全ての善の源とは、神の心であり、全ての悪の源とは、神の体です。
全ての悪の源である神の体は、全ての善の源である神の心の表現体であり、大宇宙は神の一大倫理表現と言えます。
この大宇宙の倫理を真理と言い、神の心と言います。
宇宙は真理の表現体であり、宇宙や自然界には神の思想が表現されています。
神ご自身が直にその指先で自己の思想を表現している「永遠の聖典」こそが、大宇宙の存在であり、自然界の存在です。
大宇宙の存在そのものが神の「永遠の聖典」なのです。
「永遠の法」とは本来、大宇宙の存在そのもののことを言います。
この神の「永遠の聖典」を読むことのできる存在を仏教的には如来と言い、キリスト教的には大天使と言います。
大宇宙や自然界に表現されている神の心、この「永遠の聖典」を読めない者は神の心を説くことはできません。
9次元如来界の神霊達の共通の悟りは「宇宙即我」であり、宇宙と同体であるがゆえにこの宇宙に表現された「永遠の聖典」を読むことができるのです。
だから神の心を単独で説くことができる。
如来の悟りと菩薩の悟りを分けている悟りとは、要はこの「永遠の聖典」が読めるのか、あるいは読めないのかの相違なのです。
如来はみな「永遠の聖典」を読めますが、菩薩はまだ読めないのです。
だから菩薩はまだ神の心を十分説くことができず、弟子の生活になるのです。
菩薩も如来に向かって精進し、修行をしておりますが、それはこの「永遠の聖典」を読むことができる自己になるために修行しているのです。
かつてこの「永遠の聖典」を読めた者は、非常に少なく、世界でも片手で数えられるほどの数の人しか存在しません。
地球で最初に「永遠の聖典」を読み取ったのは250年前のヘーゲルという哲学者と言ってもいいでしょうが、ヘーゲルは空間論的にも時間論的にも明確に神の思想を悟っていました。
空間論的には「理性的なものは、現実的であり、現実的なものは、理性的である」というヘーゲルの言葉にそれがあらわれています。
「理性の狡知」を読めば明らかですが、ヘーゲルにとって「理性」とは、一般が使用する推論能力としての理性ではなく、神そのものを指して「理性」と呼んだり、「自由」と呼んだりしていたのです。
従って換言すれば、神の心とは大宇宙や自然界に現実化されている実に現実的なものであり、大宇宙や自然界といった現実的な存在には、神の心があらわれていると残しています。
仏教で言う色即是空、空即是色です。
形ある物質である「色」は、これ「空」であり、神の心のあらわれであり、「空」である神の心は、これまた「色」である物質にあらわれている。
GLAの高橋信次氏は、色即是空、空即是色を物質とエネルギーの不二一体の関係から説いたはずです。
色即是空とは、物質の「色」は、エネルギーの「空」であり、この神のエネルギーは「ない」のではなく、「在る」のだ。
空即是色とは、この「在る」エネルギーはまた物質としてあらわれるのだと残しています。
生長の家では、色即是空、空即是色の「空」をGLAのように「在る」のではなく、「ない」のだと説きました。
「空」の意味を「無」と捉えていたのです。
色即是空とは、物質とは「空」であり、「無」である、物質はないのだ。
本来、物質なしである。
空即是色とは「空」、すなわち「無」から一切の「色」を生ずるという禅の無一物中無尽蔵で説明していました。
「空」の捉え方にそれぞれ特徴と相違はありますが、これらはいずれも正しいわけです。
いずれにしろ神の心は「在る」わけであり、この神の思想は宇宙や自然界に表現されています。
ヘーゲルは明らかに「永遠の聖典」を読み取っていたのです。
神の心というのは、大宇宙や自然界に表現されている事実を明確に悟っていました。
神の心を悟られている方は、既存の宗教者のように仏典や聖書、あるいは聖典に依存することはなく、この「永遠の聖典」を直に読み取って真理を説いているのです。
聖典に頼るのは菩薩までです。
またヘーゲルは時間論的にも「永遠の聖典」を読み取っていた事実を残しています。
『歴史哲学』にそれが詳論されておりますが、ヘーゲルは歴史とは、神の世界計画である真相を悟っていたのです。
歴史とは自由の意識の進歩であり、個人と人類の内部にあって否応なく神の心に向かって突き動かしている「理性の狡知」を通し、人類は一単位としてこの神の心に半ば強制的に向かわせられている。
ヘーゲルは「理性の狡知」を洞察した時、明確に歴史とは神の世界計画である事実を悟ったのでしょう。
空間論的にも時間論的にも「永遠の聖典」を読み取っていたのです。
ヘーゲル哲学の魔術的な言葉遣いから一般は読んでも分からんでしょうが、250年前と言えば、まだ日本ではあの変な髪型、いわゆる「チョンマゲ」をしていた頃の話であり、あの時代でよくここまで悟れたなと驚嘆します。
大哲学者たるゆえんでしょうが、このヘーゲルから初めて地球単位で普遍妥当する正確な神の心が説かれ始めたと言っていいでしょう。
このヘーゲル以後、続々とまではいきませんが、従来の宗教的真理とは異なる人類単位、地球単位の真理が徐々に説かれるようになってきました。
エマソンも「永遠の聖典」を読み取っていた一人ですが、自然界には神の思想が象徴されているのだという象徴主義を残しています。
やはりエマソンも神の心というのは仏典や聖書、あるいはその他の人間の書いた聖典に表現されているのではなく、宇宙や自然界に直に神の心はあらわれている事実を悟っていました。
宇宙の存在という「永遠の聖典」を読んでいたから神の心の「出どころ」を知っていたのです。
カーライルやワーズワースがエマソンの道徳の第一哲学を理解できなかったのは、この「永遠の聖典」を読めなかったからです。
宇宙や自然界に表現されている神の心を読み取ることができなかったがゆえにエマソンの思想を理解できなかったのです。
生前の高橋信次氏ならば、エマソンの書籍を読んでいれば、その道徳の第一哲学を理解できたでしょう。
悟りの理念がほぼ同じだからです。
高橋信次氏もまた神の心というのは宇宙や自然界に表現されており、自然界は人間に生き方を教えていると残しています。
何故、自然界が人間に生き方を教えているのでしょう。
自然界にこそ神の心が直に表現されているからです。
自然界は法のあらわれである。
人はこの法をもって思いと行いを正せよ : 高橋信次
自然界の法を心の物差しにせよと言っていたのです。
神の心とは自然界に表現されているからであり、自然界の法を心の物差しにするとは、神の心を心の物差しとし、自然界の心と人間の心を同じくしようとしたのです。
自然即我です。
正法とは神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけなのです : モーゼ
宇宙の心と人間の心を同じくし、自然界の心と人間の心を同じくする、すなわち「宇宙即我」の道が神の道です。
正しい宗教とは、この宇宙の心と人間の心を同じくする「宇宙即我」の真理を説いている宗教です。
従って罪や悪とは、この逆であり、神の心と人間の心を切り離すものを言います。
宇宙の心と人間の心を切り離し、自然界の心と人間の心を切断する宗教を、いわゆる邪教と言うのです。
神の心と離れれば、如何なる存在であれ、悪になってしまうということです。
今の文明も見事に宇宙と人類が分かれておりますので、「罪の文明」と言っていいでしょう。
西田博士もこの「永遠の聖典」を読むことのできた数少ない哲学者の一人ですが、主観や恣意を交えず、大宇宙と自然界が現実そこにある通り、その通り現実そのままが真理であり、宇宙は真理の表現体である事実を悟っていました。
過去・現在・未来の人類は真理の世界で生きており、真理に囲まれて修行していることを悟っていたのです。
主客合一の法則や神人同体の悟り、あるいは絶対矛盾的自己同一にその悟りの高さがあらわれています。
宇宙は神の表現体ですので、永遠に真実の世界です。
その真実の世界で生きていながら、嘘や偽りを為しておりますとその反作用を受けるのは避けられません。
今の文明も真実の世界で嘘と偽りの文明を築いているため腐敗し、気候まで狂い、多くが地獄に堕ちているのです。
一旦、人が嘘をつき始めますと自動的に自己の心が曇っていきます。
光を失っていくのです。
嘘や偽りは人を騙すことになるからいけないという意味だけをもっているのではなく、自分自身の心を必然性をもって曇らせ、腐らせていくからいけないのです。
その嘘と偽りによって死んでしまった教祖がどこかにいました。
自己の心が曇れば、曇りの霊を呼び込み、自己の心が腐れば、腐った霊を呼び込むのです。
この波長同通の法則は、人間ではもうどうしようもないです。
まず人類が知らなければならないのは、我々の生きている世界は神の造られた正しき世界であり、永遠の真実の世界で生きていることを知ることです。
地球は神の「永遠の神殿」であり、神の心を拝む場所なのです。
お金を拝む場所ではないのです。
神への信仰を失った人類は、その相対的な自我のままに生きるようになるため、波長同通の法則を通して同じく相対的な神の体(物質)と同通してしまい、物質の属性に支配されるようになり、神の体を「天」に置くようになるのです。
だから相対的な富を「天」に置く資本主義の中で生きているのです。
だから相対的な国益を「天」に置く政治家だらけになったのです。
だから物質を「天」に置く唯物論が出てきたのです。
この宇宙では神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体の世界なのです。
神はそれを「天」に置けば、必ず人類を不幸にする利益や国益、快楽や自我、物質や富を「天」には置いていないのです。
神は人類を幸福にするものしか「天」には置いていません。
人類がその未熟と悟り不足から勝手に神の体を「天」に置いて、勝手に地獄に堕ち、勝手に不幸な世界を作っているのです。
それで気候変動まで引き起こしています。
神への信仰を失った人間は、必然的に神の心を求めなくなり、求道心を失い、正しき心を探究しなくなります。
すると当然、諸神霊や善霊からの啓示やインスピレーションも受けられなくなり、未熟が恒常化し、徐々に悟りが低下しいき、悟りの低下は人格性の低下を招きますので、主客合一の法則上その未熟はダイレクトに客観の世界に反映されていきます。
諸神霊の本音は、永遠に神の心に在るのであって利益や富を本音にしている神霊は存在しません。
にも拘らず、人間の方が利益を本音にしますと、波長同通の法則から神の心を本音にしている諸神霊と同通しなくなるのです。
そして一人、また一人と高級霊はその教祖から徐々に離れていくのです。
そして啓示を受けられなくなり、悟りも低下し、人格性も劣化し、高度な真理も説けなくなり、利益と快楽を本音にしている良からぬ霊の干渉をみずから招いていくのです。
そういった教祖がどこかにいたはずです。
利益と富を本音にしていたため波長同通の法則によって神の心を本音にしている諸神霊と同通できなくなり、自己の利益と快楽のために嘘をつくようになり、嘘ばかりついている悪霊や悪魔と波長同通してしまい、その介入を招き、最後は死んでしまった教祖がいました。
これは明らかに悟り不足を示しているものであり、悟りに未熟があれば、悪魔は容赦なくその悟りの未熟につけ込み、その人間の心を蹂躙していくのです。
では何故、悟りが低下を続けたのか?
正しき心の探究を怠ったからです。
では何故、正しき心の探究を怠ったのか?
正しき心、すなわち神の心を求める求道心に致命的な欠陥があったからです。
では何故、求道心に致命的な欠陥が生じたのか?
神を信ずる心を失ったからです。
全てはその教祖の信仰の欠如が招いた身から出た錆です。
人類と世界を良くするものとは、永遠に神の心しかないのです。
その人類と世界を唯一良化できる神の心への信仰を失ったのです。
神への信仰を失えば、必然的に求道心が失われ、求道心が失われれば、神の心を探究しなくなり、神の心を本音にしなくなります。
すると神の心を「永遠の本音」にしている諸神霊は、波長同通の法則の作用によってその者から離れていき、みずからも神の正しき心を探究していかなくなるため自己の悟りが増々低下を続けるのです。
悟りが低下するだけならまだしも、その内恐ろしいあの波長同通の法則が作用し、その者の本音の通りの邪霊を呼び込み、周りの者を全て巻き込み、人心の大事故を起こしていくことになるのです。
人類各人の未熟が世界の諸問題と不幸の全ての原因ですが、その未熟は神への信仰を失ったがゆえに現象化しているのです。
諸神霊の指導なくして高い悟りを得ることはできず、高度な真理を説ける者もまた存在しません。
諸神霊の指導なくして自己の心を進化・成長させることはできないのです。
その人間の心を豊かにし、善を通して進化させ、悟りに導いている諸神霊の本音は永遠に神の心なのです。
その諸神霊の本音を変えたり、変更したりすることは誰にもできないのです。
人間のように利益と快楽を本音にする神霊は存在しないのです。
人類を幸福にする心とは、神の真善美だけであり、神の真善美に導かれて地獄に堕ちる人間は存在しません。
みな天国に帰天して幸福と永遠の生命を得ます。
この宇宙では、その人類を幸福にする神の心が永遠に「天」に置かれている素晴らしい世界なのです。
宇宙において神が頑固に自己の心を「天」に置いて永遠に変更しないのは、人類を幸福にしたいという神の永遠の意志のあらわれです。
神は子に良きものしか与えないのです。
神が人類を不幸にするものを「天」に置くことは永遠にありません。
勝手に置いているのは人間の方です。
そして勝手に不幸になっているのです。
人類は神への正当な信仰に覚醒しなければならないのです。
神への信仰を失えば、求道心も失い、真理の探究もしなくなり、自己の心は恒常的に未熟な状態に置かれます。
その未熟が全ての不幸と世界の諸問題の原因なのです。
神への信仰を失ったがゆえに全世界は腐敗していったのです。
神への信仰を失えば、神の心が本音とはならず、神の体が本音となり、必然的に心地の良い相対的な利益と快楽を本音にするようになるのです。
すると神の真善美を本音にしている諸神霊も波長同通の法則上介入できなくなり、増々人類はその利益と快楽によって傲慢になっていくのです。
世界は神の心によって腐ったのではなく、この相対的な利益と快楽で腐ったのです。
では何故人類は相対的な利益と快楽に耽ったのか?
神への信仰を失ったからです。
たったそれだけの理由で全世界は腐敗し、気候変動で気候まで狂い、生態系は絶滅し、多くの人間もまた地獄に堕ちているのです。
この世界は、人類の側が神への信仰を失えば、自動的に人類自身が不幸になるように創造されているのです。
諸神霊が軒並み神への信仰を説くのはこれをみな知っているからです。
正義が「天」であり、利益と国益は「地」で、永遠に天地一体です。
幸福が「天」であり、快楽が「地」で、永遠に天地一体です。
良心(神我)が「天」であり、自我が「地」で、永遠に天地一体です。
人類は今、この神の造られた正しき世界と逆の文明を作っているのです。
利益と国益を「天」に置き、快楽を「天」に置き、自我を「天」に置いているのです。
では何故、利益と国益を「天」に置き、快楽を「天」に置き、自我を「天」に置いたのか?
神への信仰を失ったからです。
だから相対的な自我のままに生きるようになり、あの恐ろしい波長同通の法則によって同じく相対的な物質の方面に支配され、神が永遠に「地」と定めているものを「天」に置いたのです。
神への信仰を失えば、必然的に人間は神の体に支配され、まさに自動的に人類は不幸になっていくのです。
人類の幸福の原理の基本と土台とは、神への信仰なのです。
神への信仰なくして人類は幸福にはなれないと言ってもいい。
この文明は罪の文明です。
次世代の真文明では、現代人と同じ間違いを犯してはならないのです。
次世代の文明では、「信仰の必然性」をもった神への信仰を土台とした新たな文明を建設していかなければなりません。
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