。

自分の心の本質にも神の心はあり、他人の心の本質にも全く同じ神の心があります。

宗教の方面では、この心の本質に存在する神の心を見性して自他一体の悟りが説かれてきたのです。

密教の方では大魔王即大如来の悟りとして説かれてきました。

地獄で悪さをしておりますけれども、大魔王の心の本質にも神の心はあり、大如来の心の本質にも全く同一同質同量同規模の神の心が存在しているのです。

この神の心を見性して大魔王即大如来の悟りが密教では残っているのです。

すなわち過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全霊人は、神の心においてのみ永遠に平等なのです。

人類にとって平等とはこれしか存在しませんので、神の存在を否定した瞬間、人類は平等を永遠に失います。

人類唯一の共通項であり、普遍的な価値である神の存在を否定しているわけですから、その方の語る平等は偽物の平等です。

人類にとって真の平等とは、神の存在しかないのです。

これ以外は全て差別相であり、矛盾と対立しかありません。

人類がその平等を認めますならば、神の存在は認めざるを得ないということです。

神の存在を否定すれば、平等を失い、人類の共通性を失い、その普遍的な価値の一切を失うことになりますので、その無神論の方々は道徳上の非難を受けなければならない。

大衆に偽りを教え、偽りの平等を刷り込んでいるわけですからカルトと同じです。

神の存在以外に平等があるというならば、言ってみればいい。

どこにもないと断言しているのです。

必ず全て差異があります。

そのようなものを平等とは言いません。

すなわち今後も人類が平等を認めますならば、と言いますか、どうせ認めざるを得ないわけであるが、神の存在を認め、信ずることは義務であるということです。

平等とはこれしかないからです。

神の存在とは否定しようと思えば否定できるようなヤワな存在ではなく、人間では絶対に否定できないのです。

人類は神の下においてのみ永遠に平等であり、この平等の神の心に従って自由を行使した時、真理は汝を自由にせん、すなわち全人類は自由となる。

民主主義下で矛盾しているこの「自由と平等」の二大概念は、ただ神の存在によってのみアウフヘーベンされます。

そしてこの「自由と平等」を矛盾から統一へと止揚する神の心とは、民主主義のような人民共通の利益ではなく、人民共通の「人生の意義」なのです。

これが「神約民主論」ですが、この「神約民主論」を通して、今後我々の文明は神の心が永遠に「天」に置かれ、神の体が「地」に置かれ、眼前の大宇宙の構造や仕組みと一致し、宇宙即我の文明となります。

宇宙では神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。

この「神約民主論」国家を実現した文明と国家が、今後1000年の世界の盟主になるということです。

今後の人類もこの「自由と平等」は求めていくわけですから、今のように矛盾したままにしておいてはいけないということです。

これがゼウス神主導で実現されます。

あの世の存在も、今では「ある」とか「ない」とかいう稚拙な議論が主流ですが、どうせ今後の人類はあの世の世界も一人残らずが認めざるを得なくなるのです。

あの世の世界が存在しないというならば、人間は死によってその心はみな無になるわけです。

それ以外の解釈はないのです。

そして死後の世界はなく、あの世も存在しないと言うならば、人間の心は死んで無になるわけですから、その人間の心の中心に存在している神の心もなくなり、無となり、同時に人類の平等も失われてしまうのです。

人間は平等を認めざるを得ないわけですから、あの世があろうが、なかろうが、分かろうが、分かるまいが、平等の存在を認めるならば、あの世の存在は認めざるを得なくなるのです。

あの世の存在を否定すれば、人類から平等が失われてしまうからです。

神の存在とあの世の存在は、平等観から認めざるを得なくなるということです。

従来、あの世の世界は「あるかもしれない」と言う者もいれば、「いや、あの世なんて世界はない」と言う者もいて、議論が二分していたのです。

その議論に終わりを告げるものが、人類の平等観であるということです。

人間は平等を認めざるを得ないわけですから、死んで無になる誤った人生観は取れず、あの世の存在はこの平等観から認めざるを得ないということです。

今後、あの世の世界は否定したくても否定できなくなるということです。

神の存在とあの世の存在は、神の真善美の根本ですのでここはおさえておく必要があるのです。

神の真善美は今後もここから下りてくるからです。

「・・確かに神の存在以外に平等はありそうにないし、みな相違があるようだ。

あの世の存在も否定すれば、心は無となり、心の中心にある神の心も無になってしまい、平等もなくなってしまうし・・。

あれぇ、どこにも退路がないや・・」

そう素直に思い、認めて信ずればいいわけです。

諸神霊も指導しやすくなりますからね。

良いお年を。

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