神は宇宙の統一者であり宇宙は神の表現である : 西田幾多郎(善の研究/225頁)
宇宙は神の心の表現体ですので神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
宇宙や自然界には完全なる神の心が表現されておりますので、エマソンは自然を完全だと言ったのです。
聖書や仏典など人間の手によって書かれた書物には、完全なる神の心は表現されておりませんが、宇宙や自然界には完全なる神の心が表現されているのです。
悟りの劣る人は、えてしてこのエマソンの言葉を誤解して、神の心が完全であることは認めるけれども、神の体の物質界はそれほど完全ではないと神の心と神の体を分けて理解しがちですが、神の心と神の体は分けられないのです。
神の心は統一であり、神の体は矛盾です。
統一するものと統一せられるものとは一つであり、統一と矛盾は切ることはできず、切ったら実在とはならず、自我となり、有限となり、方便の善に落ちます。
統一と矛盾の関係は、統一即矛盾であり、双方は一実在の両方面です。
従って統一がなくなれば、矛盾もなくなり、矛盾がなくなれば、統一もなくなります。
矛盾がなければ、統一はあらわれようがなく、統一がなければ、矛盾もあらわれようがない。
統一即矛盾の宇宙の姿を通して、神は人類に永遠に生き方を教えています。
人間の自我や表面意識は、その知識・思考・概念・認識・情操、みな相対的な性質しか有しておらず、すなわちそれは「矛盾」を意味します。
この「矛盾」ゆえに生長の家では、本来、物質なしと言い、GLAでは表面意識は悪であり、潜在意識は善である。
これを悟ったならば、悟りの境地に入ったと見てよいと残しているのです。
物質や表面意識の捉え方が、どちらも不完全であり、要は悪の問題について不正確な点が見受けられるのです。
物質なしと言い切ったところで目の前の物質が忽然となくなるわけでもなければ、表面意識を悪と断ずれば、人間は永遠に悪の存在になってしまいます。
宇宙は神の心の表現体であり、物質の矛盾はこの大宇宙では、神の心によって永遠に統一されているため善として存在しています。
だから大宇宙や自然界は永遠に美しいのです。
人間の創る文明が醜いのは、神の心によって統一されていないからです。
表面意識の矛盾は、信仰と悟りによって神の心と合一した時、統一即矛盾の宇宙の姿に戻り、人間の表面意識も善となります。
高橋信次氏は、神の心と合一していない人間の表面意識を見て悪と言ったのです。
神の心と合一していながら、なおその神の心と合一している表面意識を悪というならば、人間は永遠に善の存在にはなれず、永遠に悪の存在ということになり、神が悪を創造したかのような誤解を生みます。
正法とは、神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけです : モーゼ
すなわち神の心(統一)と合一すれば、人間(矛盾)は全て善の存在になるということです。
神の心が存在しなければ、人間は善の存在にはなれませんので、その矛盾した自我だけを見れば、高橋氏が言っていたように人間の表面意識(矛盾)は悪です。
表面意識(矛盾)が悪なのではなく、神の心と合一していないから悪なのです。
アダムとイブは、神の言うことを聞かず、禁断の知恵の木の実を食べた時、神の心と離れてしまったのです。
だからエデンの楽園から追放され、現代人と同様、不幸な世界に生きることになったのです。
エデンとはヘブライ語で「歓喜」、いわゆる幸福の楽園であり、神の心と人間の心が離れた時、人間は不幸になることを寓話で残しています。
アダムとイブは神と共に暮らしていた頃はエデンの楽園で幸福に暮らしていたのです。
ところが神の心と離れた時、アダムとイブは不幸になっていったのです。
神の心と人間の心が離れた時を悪と言い、罪と言います。
世には往々、人間は何故神を信じなければならないのかを問う人がおりますけれども、神への信仰なくして人間(矛盾)は善の存在にはなれないからです。
神の心とは統一する者であり、人間の心とは矛盾ですので統一せられる者です。
神の心とは統一であり、神の体は矛盾です。
統一即矛盾の宇宙の姿を通して、神は人間(矛盾)に信仰と悟りを通して、神の心(統一)と合一して善の存在になりなさいと永遠に教えています。
神の心と合一している人の中で地獄に堕ちる人は一人もおりませんけれども、神の体と合一している人の中で地獄に堕ちる人は多いのです。
神の心を信ずれば、必ず人類は幸福になり、神の体を信ずれば、必ず人類は不幸になります。
これは過去・現在・未来を通して変わらない宇宙の理法ですので、人間が屁理屈でどうこうできる理法ではなく、変更も不可能です。
「地」の問題を悪の問題というのであり、「地」の物質とは「目的」にもならず、「否定」もできず、そしてなくすこともできません。
「本来、物質なし」の如き教えは、この「否定」の方面に偏っているためにその教えが有限化してしまうのです。
この「偏り」は、自我の作用だからです。
目的と否定の両極端の中道に入らなければ、神の心に入ったとは言えません。
左右の両極端を捨てて中道に入れ : 高橋信次
真理と現象利益の左右の両極端、神我と自我の左右の両極端、精神と物質の左右の両極端、統一と矛盾の左右の両極端、幸福と快楽の左右の両極端、天と地の左右の両極端を捨てて中道に入れということです。
この左右の両極端を統一している地点に神の心は存在します。
ここにのみ無限と完全、永遠と絶対があるからです。
宇宙の存在を神と言いますので、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全霊人をその神の心と神の体で永遠に支配しています。
支配していると言うより、指導していると言った方が正確ですが、指導しているということは神と人間は永遠に一体で生きているということです。
波長同通の法則と因果の理法で全人類を手取り、足取り、日々指導しています。
誰であろうが、その心から善を出せば、善霊と同通しますし、その心から悪を出せば、悪霊と同通します。
自己の心が善を出しているのに悪霊と同通することはなく、自己の心が悪を出しているのに善霊と同通することもありません。
誰であろうが、その心が善因を創れば、善果の御利益があらわれますし、その心が悪因を創れば、悪果のバチを受けます。
人間は善を経験し、悪を経験し、御利益を受けたり、バチを受けたりしながら、波長同通の法則と因果の理法を通して、要は神の善悪を学んでいるのです。
無理やり学ばせられていると言った方が正確です。
波長同通の法則そのものを神と言ってもいいし、因果の理法そのものを神と言ってもいい。
11次元大日意識の作用そのものです。
善因善果、悪因悪果の因果の理法は、あの地獄の帝王・ルシフェルですら毛筋一筋傷つけることはできません。
1億2000万年という数字が、まああれですが、たとえ1億2000万年ルシフェルが神を犯そうとして、あるいは傷つけようとして、ずっと悪を犯し続けても、常に悪因悪果の悪果のバチを受け続け、自己の魂が汚され続けているのは、ルシフェル自身であって、因果の理法の方は毛筋一筋の傷もありません。
善因善果、悪因悪果の因果の理法は完全です。
因果の理法自体は、犯そうとしても犯せず、傷つけようとしても傷つけることができず、壊そうとしても壊せず、汚そうとしても毛筋一筋汚すことができないのです。
善を為して善を受けるのも自分ならば、悪を為して悪を受けるのも自分です。
神を汚そうとして、悪魔が何万年悪を為そうとも、汚されるのは常に悪魔の方であり、因果の理法自体は露ほども汚されることはないのです。
因果の理法自体を神の心と見ていいのです。
ではルシフェルですら犯せず、傷つけられず、壊せず、汚すことのできない因果の理法と人間の関係とはどうなっているのか。
因果の理法と人間の関係は一つです。
因果の理法と人間の心が合一すれば、その人間もまた因果の理法と同様、犯すこともできず、傷つけることもできず、壊すこともできず、汚すこともできない金剛心の我となり、実相心の我となり、不壊心の我となります。
これが神人合一の悟りです。
かく最深の宗教は神人同体の上に成立する。
人生の意義とは、これを獲得するにある : 西田幾多郎
既存の文明は、この神を失っている文明です。
神の心と合一していれば、一人も地獄に堕ちることはないのに、実際6割弱の人が地獄に堕ちているということは、神の心と6割弱の人が離れているということであり、無神論の悪い弊害です。
真理上の御利益とは宇宙論です。
神への信仰と悟りによって人間の心が進化・向上した時、見られる世界は、見る者の心の世界の通り、これを原因として結果あらわれる物質を御利益と言い、現象利益と言います。
神の心が真理であり、神の体は現象利益なのです。
利益とその快楽は物質の属性です。
現代の文明は、神が永遠に「地」と定めている相対的な利益と快楽を「天」に置いている罪の文明なのです。
宇宙では相対的な利益と快楽は永遠に「地」に置かれておりますので、これを「天」に置けば、眼前の大宇宙、すなわち神と人類が分かれてくるのです。
神の心と人間の心が分かれることを悪と言い、罪と言うのです。
宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪です。
相対的な富を「天」に置いた資本主義、人民共通の相対的な利益を「天」に置いた民主主義、相対的な物質を「天」に置いた唯物論、全て神の体を「天」に置いている文明なのです。
神への信仰を失っている証拠です。
神への信仰を失った人間は、必ず相対的な自我のままに生きておりますので、波長同通の法則の作用によって必然的に相対的な物質(神の体)の方面と同通し、物質は「地」ですから「地」に向かい、神の心からどんどん遠ざかっていくために世界は悪化し、自動的に人類は不幸に堕ちていくのです。
このメカニズムによって神への信仰を失えば、自動的に人類は不幸になるのです。
諸神霊が人間に信仰を促すのは「ダテ」ではないのです。
人間の側が信仰を失えば、必ず人類は不幸になるように宇宙は造られているのです。
宇宙がそう造られているということは、諸神霊だけではなく、神もまた人間に信仰を促しているということです。
神への信仰を失えば、人間は必ず神の体に支配されるために不幸に堕ちていくのです。
そして神が永遠に「地」に置いておられるものを、全て「天」に置くようになるのです。
実に傲慢な文明ですが、神への傲慢とは相対的なものを絶対化し、神が永遠に「地」と定めているものを「天」に置くことです。
相対的な自我を絶対化し、「天」に置いて生き神さまとなり、波長同通の法則の作用によって同じく相対的な物質と心が同通し、物質の属性である「矛盾」に支配され、法が矛盾だらけとなり、最後は心が壊れて死んでしまった教祖がおりましたが、いつの時代の文明であろうが、この神への傲慢によって教祖のように滅び去っていくのです。
おのれを高こうする者は地獄に置かれ、おのれを低うする者は天国に置かれるのです。
相対的な自我は「地」であり、低いものだからです。
その低い自我を天高く置く者は、個人であれ、人類全体であれ、神の偉力によって修正されるしかありません。
もし自浄能力がなく、修正が不可能な場合、死ぬしかなくなるのです。
神の造られた世界は、この世であれ、あの世であれ、大宇宙であれ、多次元世界であれ、全て神の心が永遠に「天」に置かれています。
ところが人間の創る文明は、神の心と逆であり、神の体を「天」に置いてしまっているのです。
人類各人の未熟と悟り不足がよくあらわれている文明です。
そういう神の御心と反することを延々とやっているわけですから世界は良化する可能性すらなく、このまま世界は悪化と腐敗を続け、生物の絶滅は進み、多くの人も地獄に堕ち、気候変動も激しくなっていくでしょう。
利益と快楽とは、物質の属性なのです。
資本主義も唯物論です。
民主主義も唯物論です。
社会主義も唯物論です。
神の体(物質)を「天」に置いた世界で人類の幸福はないのです。
大宇宙は神の心が永遠に「天」に置かれているために美しく、幸福な世界になっているのです。
それでなくとも未熟な人間は地獄に堕ちるリスクが高いのに、更にそのリスクを高めるかのように神の体を「天」に置き、神の心を追うのではなく、神の体を追うことを強要しているのです。
未熟な方にとっては非常に残酷な世界だと思う。
ただこの世界を元の神の世界に戻そうとすれば、民主主義から資本主義まで全てを一旦破壊して更地にしなければならなくなります。
ここで最終判断はこの世の人間ではなく、神と諸神霊に移っていきます。
全てを一旦、白紙に戻せるのは神と諸神霊だけだからです。
果たして未来の何の罪もない人類に、今まで通り、また神の体を追わせるのか、あるいは大宇宙と同様、神の心を追わせるのか。
前者の判断を下すならば、随分と無責任な神霊ということになりますし、今回我々はその無責任な神霊の存在を目の当たりにしました。
神の体を「天」に置いた世界で人類の幸福はないのに唯物論を擁護し、更にそれを選び取り、続けよと扇動していた救世主がいました。
人類の救い方も知らず、人類の幸福の実現の仕方も知らないのに救世主宣言をしていたのです。
何を根拠に?、と思いますが、恐らくあの世の霊格を根拠に救世主宣言をしていたのです。
果たして諸神霊は、神の体を「天」に置いた世界をこのまま続けるのか、あるいは神の心を「天」に置いた文明を創るのか、どちらの判断を下すのか。
答えは目の前の宇宙に出ているわけですが、神が大宇宙において永遠に神の心を「天」に置いているということは、神の心を宇宙と同様、「天」に置きなさいと教えているのです。
正しいのは神の心を「天」に置いている大宇宙の方であって、神の体を「天」に置いている我々の文明の方ではありません。
間違っている方が正すべきです。
次世代の真文明とは、宇宙と同様、神の心を「天」に置いた信仰の文明です。
神と諸神霊も同様の判断を下すことを望みます。
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